ポイズン


私を連れて逃げて。
 せつなげな彼女の声が耳にこびりついて離れない。
それは、いつしか毒となってじわりじわり
 体内に侵食していった。


「お兄さま……私ね、とっても幸せよ」
 そっと胸に寄り添う背中を抱いた。
 髪を梳いて、頭を引き寄せる。
 甘い香り。
 いつだって繋がっていたい。
 お互いの体温が混ざり合っている時だけ、  ここにいる安堵を感じた。
 闇の中では、自由だから素直になれる。
「勿論だ。君といられることが幸せなのだからね」
「やさしいのね……私が苛めたくなってしまうわ」
 くすくすと笑う声。はしゃぐ彼女が足を絡めてくる。
ふいに外れた箍は二度と戻らない。
 抱いてしまったら、堪えられなくなった。
 それまで堪えてきた分の欲望が、暴走し止まらなかった。
 逃げてと言われて腕を取って、連れ出した。
 世話になっている屋敷の令嬢を道ならぬ道へと。
 俺とまどかは琴の師と弟子で、先生と呼ばれていた。
 どちらが先に、恋していたのだろう。
 俺にとって、まどかは妹と同じで、まどかにとっても兄
 同然だったはずだ。それがいつ頃からだろう。
 彼女を女として見始めたのは。
 幼い少女が、自分の中で別の存在になったのは。
 君は、師として慕いながら、恋をしていたのだと教えてくれたね。
 何か言おうとした彼女の唇に指を押し付け、代わりにひとつ口づけを落とす。
 帯を解き合う。
 我先にと着物の内に掌を差し込んだ。
 細身が絡みついてくる。
 抱きかかえて唇を交わしあう。
 荒々しく舌を吸えば、唾液が橋を作る。
「ああ……お兄さま」
 頭がぼうっと霧がかかっては、覚醒する。
 普段は、眼鏡がないとよく見えない視界だが、こうして肌を重ねる時はいつも外していた。
 目で見た彼女も触れた彼女も全部感じたいから。
 息が乱れて、どうにもならなくなった頃、素っ気なく彼女が体を離した。
 いかなる時も主導権は握られていて、情けなくもなるが、
 愛しさのゆえに、それも楽しいのだ。
「……先生とお呼びせずとも淫靡ですわね、お兄さま?」
 うつぶせになって、煙管を手にとろうとするのを取り上げる。
「いけずね」
「やめなさい……君の歳ではまだ早すぎる」
「あら、あんなことやこんなことを教えこんだのは誰かしら? お兄さまではありませんこと」
痛いところを突かれて返す言葉もないのだが、
 幼い少女に手を出したことに対する良心の呵責はまるでないのだ。
 後悔するくらいなら、最初から触れたりしない。
 俺にはただ、ひとつになれた歓びしかなかった。
「……っ」
 気がつけば、膝をついた彼女が、頭を屈めていた。
 白い指先が悪戯にさまよう。
敏感な箇所に触れて身を震わせた。
琴を弾く時の仕草で、指をかき鳴らす。
 もっとも、琴は唇や舌で触れたりしない。
 琴と同じく上手に奏でるようになった。
 上目遣いの彼女のいやらしさときたらたまらない。
 啄ばむ音が生々しく響く。
 膨れ上がった欲望を、思うがままに操られて、ため息を漏らす。
 ぐいと頭を離して、押し倒した。
「まどか……」
 組み敷くと、黒髪が、寝具に散らばった。
 淫らに。流れる河川のように。
 首に腕を伸ばしてきて、甘く囁いた。
「やさしく、して」
「ああ」
 それが、反対の意味だと知ったのはいつだったのか。
 激しく、抱けば君が喜んで、僕も満たされる。
 髪を撫でて、口づける。
「くすぐったい」
 髪をかきわけて額を辿り、頬から顎へ。
 紅潮している肌は熱っぽく、潤んだ瞳が誘いをかける。
 紅を引いた唇が、声もなく、言葉を形どる。
 舌を差し入れて、絡める。
 甘く、危うげないやらしさで俺好みだ。
 脳から肉体に刺激が伝わってゆく。
 体を反転させて、後ろから突き上げると、
 悲鳴ともつかぬ喘ぎかがこだました。
 寝具を掴む指先が震えて強く鷲づかんでいる。
 前のめりになって臀部を突き出す格好の彼女に覆い被さっている
 様は、獣じみていて、気分が高揚した。
 少し体勢を起こし、寝具に押し付けられていた乳房をつかむ。
 ぴん、と尖りをはじいた時漏れた高音は愛らしかった。
  「愛しているよ、まどか」
 身をよじり、行為をねだる君は憎らしいほど可愛らしい。
 ゆっくりと、頂点を目指す。
指を噛むから、唇を塞ぎ、乳房を弄んで奏でると、期待通りに啼いてくれた。
 最奥まで貫けば、足の小指を折り曲げて膝をたてる。
 指を噛むから、唇を塞ぎ、細い手首をつかむ。
 手を繋いでいると、繋がることをより実感できる。
 逃げても、その先があるわけではないが、
 逃避行を選んだ自身を誇りに思う。
 あのままでは、二人は引きさかれていた。
 二度と相見えることができないなど死より辛い生き地獄だ。
 まどかと他の男との幸せを陰ながら祈り、見守る……?
 おかしくて笑いだしそうだ。できようはずもない。
 結局耐えられずに、傷つけなくてもいい人を傷つけることになるのだ。
自分がどうなるのかわからず想像するだに怖い。
 でも時々思う。まどかは、俺を選んでよかったのか?
 あれこれ考えていないと、すべての理性は海の泡と消えてしまう。
 ひと時だけそばにいられれば良いわけじゃない。
「……私も好きよ」
 首を傾げる仕草のかわいらしさに、魔性を見た。
 間があったのは仕方がない。
 波に翻弄されて、ついていくのがやっとだったのだ。
 低くしゃがれた声に色香が漂っている。
「良い?」
 悪戯に腰を揺らして問いかける。
 彼女の瞳に映る俺には、性質の悪い笑みが浮かんでいたに違いない。
「……っん……素敵よ」
 答えてくれた君が愛しくて、腰を動かすのを無意識に早めてしまう。
 断続的な喘ぎとともに背中に指を立てて、爪が螺旋を描く。
「っ……あっん」
 ぐいと、強く突き上げるとあっけなく上りつめた。
 背筋がしなり、崩れ落ちる。
 何度も見てきた姿だけれど、そそられるものだ。
それを見届けて、自分も脱力する。
 横たわり、息を整えて、余韻に浸る。
 髪を梳いて、頬にも接吻を落とす。
 背中を撫でて、腕の中に抱きこんで、瞳を閉じる。
 穏やかな寝顔は、どんな夢を見ているのだろう。
 俺は、共に滅びたいというほの暗い願望を
 未だに心の奥に眠らせたままだ。
 肌に触れていなければ、自分の中の悪魔が暴れだすのだから、
 夜は必ず抱いてしまうが、いっそのこと抱き殺してしまえれば
 愛情を通い合わせた状態で共に逝けるのか。
 否と、首を振る。
 まどかを幸せにしてやりたい。
 消えそうな儚い笑みではなく、心底からの微笑みを与えたい。
 
