人を愛しいと感じるのは初めてだ。
 側にいすぎると、うざったく感じるのに、
 いなくなった途端狂おしさが胸に募る。
 くっと自嘲する。
 罠にはまったのは俺だよ、ルシア。
 一ヶ月の期限なんて待ちきれずにお前を呼び戻してしまうかもしれない。
 お前は俺と離れて平気なのか。
 家族と天秤にかけさせて辛い選択を強いておきながら
 なんて傲慢で、独善的なのだ。
 彼女を今度は完全に手に入れたい。
 戻ってきたら二度と離してやるものか。
 俺しか見えないように独占してしまおう。
 首にかけているクロスを手の平で弄びながら、宙を睨む。
 それには、ルシアの匂いが染みついていた。


 私が祈りを捧げることは、神への冒涜ですか。
神など大して信じていなかった私は、やがて
黒魔術を使うようになり黒魔術師を愛した。
 願うのは、黒魔術師の無事ばかり。
 今どうしているだろうか。離れて間もなくとも
 彼の事ばかり考えてしまう。
神なんて信じていなかったのに、今は強く神の存在を感じてる。
 クライヴとめぐり合わせてくれたんだもの。
 首を横に振る。
 顔に出てしまってはないだろうか。
 頬を染めて恋をしている表情をしてはいない?
 お父様に気づかれたら咎められる。
 神官の娘にあるまじき行いだと。
 後姿だけど、お父様は背中にも目があるように感じられる時があった。
 人の気配を鋭く察する力を持っているのだ。
 無論魔術が使えるわけではない。 
「ルシア、何か話したいことがあるのでしょう? 」
 くるりと振り返ったお父様が、真っ直ぐに眼差しを向けてくる。
「……お父様には隠し事なんてできませんね」
「あなたが分かりやすいのですよ。顔に全部書いてありますからね」
 お父様はおかしそうに笑った。
 途端に顔を赤らめてしまう。
「もう……デリカシーがないわ」
「おやおや誉められているんでしょうか」
 笑いが零れる。
 空気が和んだ。
 楽しい。
 神の御前だからあくまで小さな声での会話だが、
 ひそひそと話す声は静かな神殿に響いていた。
「今日は、エルが帰ってきますよ」
「お姉さまが」
 コンプレックスだった姉。
 彼女は結婚して家を出て久しい。
 問い返すとお父様は小さく頷いた。
 さりげなく話を変えてくれる優しさに深く感謝する。
 待ってくれるということだ。
 口には出さなくてもこの人を尊敬していた。
 つくづく神官に相応しい人なのだと感じる。
 待って下さい。
 後で必ず話しますから。


 午後まで散歩に出かけた。
 部屋の中で鬱々と考えるよりも
 外を歩いて空気を吸って、じっくりこの時代に浸りたかった。
 クライヴやあの時代のことを考えるのではなく、気分を変えて。
 久々に家族揃って昼食を食べた。
 母と父と食べるのが久々のせいでまた泣き出しそうになって、  慌てて笑みに変えた。
 豆のスープと、パン。
 固パンは日持ちのする保存食だ。
質素な食事だが、今日は一際豪華に見えた。
 食事の内容そのものではなく、家族で囲んでいる温かい食事だからそう感じるのだ。
 食べ終わり部屋に戻って暫くゆっくりしていた時、控えめに扉が叩かれた。
 コンコンと一度だけで、声は聞こえない。
 ああ、お姉さまだ。
 耳を澄ませなければ聞こえないほどの音。
 物音一つ立てずに過ごしていたから、聞き取ることができた。
 どうしてそんなに控え目に振舞えるのか一度尋ねてみたいと思っていた。
「どうぞ」
「お久しぶりね、ルシア」
「お姉さまもお変わりなく過ごされていましたか? 」
「ええ、あの方はとても気遣ってくださるから」
 あの方というのは彼女の夫のこと。
 昔、憧れていた男性だ。
 物腰が柔らかくて、いつも優しかった。
 姉エルと相思相愛なのだと聞かされた折に感じた寂しさは
 どういう種類のものだっただろうか。
 妹のように思ってくれていたのと同じく私も姉の夫を兄のように
 感じていたから、盗られたと感じたのだ。
 普通なら姉を盗られたと思うのだろうが、私の場合は、違った。
 今となっては全部過去のことだ。
 物憂げな視線をぶつけていたらしい。
 目を細めてこちらを見ている姉の姿に気づいた。
 とりあえず隣りに座るのを勧めると姉は頷いてすぐ横に腰を下ろした。
