口紅



   彼が自宅兼アトリエとして使用しているワンルーム。
 鏡台を置いて、着替えをクローゼットに入れて、どんどん私の荷物が増えていった。
鏡の中に映る自分。
 淡いピンクに染まった唇は、艶めいて、口づけを待っているかに見えた。
 いや、待っているのだ。隠すつもりはない。
 後ろから肩を抱いてくる腕の熱さに、うっとりと唇で笑みを形作る。
 気を許し過ぎたのが不味かったようだ。腕が、衣服の上からまさぐりはじめる。
 押し包むように触れるから、あられもない声を出してしまった。
「いくら描いても本物には、かなわないね」
「……んっ」
 ブラジャーの上からでも固く尖りを帯びているのがわかった。
 びりっと、電流が駆け上り、お腹の下が熱くなる。
 顎を傾けて、彼が間近で見つめてきた。
 触れそうで、触れない。
もどかしげに、唇が薄く開いてしまう。
 指が、上唇と下唇を人差し指が、なぞる。
口紅(ルージュ)に塗れているのに気にする節もなく。
 逆にそのしぐさが、いやらしかった。
「口紅って油分が含まれるわけで、油絵を描くのに使えるかな」
「使えるわけないでしょ」
 中途半端に色が剥げた唇を意識して鏡の中でうつむく。
 ゆがんだ表情が今にも泣きそうだ。
「ごめんね。つい悪戯心が疼いて」
 鏡の下にあった口紅の蓋を外して、ブラシにつける。
 絵の具と似た感覚なのか。手慣れた様子で適量をつけて唇に滑らせていく。
 私は、瞳を見開いて、彼にされるがままだ。
 さっきより濃く色づいた唇に、魔性の女が映っているのかと思った。
 彼は満足げに、側を離れていく。
「もう落とさないでよ」
「落ちるのならしょうがないだろ。来いよ」
 腕を引かれて、椅子から立ち上がる。ベッドじゃなく二人掛けのラブソファ。
 私は、ここで彼のモデルをすることが多い。
 何故か彼だけ先にソファに座って、文字通り上から声をかけてきた。
「そこに跪いて」
 床を目線で指されて、首をかしげる。
 ソファに座る彼の下のあたりに顔が来る。
 どこか、嫌な予感がする。
 体が引き寄せられ、ついに彼のスラックスの下腹に頬が当たってしまう。
 どく、心臓が跳ねた。私の奥も啼いている。
 生地越しでもくっきりと形がわかるほど、ソレは姿を変えていた。
「何で」
「お前のおかげで、簡単にこうなっちゃうんだよね」
 人のせいにされても困る。彼がやらしいだけなのではないだろうか。
「積極的な美菜もいいね」
 ジッパーを下して手で触れる。直接伝わってくる熱に火傷しそう。
 楽しそうに言う彼をどうにかしてやりたくて、触れてみる。
 上目づかいで見上げて、擦る。恍惚とした表情に変わってきていた。
 動きを速めると、ぴくと反応する。じわり、と滴が指を濡らした。
「……っ……いい子だ。次はどうするか考えてごらん」
 きっ、と睨んで、口に含んだ。
 口紅を塗った唇で舐める。響くリップノイズ。
 手を添わせて、彼を見つめながらくびれた部分をなぞる。
 かすめる程度のキスを繰り返す。
「それじゃ、綺麗にできないよ」
 つまらなさそうな彼が、ぐいと腰を押しつけてきた。
 苦しくて、唇に挟むので精いっぱいなのに、勝手に腰を動かしだした。
「……っく……」
「ずっと、こっちの口でも食べられたかったんだよね」
 荒い息で、言った。
 変態なのかまっとうな嗜好なのか、判断がつかない。
 頭を押さえられて、揺さぶられる。それでも強い力は加わっていないのが不思議だ。
 征服されていても悦びを覚えてしまう。
「いい顔、お前って真性だよね」
