Chocolate



 彼と会う前には、必ずチョコレートを口に入れる。
 この甘さに慰められる。
 口の中でじんわり溶けていく甘さは
 煙草の苦味に消えてしまうが、ため息は殺すことができる。
 だいじょうぶ、大丈夫、ダイジョウブ……。
 言い聞かせていると時折嫌になる。
 彼の名前は、遠野鷹。
 絵を描くことを生業としている。
 新進気鋭のアーティストで、私達は恋人同士……だと思う。
 彼のアトリエ兼自宅が、私達が過ごす場所だ。
 初めは、普通のモデルだったのだが、ある日突然  裸を描いてみたいと言い出した。
 ためらいを覚え、拒絶の意志を示したけれども、  ご褒美につられた。
『きっと、見せてくれたら抱きたくて仕方なくなるんだろうな』
 用意されていた言葉に思えた。
 一年が経とうとしている関係の中で、
 まだ、一度も結ばれていなかったから、彼の差し出したものに飛びついた。
   小鳥のさえずりのようなキスばかりでは、切なかった。
 欲望を暴かれた気がした。ずっと、彼に触れられたくてたまらなかった。
 絵筆を器用に操る指先で、触れてほしくて、心で泣いていた。
 衣服を脱ぎ落とした私は、ばさりと放られた音に目を瞠る。
 素肌にバスローブを羽織って、椅子に座ることを要求された。
 彼は近づいてきて、満足そうに、一度笑った。
 鉛筆でデッサンすることから初め、絵筆を手に取る。
 焦らして、見せればいい。
 意図を飲み込んで、ゆっくりと素肌を晒していった。
 椅子の上で、膝を立てる。
足を閉じては、開く度、羞恥で肌が染まっていく。
 俯いたり、僅かに身動きすると咎められてしまう。
 何度となくポーズを変えた。
 自然な表情がいいと言われたので取り繕わず素のまま。
 バスローブが解けかかった状態で、ベッドへ移動した。
 上向け、うつ伏せ、体勢を変化させる私を見つめて、デッサンする。
 完成させるのは、一体何枚なのか。
飽きるまで私を描き続けて、夜になった。
 白い肌が月明かりに照らし出されている。
 暗闇の中でも互いの姿は、捉えることができた。
 ふいに、こっちを見ろと言われて顔を上げた時、
 ほとんど着ている意味もなくなっていたバスローブが、ついに体から離れた。
 腕を交差させて胸元を隠す。
 昼間の明るさはないが、恥じらいは消せない。
 壁際に凭れていると荒い息がかかった。
 二人の間で空気が変わった瞬間。  自分から望んでいたのに、逃げ出したくなった。
 急に絵筆を投げ出した彼に組み敷かれて、心臓が跳ねた。
『うるさいねえ、ここ。ドキドキしてるんだ? 』
 ふくらみを掴みあげて、頂が口に含まれる。呻いてシーツを掴む。
 今まで、何故手を出さなかったのか不思議なほどの激しさで、彼は、私を抱いた。
 ふくらみを乱暴に愛撫され、幾度となく貫いて、
『痛い? 』
 ふざけた調子で聞いてくる。
『大丈夫』
「よかった」
 ふう、と息をついた彼の重みを感じた。
 薄い膜越しにありったけの熱を放たれて、高らかな声を上げた。
 荒い息をついた彼が、中から出ていく。
 昇りつめたばかりの私は、ぶるりと背中をふるわせた。
『……ううん』
『十分あげられたかな? 』
 指が、秘所をまさぐって、足を降りていく。
ぞく、としたものが体を駆け抜けた。
 立ち上がる気配に、はっとする。鼻につく煙草のにおい。
 うつぶせに横たわって、体を丸める。小指を噛んだ。


 それからキャンパスに向かった後は、私を朝が来るまで離さなくなった。
  『抱いた後のお前って危うい色気の中に、
漂う清純さがたまらないな。見ているだけでイキそう』
 キャンパスに向かう姿は真剣そのもので、私を必要としてくれているのがわかるが、
