欲情  


 さりげなく、新しいカップにお茶が注がれ、ふ、と見上げる。
 眼鏡の奥で神秘的な眼差しを隠して、微笑む完璧な執事。
 出会ってから、恋をして肌を重ねて、
 狂おしいほどの感情を知った。
 お互いしか見ていない瞳。
 刹那的な恋だと知りながら、それでも想いを消せないままに。
 静寂に満ちた空間の中、二人きり。
 ここは屋敷の中だ。
 どんな状況を見られても、言いわけなどできない。
 無難に取り繕っても、
 疑念の種を残してしまうだろう。
 用意周到に鍵をかけるイアンの姿を見た時、逃げられないと悟った。
 ジュリアはうっすらと微笑む。
 テーブルの下で、重なった手のひらにびく、と震える。
 カップにお茶を注いでいたはずの手が、膝の上にある。
時が止まったかと思った。それほど動揺した。
 手のひらが微かに触れ合っただけで、こんなにも胸が高鳴る。
 そんなことしては駄目だと言い聞かせているのは、
 相手への牽制か、自分の気持ちを抑えているのか。
 悪戯に揺さぶるイアンは楽しんでいるのだ。
 調子に乗って指先で指を撫でる彼は、吐息を吹きかけて誘う。
 闇の向こうへと引きずりこもうとする。
 肌の上をやさしく愛撫するように、
 手のひらをゆっくりとさすられる。
 微かなふれあいが体に火をつけていく。
 手袋越し、生地が擦れて微妙な刺激が伝わってくる。
「……やめて」
「どうして? 気持ちいいでしょう」
 ジュリアは後悔した。
 手を繋いでしまえば、相手の思うがままに進んでしまう。
 彼の思うままに進んでしまう。
 テーブルに肘をついたイアンが顔を傾けてくる。
 影が重なる。膝の上で、ドレスの裾をつかんだ。
 キス……。
 少し温度が低いイアンの唇が、唇に触れ、うめいた。
 じれったいままに、口づけで翻弄する彼が憎らしくて、睨みつける。
 耳元でささやかれた台詞に羞恥を煽られてしまう。
(彼の導くまま堕ちるだけ)
 カタン。派手な音がして、気がつけばテーブルの上、見下ろされていた。
 覆いかぶさる影の向こうに、一筋の光。
 闇の中美しく輝く明日は幻?
 淡い熱がぶり返す。
 意識を絡め取られて、イアンだけを求める。
 繊細な指先が、触れては離れることを繰り返す。
 熱が混ざるキスが、たまらない気持にさせた。
 愛していると言い合いながら互いを抱きしめる。
 瞳の奥から溢れた涙が、勝手に落ちていく。
 私を愛してくれる眼鏡の紳士は、完璧な微笑みを浮かべていた。
 鳴り響く動悸は止まないまま、一層激しくなる。
(このままでは壊れてしまうのかもしれない。
 いっそ、それならいいのに、これ以上わがままになる自分が怖い)



イアンを見つめる深い蒼は何もかも見透かしているに違いなくて、時折恐れを抱く。
 愛していると叫んで誰もに教えたい、ジュリアとの絆を。
 こんなにも深く愛し合い求めあっているのだと。
 けれど、誰にも知られたくはない。
知られた時破滅を迎えるだろう。
 表面上は二人の間には、何もない振りを装って。
 ジュリアを愛する男ではなく忠実に仕える執事というだけだという
 ことを他者に見せつけなくなくてはならない。
 今が続くためには、ギリギリのスリルが快感だ。


 テーブルの上に散った金髪が、美しく淫らだった。
 キャンドルの下で明りに映える、その美貌。
 儚さと強さを湛えた彼女は、ジュリア・アダムス。
 初めて出会った日に惹かれ、焦がれあっという間に夢中になった。
 孤独な横顔と気高き眼差し、魅惑的な体。
 欲しいと希った時から既に戻れなくなっていて、
 手に入れた瞬間、イアンは自分が堕ちていくことを自覚した。
「……イアン、何か話して」
「何を」
首をかしげてみせた。
「あなたの話なら何でも。寝物語でも構わなくてよ」