いとしさを伝える為に肌と肌を合わせる。
 俺にはこれしかできないから。
 刹那を永遠に変える術を知らないから、余計に夢中になって貪り合う。
「俺と君は何故こんなにも無邪気でいられるのだろうか」
 声に出してしまったことに後から気付く。
 漏れ聞こえたうめき声にはっとする。
 起こしてしまったらかわいそうだと、少し慌てたのだが、
 取り越し苦労にすぎなかった。
「かわいいよ、まどか」
 ずれていた布団を肩まで引き上げた。
 肘をついて見つめていると、眠気が、押し寄せてきた。
 希望だけを、胸に今は眠りたい。
 少しずつ積み重ねていく想いが、光ある明日へ導くのだから。


 ふいに目を覚ますと寝息を立てる横顔が見えた。
「お兄さま……」
 抽斗の奥にある秘密を見つけてしまった時の衝撃は忘れられない。
 弱い心を隠して、愛してくれているのだと分かっているから、
 何も言わず黙っているけれど。
 これは、絶対に使ってはならないものだ。
 捨ててしまうこともできるが、いざという時の抑止力になる。
 御守りみたいな気がして、愛着も沸いた。
 毒が御守りなんて、私たちには似合いだ。
『将来の約束』ではないのが常識からは外れている。 
 でもいつか、必ず認めてもらわなければ。
 夢じゃなくて現実にしましょうね、お兄さま。
 駆け落ちの言葉の響きに酔っていられた私は、生ぬるい幸せのなかで生きていたの。
 枕元に置かれた眼鏡を手に取りくるくると回してみた。
 自分に掛けてみるが、やはり、視界に靄がかかって見えない。
 それに、ちっとも似合わない。持ち主にぴったりに作られているからだ。
 悪戯心で寝ている彼に眼鏡を掛けておく。
 目覚めた時さぞや驚くだろう。
「だって、素敵なんだもの」
 眼鏡を掛けた姿が、たまらなく好きだったりする。
 大人で、神経質そうで、ぞくぞくするほど色っぽい。
「総一朗お兄さま……大好き」
 乾いた唇を舌で舐め、薄く開いた隙間から差し入れる。
 ぺろぺろと舌で唇を愛でていると、鼻からくぐもった息が漏れた。
 自分の息も荒くなっている。
「……あら、意外に気がつかないのね」
 ぴくりと瞼が動いた瞬間接吻をやめ、唇を離した。
 胸に頬を寄せて鼓動を聞く。
 目を細めて、温かなまどろみに酔っていると、いきなり
 強く腰を抱かれ、思わず陶酔した。
汗ばんだ腕が、巻きついている。
 口元が吊り上っているから、起きたのだろう。
 自ら抱きついて、おやすみなさいとつぶやく。
 頭を一度撫でられて、再び目を閉じた。