「綺麗になったわね」
「え? 」
 思わず目を瞠った。
「お世辞でも何でもないのよ。真実を口にしただけ。
 一年会わない間に、あなたは本当に美しくなったわ」
 私にそんなことを言う姉の方がずっと美しかった。
 以前より輝きを増している。
 内側から滲み出るような。
 きょとんとしてしまう。
 どう反応すればいいかわからなかった。
「恋でもしているのね」
「……恋じゃなくて恋愛なんだと思います」
 胸にあるのはもっと深い気持ち。
「びっくりするくらい大人なのね、ルシアは」
 何を思ったかふわと抱きしめられる。
「嬉しいけど少し寂しいわ。あなたを夢中にさせている男性に嫉妬しちゃう」
 茶目っ気たっぷりのお姉さま。
 髪からは甘い香り。
「私だって、お姉さまとイグラスさまがご結婚されて寂しかったわ」
 冗談っぽく笑った。
 軽口で話せる事柄だった。
「お姉さまはお幸せ? 」
「幸せよ」
「今日突然いらしたのは……」
「久しぶりに妹に会いたいと思っただけのことよ……
 ふふ本当はそれだけじゃないのだけれど」
 思わせぶりに微笑んだお姉さまは私の手を自らの腹部に触れさせた。
 恐る恐る見上げれば、眩しい眼差し。
「三ヶ月に入ったところよ。
 まだ動いたりしないけど確かにここで新しい命が育ってる」
 温かい気持ちが胸に宿った。
 じんわりと嬉しくなる。
「おめでとうございます」
「ありがとう、ルシア」
「この子が生まれる時あなたは、ここにいるのかしら」
「どうして」
 暴かれている感があった。
 私は未だ何一つ話してはいない。
 この人には隠し事など不可能なのだろうか。
「あなたはここではない何処かを見ているんではなくて? 」
 お父様よりも鋭いかもしれない。
もっと本質を見抜いている。
「お姉さま……」
 目がじんとした。
 ぽろぽろと涙が落ちてくる。
 頬を伝うそれを白い指先が拭い去る。
「愛する人と家族と天秤にかけなければならない時、
 しかも、愛する人を選んだら家族とは二度と会えなくなると
 いう場合、お姉さまならどうなさいますか?
 ご結婚されている方にお訊きすることではありませんけど」
 苦笑している私に対してお姉さまは真顔だった。
「そんな選択をしなければならない相手なのね」
 こくりと頷く。
「私は家族ではなく愛する人を選ぶわ。
 お父様もお母様も後悔しない生き方をしてほしいと思うはずだから。
 究極だけれどね。一生を捧げてもいい恋愛って中々できないと思うのよ」 
 強い断定の口調に、息を飲んだ。
「結婚してるから余計にイグラスのことに当てはめて考えるのよ。
 彼の事は誰にも譲れないくらい深く愛してるから」 
 強いな。私もこんな風になりたい。
「……、お話聞けてよかった」
 ほうと息を吐く。涙はとめどなく溢れ出す。
 頭を撫でてくれる手は、想像以上に柔らかく温かかった。
 3つ歳の差の彼女が、苦手だったけど 
 今は素直に気持ちを言えそうよ。 
「お姉さま、大好き。どうか健やかな御子をお産みになって下さいね」
「……ルシア」
 背を抱く腕に力が込められる。
「あなたを応援してるけれど
 さすがにはっきり言われちゃうと辛いわね。
 もう会えないなんて……」
 涙混じりの声が耳元に届く。
「ごめんなさい」
「いいのよ。強いあなたでよかったって思うから」
 泣きながら、笑った私の頬に小さな口づけ。
 くすぐったくて恥ずかしくてはにかんだ。
 するりと腕を離した姉が部屋の扉を明ける。
 小さく手を振ってじゃあねと、また会うみたいに言ったから
 私は嗚咽を止められなかった。
 悲しませてごめんなさい。
「……最後にお会いできてルシアは幸せでした」
 お姉さまは実家に短い時間顔を覗けると、旦那様であるイグラス様の迎えで帰っていった。
 私は部屋で対面したのが最後となってしまった。
 こうしてこの時代に戻って10日目の夜は過ぎていった。
 それから身の回りの整理整頓や掃除に数日費やした。
 もう二度と戻れない場所へ、最後のお別れと今まで
 ありがとうの気持ちを込めて徹底的に綺麗にした。
 一人もくもくと掃除に精を出す私に、母も父も訝しがっていて変な感じだった。
 怪しまれ薄々感づかれているのだろう。
 でも、私って怠け者だったってことかしら!