 ジャケットを放り投げ、忙しなくタイを外す。
 眼鏡も、テーブルの隅に避けた。
 裸眼で、組み敷いたジュリアを見つめる。
 甘さを混ぜた鋭い視線で貫いた。
 細い指が、シャツのボタンを外す。
されるがままになりながらこちらも攻める。
 乱した襟元から除く、首筋の白さにひきつけられた。
「っ……」
 思わず、花を咲かすためにきつく口づける。
 シャワーで流せばすぐに消えてしまうことを知ってから、どんどん大胆になっていった。
 それでも、微かに唇は震えた。
今更躊躇いも何もないというのに。
 繰り返すキス。
 脳内にイメージする景色はぼんやりと頼りなく、現実より美しい。
 引力に抗いきれない腕が、無造作に投げ出されたのを見て、手のひらを繋ぎ合わせた。
 かすかな音をたてて肌をたどる、唇。指の腹で撫でる柔らかな曲線。
 ドレスが皺くちゃに乱れる。裾を割って、素足を指でたどった。
「意地悪だわ。中から鍵までかけて計画的なのね。
 ……いつばれるか知れないのに」
 吐息混じりの声音で抗われても、止まれない。むしろそそられるだけ。
「ひと時でも離れていたくないくらいなのに……あなたはそうではないのですか? 」
 一瞬、苦しげに眉をしかめたジュリアが、頭(かぶり)を振った。
「まさか。私だってあなたと離れてしまうのは嫌よ。
 ……たとえ体が繋がっているのはつかの間でも心はひとつに繋がっているんだもの」
「可愛い殺し文句だ。愛していますよジュリア」
「……っ……愛してるわ」
 イアンと名前を呼ぶ前に、唇を塞いだ。
 絶え間なく紡がれる甘い吐息に狂わせられる。
 ひとつになれれば、悦び以外に何もなくて、明日もこれで生きていける。
 愛しい人に温もりを与えられるこの身があるのだから、十分幸せだ。
 目眩と陶酔が巻き起こり、体が目覚める。
 いきなり、ドレスの上から弄れば、押えきれない声が漏れた。
 荒っぽく、柔らかさを堪能する。
 ジュリアは、涙をこぼし、淡く頬を染めていた。
 快楽に歪む表情と声は、興奮を高める誘引剤。
 ドレスの胸元を乱し顔を埋める。  頭を押さえつけられ、より密着することになる。
 淫らに上下する白い胸元に、唇を寄せた。
 さらさら、と髪がかきまぜられている。
「……あなたは可愛すぎるから、ずるいな」
「どういう意味?」
「俺がどれくらい、惹きつけられているか知らないでしょう」
 仰け反らせた首に指で触れ、匂いを嗅ぐ。
 ふわ、と香る甘いは焼き菓子みたいで、さぞかし美味なのだろう。
 ごくりと喉を鳴らし、噛みついた。
 強弱をつけて歯をあてる。唇で吸い上げる。
 すすり泣きの悲鳴が耳をつんざく。
 イアンの中の欲望が、熱を増し、ジュリアを求めて、首をもたげていた。
 時間をかけて愛したいと常に願い、そうしてきたつもりだ。
 性急に求め合いながらも、大切な人を壊し作すことだけは
 しないように、もろい理性の仮面を被る。
   欲しいのは生身のジュリア。
 体ではなくその中身が欲しいのだ。
 指で撫でて、くすぐる手つきで触れた。
 身体を丸めて、子猫になったジュリアは、奔放にイアンから
 与えられるものを待ち侘びている。
 しどけなく唇を開き、薄く開いた眼差しで。
 妖艶な痴態を見せている彼女は、もう理性のかけらも残していない。
「抱いて……ねえ……早く」
 イアンの頬に手を伸ばして、微笑んだ。
「……我慢ができないのですか?」
 白々しく問う自分が、薄ら寒い。
 早く、繋がりたいのは、己の方だ。
 愛しい女性に甘えられて、堪えられる方がおかしい。
 それでも、笑う。
 妖しげに口元を歪めて、いたずらに指先をさまよわせた。
 眉をしかめ、指をかむ姿を見下ろす。
 なだらかな曲線は、何度辿っても飽きない。