 びくっとした。嗜虐的な笑みが降り注いでいる。
 自分でもどうにもならないことだった。悲しいことに。
「こんなの好きじゃないと嫌よ……っ」
「それはそうだね」
 口の中いっぱいに広がる苦味。涙目になっていた
「俺はこういうの嫌いだから……待って」
 呻くように、彼は頭をつきはなし、私の腕を強く引いた。
 乱暴に引き下ろされた下着が太ももで引っかかった状態で、繋がった。
 いつもとは違う体勢での繋がりに、中が疼いて締めあげる。
「もうイキそうな顔だよ」
 彼のお腹の上に座る恰好で、下から突き上げられる。
 揺れるふくらみを弄ばれながら、首をのけぞらせた。
「あっ……ああ! 」
 肌同士が触れ合って、新たな熱を呼ぶ。
 初めて、直接抱かれたが、彼への無条件の信頼もあったから、絶望はなかった。
 絶望より期待があったのだ。自分からは求めるべきではないと思っていたから。
 本当は、こんな風にしてほしくてたまらなかった。
 生々しい彼自身を飲み込み、絡みつく。
 首に回した腕の力が強くなると同時に締め上げていた。
「怖くないの? 」
「……望み通りよ……っ」
 足を組み替えたら、擦れた。もう訳がわからなくなる。
「……そう、よかった」
 彼は猛烈な勢いで腰を動かす。私も不器用に腰を揺らめかせた。
 そして、彼は私の中にたくさんの精を注ぎ込んだ。
「大丈夫、俺はそんなに無責任じゃないから」


 猫のように体を丸めている。艶めかしい姿だ。
 美菜の美しさに鳥肌が立つばかりだ。指で柔らかな髪の感触を楽しむ。
 俺の歪んだ欲に比べれば彼女の欲はまっとうなものだ。
 何度描いても、足りない。
 抱く度に思いは消化されていき、ようやく答えにたどり着いた。
 を見つめたとき、瞳に映った小さな子供。
 彼女のその先にあるもの。
 もっとも、美しいものを描きたい。
唇を湿らせて、覆い被さる。首に腕がからみついてきた。
 服を半分だけ脱いだ状態は倒錯感があった。
 絵の具の染みついたシャツを床の上に投げ捨てた。
「ちょうだい? 」
 うつろな眼差しが、見つめてくる。
 熱の高ぶりが、疼いて、居場所を求めていた。
 彼女を貫く。
 直に抱いたら、未知の快感に襲われた。
 もう一度、感じたい。追い求めたい。
 口紅を引かなくても熱で色づいた唇が、俺を誘う。
「っ……ああっ」
 水音があがる。嫌々をするように首を振るから、強引に突き上げる。
「俺が煙草止めたのって自分のためなんだよね」
 計画を完遂するためには不要な物。
「ん……っ」
 揺れて、衝撃で何も見えない視界の中、彼女が、甘く微笑んだ気がした。
「ええ私も期待してた」
 柔らかく包み込まれた。目映い聖域に足を踏み入れた気がして。
「ちゃんと止めてくれたから、私もこの先を夢見てもいいかなって。
 だから、許したのよ。流されたわけじゃないって信じる? 」
「確信犯だな」
「っ……だめ……もう」
「やっぱり直は違う? 二度目だし?」
「……早いの」
 高みが近づくことが。
「大丈夫。俺も怖いんだよ」
「うそ……あなたが怖いの? 」
「こんなの越えなきゃ何も生まれないんだよな」
 答えを求めてはいない独り言。
 ぐったりと、もたれかかる俺を彼女は胸に抱きとめてくれた。
 お互い荒い息をつきながら、見つめあい、笑った。
 美菜が、俺の頭を両手で挟んで髪をなでた。
「今度は、胸元で赤ん坊を抱いた聖女の絵が描きたくて」
「ふふ……」
 顔を染めた様があまりにも愛らしかった。