 失礼しちゃうわ。
 何て気を逸らしてみても胸は身勝手に痛んだ。
 決意は固まってるのに言い出せない。
 ぎりぎりになって言うなんてそれこそよくないと分かっている。
 悶々と思考を繰り返している私の顔を見て、どうやら父も母も声をかけづらいようだ。
 やっぱり顔に出てるのね。
「……お父様、お母様、お話があります」
 ようやく切り出したのは期限があと3日まで迫った日のこと。
 勇気を奮えるまで大いに時間がかかった。
 優柔不断にも程がある。
 お姉さまには割りとすんなり言えたじゃない。
 多分、普段会わない人だからその分気安かったのだ。 
 お父様とお母様は共に暮らしてきた。
 17年間側を離れたことなどなかった人達だ。
「私はこの家を出て行こうと思います」
 すらすらと滑り出した言葉。
 平静を保とうと必死で取り繕った。
 顔に出やすい私でも仮面を被らなければ。
 泣かずにお別れを言う為に。
「ルシア」
 お父様の呼びかけでぴんと張り詰めた空気が、震えた。
「何かに急かされたように動くあなたの姿はまるで身辺整理をしているようでした。
 本当にルシアは分かりやすいですね」
 少し寂しげにお父様は笑った。
「……皆行ってしまうのね」
 お姉さまも私も揃って家を出る。
 お姉さまはお嫁に行っただけだからまた会えるけれど……
 私の場合、今生の別れを告げるのだ。
「ごめんなさい」
 ぽろりと出てしまったのは謝罪の言葉。
 私は、こんな風にしか言えない。
「取り消しなさい、ルシア。
 お前は私たちに悪いことをするわけではないでしょう。
 悩んで苦しんで決めたことだ。誇りを持ちなさい」
 厳しくも心に響く言葉だった。
 お父様は気づいていたのだ。
「……ありがとうございます」
 親不孝な娘を許してくれとは言わない。
 寧ろ恨んでくれていいから。
「せめて理由を教えてくれるのが道理だと思うわ。
 それも駄目かしら? 」
 お母様の懇願にふるふると首を振る。
「好きな人と一緒に生きる為です」
 きっぱりと言い切った私の瞳は、二人にはどう映ったのか。
 父に抱きしめられた後、母がぎゅっと背中を抱いてくれて。
「たとえ二度と会えなくなっても、二人の娘であることは変わらないから。
 ルシアはお父様とお母様のご無事を永久に祈ってます」
 結局涙ぐんでしまったけれど、振り切るように顔を上げて笑った。
 明るいルシアを二人に見せられて私は満足だった。
 最後の三日間、私は今までと変らない様子で二人と過ごした。
 父も母も表面上に出さないようにしてくれているのが
 分かったから、それに報いるよう自分の決断を信じて真っ直ぐ往こうと誓った。
 さよならを言わないのはずるいだろうか。
 いつ出て行くともはっきりとは告げずにいたけれど、
 父も母も尋ねてこなかった。
 まるで神隠しにあったようにいなくなったら、
 私の存在さえこの時代の歴史上から消え失せるのだろう。
 取り消せない選択。
 私は、彼以外選べなかった。
 唯一の人と出会ってしまったの。
 いつもと同じように、部屋に戻るとその名を声の限り叫んだ。
「クライヴ! 」
 瞳を閉じながら、手の平を組んで重ね合わせて、愛しい人の姿を脳裏に描いた。
 光の渦に飲み込まれ、あっという間に  私はこの時代から、消え失せた。
 あっけないほど簡単に。
 そうだ、最初もこうやって召還されたのだ。
 


7.追憶の風   9.口づけの呪文
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