 耳を疑う台詞に、困惑する。
 そして時には悪戯に絵筆を肌に滑らせて、
 キャンパスに見立てて、首筋から足首まで、絵の具をつけていない筆先で辿っていくのだ。
『これじゃお前を汚しているみたいだ』
自然と声を漏らす姿を見て彼は楽しんでいる。
 わざとらしく筆先が行き来した。
 首筋をなで、胸の頂きを筆先でいじって、秘所までたどり着くと、  生々しい水音が、響いた。
『……っ』
 今度は指で直接触れられて、首を反らせてしまう。
『いい顔するし、いい声出すね。もっと聞かせてよ』
 彼は、そう言って、私をベッドの上に降ろした。
『こっちのキャンパスで色をつけられたいんでしょ』
 絵筆を放り投げて、私の腕を掴む。
 膝を割られると、がんじがらめにされてもはや逃げられない。
『お前とこうなってから、筆が進むんだ』


 いくつもの夜と朝が過ぎていく。
 何かを解き放つように抱かれ続けて、
 私は逆に、降り積もる虚しさに襲われていく。
 絵の中にいる私しか彼は見ていないのだ。
 チョコレートを手放せなくなったのは、初めて抱かれた後から。
 関係が進めば別の何かを見つけられると、愚かな期待があった。
 今日も彼の向こうの天井を見つめながら、嗚咽をかみ殺す。
 行為の後特有のけだるさが襲う。
 籠もった熱が、夜闇に溶けて部屋中に満ちていた。
「好きだな……この髪」
 手櫛を通されて、鼻先が近づいた。
 からめられては離れて、また絡められる。
 暫く髪だけをいじられていた。
「そうなんだ? 」
 気のない振りで、口元で笑う。
 本当は、嬉しいくせに平静を装って。
「何考えてる」
 いきなり顎を指で掴まれる。
 決して乱暴ではないけれど、ある程度力は込められていた。
 上向けられた体勢が、苦しい。
眼前に迫る顔をきっ、と睨んだ。
「私が何か考えているとしたら、あなた以外のことよ」
 くすっと笑ってやる。強がりだと気づいてほしい。
「ふうん? 」
 にやりとゆがんだ笑顔は傲慢だった。
 この上なく憎たらしくて、愛しかった。
 深く重なる口づけと共に、私の内側で感じる彼の息吹。
 いつの間に、と思うけれどちゃんと薄膜は纏っている。
「ああ、また描きたくなったな。本当にお前は創作意欲を掻き立ててくれる」
 揺さぶられる。荒い息遣いのまま彼は、謎の殺し文句を吐く。
 頬に触れる手。
 絵を描く繊細な指は、私のことなんて全部知っていて、ずるいと思う。
 目を閉じる振りをして瞼の隙間から、顔をのぞき見る。
(この余裕っぷり。人を食った態度)
 目元に滲んだ滴をぐっとこらえる。
「感じている以外の涙だったら、許せないな」
 耳元でささやかれ、ぞくりと震える。恐怖ではなく、声色の艶っぽさに。
 波に翻弄されて答えなんて返せない。遠ざかっては近づく距離。
 宙に伸ばした指先が空を切る。
背中をぎゅっとつかんだ。
「俺が好きなの? 」
「今更聞かないで。知ってるでしょう」 
 答えるのもばかばかしくて、流す。
「俺は好きな女じゃないと触れるのも嫌だよ? 」
 のどで笑う音。
「私を抱くのが好きなだけでしょう」
自分で言って寂しくなった。あれだけ触れなかったのに、
 一度、肌をかわしてから、彼は夢中になって求めてくる。
 私は抱かれるのが好きなんじゃないのに。
「あけすけなことを言うなよ」
 唇を長い指が押さえる。
「愛しているって言葉なら何回でも言ってやる。
 それこそ、無数のバラの花を贈るより楽だから」
 ついばむキスをして、彼が離れて隣りに横たわる。
 温もりは、未だ体の中でじんと燃えたままだ。
「表面を意味をなぞるだけの、感情のこもらない言葉なんていらないの」
 ぼそり、つぶやいて、背中を向ける。