「感情が理性を凌駕しそうで恐ろしかったんだ。でも美菜を傷つける方がよほど怖くてね」
「鷹? 」
「俺とお前の望みが違ったらどうしようって。
「信じられないのは分かるけど、信じてよ。欲しいのは美菜だけじゃないんだ」
 切実な訴えに目を瞠った美菜は、 「結婚してくれるの? 」
 何度か瞬きして、問うてきた。
 本当に憎らしくて可愛くて困る。
「最初からそのつもりで言ってるんだけど」
 少々ぶっきらぼうだったが、逆に伝わったかも知れない。
「こんな日が来るなんて……嬉しい」
はらはらと涙をこぼす。涙を指で拭い取るが、拭いきれない。
 絡みついてくる腕、もたれてくる肢体。華奢な背中を抱きしめて息をつく。
「抱きついてくれて本望なんだけど……もう止めといた方がいいんじゃない? 」
 懲りもせずにどんだけ、性欲もとい生命力の塊なのか。
 己の欲望は再び力を取り戻し、美菜の腹部に触れている。
「じゃあ、私が鷹をイカせてあげるわ」
 さっきまで泣いていたくせに、もう清々しい顔をしている。
「おい、いつの間にそんな大胆になったんだよ……っ」
 身をくねらせて、俺のを握りしめて口に含んでいる。
 いやらしい音が部屋に響く。
 調子づいた美菜が擦りあげて、歯を立てた。
 ちゃんと絶妙に加減して甘噛みだけれど、続けざまの行為の余韻で
 あっという間に昇り詰めてしまった。
「くっ……う……」
 制御できず、まき散らす。
 俺の欲望をぺろりと舐めた美菜は、微笑んでいた。
 完璧な聖女のごとく清らかな表情で。


 口の中に苦味が込み上げて、急いで洗面所に駆け込む。
 えづいて、吐いて口を漱いだ時には、ひどく疲れていた。
 タオルを差し出して口を拭いてくれる鷹。
「明日、病院に行ってくるわ」
「俺も行く。大事な新妻を放置したら駄目夫の烙印が押されるから」
 くすっと笑う。大事にしてくれている。
 鷹が、とても優しい人なんだってこと、随分前から知っていた。
 三か月前のあの日、入籍して彼の名字になれて、とても嬉しかった。
「気分が悪い美菜に対して不謹慎だけどすっごく嬉しい。遂に俺たちの努力が実を結んだんだ」
 ガッツポーズをして、私の体を抱き上げた。足が浮いて彼の首にしがみつく。
「鷹」
「舞い上がってるみたい」
「まだわからないのに」
「何言ってるの。決まってるよ」
「前から思ってたけど、どっからくるのその自信」
「湧いてくるとしか言いようがない」
 何言っても適わなくて、最後は、いつも私の自由にさせてくれる。
 見つめ返したら、ふわりと抱きしめられた。
「明日のためにもう今日はお休み」
 こくり、と頷いて寝室に向かう。頭をなでてくれる指先を感じながら瞳を閉じた。

 ピンクベージュの口紅を引いた唇で、誓いの口づけを交わす。
 この世でたった一人に巡り合えた奇跡。
 愛する人と一緒に小さな姫を抱っこして、写真を撮った。
 彼の方は両親、仕事の関係者、友人、私の方も両親、友達、同僚と
 思いのほかたくさんの人が、祝ってくれた。
 子供が生まれてから式を挙げようと提案してくれたのは鷹。
 先に入籍を済ませていたこともあり、もちろん否は唱えることもなく。
式を挙げる数か月前、広めの部屋に引っ越して、ようやく落ち着いてきたところだ。
 彼の絵の人気も高まる一方で、順風満帆の日々。
 信じられないような幸せが、これからもたくさん降り注ぎますように。
 不意打ちで、彼の頬にキスしたら、驚いたのか顔を真っ赤にした。
「後で覚えときなよ」
 耳元にささやかれて、かっ、と頬が熱くなる。
 二人だけの合図を交わした。