 女らしさを増していく肌はイアンが愛した証。
 無粋な問いを、激情で跳ねのけたジュリアは言った。
屈辱を感じさせてしまった自分が許せなくて、うなだれた。
『あなたに抱かれてから、夫に抱かれたことは一度もないわ!』
 信じられなかったが、すぐに真実だと知れる。
 肌に余計な癖が残っていなかったのだ。
 意外にもスチュアートは、ジュリアを求めることがなかったらしいが、
 ……本当だろうかとそこは疑っている。
 彼女を目の前にして欲情しない男がいるなど考えられない。
 イアンは、欲情する自分を止められなかった。
「……あなたは、理性的なの。それとも抑えているだけ?」
 罪な唇に人差し指を乗せた。
「理性的であろうと、無駄な努力をしているだけなんだ。
 苦しいくらいジュリアが、欲しいって何故分かってくれない」
 潤んだ瞳が視界に映った。
「ごめんなさい……」
 涙を拭う。熱く神聖な滴が、指先を彩った。
「あなたを目の前にしてしまうと、苛めてしまいたくなる。
 ……傷つけるのではなく、甘く優しくね」
 手を置くと、胸が早なっていた。
「っ……イアン」
 唇を貪って、熱く触れて絡ませて  顎を伝う滴も掬いとる。
 指先は、奥へ、奥へと向かい、秘めた場所を探り当てる。
 いきなり、唇を噛まれ、血が滲んだ。
 赤いそれを舌で舐めとる。
 一気に、煽り過ぎたかと一瞬反省するけれど、
 痛みさえ快楽を掻きたてるスパイスになるのだと、
 熟知しているから、触れるのをやめない。
「綺麗ですよ……ジュリア」 
 耳朶を、強く噛んだ。
 湿らせて、卑猥な眼差しで見つめた。
 首を横に振って、いやらしく足を上げる。
 指が、すり抜けてしまう。
「……駄目じゃないですか」
 先の言葉は耳元で囁く。
 羞恥で顔を赤くしたジュリアが、足をじたばたと動かした。
「……いや……」
「何が嫌なんですか。言ってくれないと分かりませんよ?」
 忍び笑う。
「指を噛むのは止めなさい。子供じゃないんだから」
 高圧的に言い放ち、指を取り上げた場所に唇を与えた。
 夢中になって口づけを返す女の表情に囚われて、音を上げてしまうのは、時間の問題だった。
「……嫌なの。足りないのよ」
「……俺が欲しいの?」
 わざと、腰を寄せて触れ合わせたら、背中を逸らせた。
「あなたこそ、分かってるくせに」
「聞かせて」
 恥じらう姿が見たい。だから、くい、と指を動かした。
 起き上がり抱きついたジュリアが、イアンの耳元で囁く。
 たどたどしいながら、はっきりと口にした。
 可愛らしくて、泣けてくる。
 髪を梳いて、笑いかける。
「頑張ったあなたにご褒美をあげましょう」
 膝を割って、隙間がないほどに近づいたら、息を飲む音が聞こえた。
(お望みの物を与えてさしあげますよ)
 高らかな啼き声。
 抱きしめて、奥深くを目指す。
 焦がれた女性のすべてを手に入れられている。
「……愛してる……わ」
「俺の方がもっと愛してる」
 白い肌を汚しても、ちっとも穢れないジュリアが、愛おしく、少し、悲しかった。
 一体になれた悦びと同じくらい痛みが胸にある。
(あなたは、臆病なんだ。罪を犯すことを受け入れながら、俺に求め過ぎたりしない)
 交わり、同じ熱を分け合いながら、ジュリアは涙を落とす。
 イアンと肌を合わせる時、泣かなかったことは一度もない。
 少女のまま大人になったのだろう。
 テーブルの上で折り重なった体。絡みつく足が弛緩している。
 息を整えて、抱擁する。
 無邪気に笑う女性の頬に口づけて、腕の中に閉じ込める。
 イアンが、唯一失くせないと感じた大切な女性を。


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