 声を殺しても、あなたへの心は殺せない。
 紫煙が立ち上る。いつからか、大好きになった匂い。
 床に放られた衣服に手を伸ばす。
素早く衣服を身にまとっていると、  強く抱きしめられる。
背中から回された腕の強さに胸が高鳴る。
「醒めてたように取られてたんなら、心外だなあ」
 くっ、と笑う。
悪戯で、人をからかうような口調に、惑わされてきた。 
  「あなたは絵を描く為にしか、私が必要じゃないんでしょう? 」
「言ったかな、そんなこと」
「えっ……」
 腕の力が強くなった。骨が軋むほど抱きすくめられている。
「苦しいか。俺も苦しいよ、だって、ちっとも信じちゃくれないし? 」
「……そうやって悪ふざけするからだわ」
「俺のことが好きなら、我慢してもらうしかないよ。簡単には変われないしね」
 開き直っている。
「好きだよ、美菜? 」
 息を飲んだ。今宵初めて呼ばれた名前は、優しさに彩られていて。
「ほんとうに? 」
「チョコに嫉妬するくらい。嫌いな煙草に慣れさせるくらいにね……」
 自棄っぱちに聞こえる言葉は真実そのもので。
 肩口に寄せられた顔。
 涙でぐしゃぐしゃになっている顔を見られたくなくて、俯く。
「信じてくれた? 」
「……うん」
「こっち向け」
 また、顎をとらえられる。ブラウスのボタンが、外された。いささか乱暴に。
 押し倒されたベッドの上で、強く抱きしめられて唇が重なる。
シーツ越しでもはっきりと、形がわかるそれに戦く。
「ついでに言うよ。絵を描いていれば、お前を繋ぎ止められると思ったんだ。
 モデルとして求めていれば、俺の元から逃げない。
 責任感が強くて真面目な美菜は」
「……さっきも言ったじゃない。私はあなたが好きだから」
「描く為なら、何でもさせてくれるんだ? 」
「……あっ……あ」
 ぞく、と肌が粟立つ。舌を絡めとられると自然とキスを返していた。
 少し、億劫そうに何度目かの避妊の準備を整えて、一気にはいってくる。
 中で暴れる彼を、感じたくて抱きつく。
「ありがとう」
 キスが繰り返される。
 いつも、チョコレートの味を上書きしてきた苦味が甘く感じられる。
私は、泣きそうな気分で笑った。
首筋を顎を手のひらが、なでる。
「美菜はかわいくていい子だから、お願い聞いてくれるかな? 」
彼に高圧的な声と視線で命じられ、こくこくと頷く。
「お前も煙草が嫌いだろうけど、俺もチョコ大嫌いだから、もう食べないでくれる? 」
 返事をしようにも、快楽のはざまにいては、言葉にもならない。
 喘ぎ、啼き叫んで、腕をつかんだ。
「必要ないよな」
 彼がくれる、甘いものしかいらない。
 後は、何も考えられなくなって、今まで食べたチョコレートのことも全部忘れた。
 

 さらり、髪を一筋すくい取る。淡い栗色の長い髪。
 染めているわけではなく、地毛なのだ。
「絵を描く度に欲情してたんだよ、お前に」
 澄んだ目で、まっすぐ見つめてくるから汚してやりたくなった。
 唇から伝わる甘い味に腹が立って、煙草の苦味でかき消してやったのだ。
 一心不乱に画布に向かったのは、自分を抑えるため。
 写し取っていれば、直接醜い欲望をぶつけずに済む。
 脳裏の中では、数え切れないくらい犯していた。
 身悶えて、俺を求めるお前に満足げに笑って。
 純粋に欲しがる姿に、ついに我慢も限界を迎えてしまったのだが、
 触れ合わなかった日々がさらなる悦びを与えてくれた。
 喉で笑う。
 眠りに落ちた愛しい女が、ふわ、と穢れなく笑った。
 自分は汚れきっているが、彼女はせめて美しいままでいて欲しい。
 それが、せめてもの慰めになる。
 煙草の箱を握りつぶして、ゴミ箱に放る。
代わりの物とは比べ物にならなかった。