空欄



 望海が、転勤してから、一週間が過ぎた。
 テストを空欄にして出したことはないが、心にぽっかり
 空欄ができたような物足りない気分だった。
 春休みは、気だるく過ぎていく。
 自室のグランドピアノをかき鳴らしても、
 気分転換にもならない。
 灰皿には、煙草の吸殻が、降り積もっている。
 青を呼ぶ声が聞こえる。
 幻聴ならよかったのだが、最悪なことに無視し続けていると、
 声はどんどん大きくなっていく。
「青、青っ」
 彼の下の名前を呼ぶのが、今はいない彼女だったならと、  詮無きことを思う。
(逃げただなんて思わない。
 彼女はそうせざるえなかったのだから)
 割り切れるくらいには、青は大人びていた。
 気晴らしを求めるほどには子供だったわけだが。
「青っ!」
 耳を塞ぎたい。何にも触れたくない。
 1人になりたいのに、青にはそれが許されなかった。
 家庭教師は、父親に頼んで断ったが、まだうるさいのが残っていた。
 従姉妹の愛璃……。何も知らない無垢で純真で、
 そして、したたかな藤城家の血を継ぐもの。
 このまま無視し続けても諦めないのはわかっていたから、青は渋々扉を開けた。
 通れない程度に薄く開く。相手の顔は見ない。
「なにか御用ですか、愛璃お嬢様? 」
低めのトーンで問いかければ相手は、鋭い勢いで噛みつけてきた。
「……最近の青、おかしいわ!
叔父様も青が暗いって仰ってたわよ」 暗いと言われ、軽く吹き出した。
「俺ってそんな明るく陽気なキャラクターだったか? 」
「……前はそこまでひねくれた言い方はしなかった。
それに、この匂い……」
愛璃は、了承も得ずに扉をすり抜けて、ずんずんと中に入ってきた。
うっかり大きく開いてしまったのが、まずかった。
肩より少し長い髪が、ふわりと揺れた。
「やっぱり! 」
愛璃は、ピアノの上の灰皿に気づき鼻息荒く睨みつけてきた。
「煙草なんて、いつから吸ってるの?
叔父様も吸ってないし、陽お兄さま(青の姉の夫であり義理の兄)も 吸ってなかったわよね。どうやって手に入れたの? 」
「……お前に教える義務があるのか」
ぐいぐいと問われ、神経がおかしくなりそうだ。
「な……ないけど」
「彼氏と楽しくデートでもしてる日じゃないのか。
せっかくの日曜日にこんな所に来てもいいことないぞ」
「それこそ、青に関係ないわ」
さっきまでの勢いはどこへやら、しゅんと元気を失くした。
愛璃に忙しいやつだと、呆れた。
青は思わぬ暇つぶしができそうだ、と扉の内鍵を閉めた。
この部屋は静音設備も整っているから、
 万が一のことがあっても誰も来ないだろう。
「何の用だ……」
 青は煙草の火をを灰皿に押し付けて揉み消した。
 吸いかけだったが、しょうがない。
 子供のそばで吸うわけにはいかない。
 煙草は、ほろ苦さに最初の頃こそ何度もむせたが、今では手放せなくなった。
 要するに、くせになったのだ。
 初体験は、年上の女教師。
 禁断の恋はたった3ヶ月ほとで終止符(ピリオド)を打った。
 その頃だった。
 喫煙をしているクラスメートの噂を聞き、興味本位で近づいた。
 よかったら、1本分けてくれないかと告げると相手は、青も怯むくらい驚いていた。
 話しかけられるとは、想定外だったらしい。
 にこやかに微笑みかければ、愛想よく応じ、容易く分けてくれたのだが、それきり付き合いはない。
 クラスメイトに聞くと向こうは、青とは親友だと思っているらしい。
 それが、おかしくて内心で鼻で笑っている青だった。
 煙草の味は悪くない。
 一時の口寂しさをごまかすのに適していると判断し、
 青は自販機で、煙草を買うようになった。
 さすがに、店で購入しようとすれば、
 身分証明を求められるのはわかっていた。
 年齢より成熟して見えようが、見るものが見ればバレる。
「……私はただ青に会いたくて……」
 無邪気に微笑む従姉妹に苛立ちが募った。
 自分の愛らしさを理解しているのかもしれない。
 青には通用しなかったが。  口の端を歪めて笑う。
「知ってるか、従姉妹って恋愛も結婚も許されてるんだぜ」
「……知ってるけど」
「こういうこともな」
 ふわ、軽い体をベッドに押し倒す。
 無理やり唇を塞ぐと、愛璃は頬を真っ赤にして喘いだ。
「んん……ぷはぁ」
 息継ぎさえせず息を止めていたようだ。
「あれ、彼氏いたんじゃなかったか。キスの仕方もしらない? 」
あれは、冬が始まる頃合いだっただろうか。
青が望海と付き合い出したのと同時期だったと思う。
愛璃も彼ができたことを上機嫌で報告してきたのだ。
特に頼んでもいなかったのに。
「怖かったからしてなかった」
「じゃあ、お兄様がじっくり教えてやるよ」
「や……!? 」
華奢な肩をベッドに押し付ける。
両腕で彼女の手首を押さえつけ、のしかかる。
 小さな身体はいとも簡単に組み敷けた。
「……やぁ……っ」
 舌を出し入れし始めると、愛璃は抵抗し、青の肩をどんどんと、叩く。
 目元をうるませ顔を赤らめていても、
 欲情はしていない。これ以上触れる気もなかった。
 男の部屋に入り込んだら、どうなるか教えてやりたかっただけだ。
「退屈だから、来たんだろ?
従兄弟とはいえ男の部屋を尋ねるなんて無防備だな。
 ガキだからわかんないか」
 吐き捨てると、愛璃は、嗚咽混じりに涙を落とす。
 青はその様子に興ざめして、突き飛ばした。我に返ったのだ。
「……彼とは別れたわ。子供っぽくて、わがままな私が嫌なんですって」
ひっく、ひっくと泣く愛璃にかける言葉も見つからなかった。
二重に傷つけたのだ。
好きになった彼女とは別の意味で、大切な存在だったはずの従姉妹を。

「悪い……」 「青もなにかあったのね。1か月前とはだいぶん雰囲気変わったわ……」
愛璃は、青の方を見もせずに涙声で言った。
早く部屋から出ていけ。
そして、言えばいい。
青に襲われたと。
断罪されるべきは青であり不用意に部屋を尋ねた愛璃ではない。
精神が不安定だったとはいえ中学一年生の少女に、襲いかかったケダモノは、青の方だ。
兄のように慕っていた従兄弟に裏切られたのは彼女。
青は舌打ちした。
「顔、洗っていけ」
「……うん、ありがとう」
 寝室の扉の奥に備え付けられた洗面室に向かわせた愛璃の背中を懺悔するように見つめていた。
「礼なんて必要ねえよ」
 あんな泣き腫らした顔で帰らせるわけにはいかなかっただけ。
 言ってみれば自らの保身のために過ぎないのだ。
 青の周りにはこちらを責めない強い女ばかりいるのだろう。
 別れ際でさえ微笑んで見せた望海もそうだった。
 子供の青など手のひらで転がされていただけだ。
「青、私、男の人の真理とか分かるようになってからでいいわ、恋愛なんて」
 ませたことを言い放ち愛璃は、部屋を去った。
 通り過ぎた彼女の目はまだ赤かった。
 結局また泣いたのだ。
 青は、ああ、もうと髪をひっ掻いた。
 相手は強いも何も子供じゃないか。
「愛璃……今度は砌(青の甥・6歳)がいる時にでも遊びに来い。
 お前なら上手に遊んでやれるだろ」  愛璃は姉のお気に入りであり、可愛がられていた。
「わかった。砌くんが来た時に呼んで」
 危険だから、一人でいる青のそばには来るなという意思表示だったが伝わったかどうか。
 甥がいれば、平静を保てる。
 手がかかるし、愛璃よりずっと騒々しいが。
 今の自分は、手に負えないことは重々わかっていた。
 まだ、虚ろな心の穴は塞がらない。
 煙草なんて一時の気休めにしか過ぎずなんの慰めにもならなかった。

 一週間後。
「留学したいのか!? 」
「……はい。俺の高校には姉妹校があって交換留学を受け入れていると、英語の先生に聞いて」
「……どうしてもと言うなら止めないが、本気なのか? 」
 父である藤城隆は、青の真意を探るように、彼の方を見てきた。
「はい。あちらにいても、高校の卒業資格は取れますし」
「1年間しか認めない。2年も青を野放しにするつもりはない」
「俺が向こうでなにかやらかすとでも? 」
「そうじゃないが、交換留学は1年のはずだろう。
 2年次から、1年間向こうで勉強して3年になったら帰ってこい」
 冗談で言ったつもりだが、父はほんの少し、語彙に怒りを含ませた。>
 心配させるなとでも言いたげな口ぶりに、青は、やはりこの家で
 愛されて育ったんだなと笑いだしたくなった。
「……ありがとうございます。また申請書類にサインお願いします」
 ぺこり、と頭を下げて、食器を片付ける。自分のことはなるべく自分でする。
 それが、藤城家のルールであった。
 食器を洗ったあと、部屋に戻ろうとした青の背中に、
「青は何も言わないんだな。一人で背負おうとする。勝手に大人になるなよ、まだ早い」
父の言葉が聞こえてきた。特に答えは求めていなさそうだったので、そのまま部屋に戻る。
(買いかぶるなよ。俺はちっとも大人じゃないんだ。
 寂しさから喫煙に走り従姉妹まで、傷つけてる。
 勉強じゃなくて、俺は逃げるだけだ
。  この国にいて逃れのようのない虚しさに覆い尽くされる前に)

 成田空港、出発ロビー。
 家族総出での見送りに若干、うんざりしている青である。
 留学の話は父から、広まり5名に見送られる羽目になった。
 大人三名、子供二名。  これに叔母夫妻やら、母方の親戚までいたらと思うとぞっ、とする。
「せいにぃ、遠くへ行っちゃうの? 」
 舌っ足らずな問いかけに苦笑する。
 青は、背を屈め、目線を合わせてやった。
 ついでに、乱暴に頭を撫でる。>
 これまで、したことがない仕草だ。
「ああ。ちょっとそこまでな。今度からは愛璃姉に遊んでもらえよ」
 どうせ理解できないだろうと、ちょっとそこまでと軽く話した。
 子供相手だから、馬鹿にした訳でもないが気軽に話すほうがいい。
 これは、傷心を癒す旅でもある。
 もちろん、勉強はきっちりし、送り出してくれる父の恩にも期待にも答えるつもりだが。
「……砌くん、青は東京が嫌いなのよ。わずらわしくなっちゃったの」
「愛璃、ガキに難しい言葉使うな」
「だって」
 愛璃は、終始不機嫌だった。
 留学するとは思いもよらなかったらしい。
 あんな振る舞いをした従兄弟でも、嫌ってはいないようだ。
 留学の話を聞いて、1番反対したのは愛璃だった。
 行かないでと泣きつかれても、決意は固く揺るぎはしなかったけれど。
「まあ、帰ってきたら遊んでやるよ。
 お土産も持って帰ってやるから楽しみにしてろ」
 愛璃と、砌に言う青に、後ろで姉は、ため息をついていた。
「絶対女よ。あの子ちょっと見ない間に老けたものね」
「卒業しちゃったのかな……何か男の匂いしたよね」
「あの可愛かった青が……いつの間にか男に! 」
姉の翠と、その夫・陽の会話は、青に筒抜けだった。
(妙に聡いから嫌になる。悪かったな、老けて。
何でも悟りすぎだろ。幸い、愛璃と砌には、後ろの会話は聞こえていないが)
「頑張れ。毎週手紙は出すんだよ」
「……親父、毎週は無理だ」
「お父様だろ? 」
丁寧に訂正され苦笑する。
軽く後ろ手に手を振り出立ゲートを抜けた。
藤城青は、高1の春休み、アメリカへと留学し、きっちりと1年で帰ってきた。
手紙は3ヶ月に1度、無愛想に書き記しただけだった。



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