この想いが泡のように消えてしまえばいいのにと思う。
 そうすれば楽になれる。
 心騒がせることもなくなってしまうけれど。



 2、泡沫



 大学の図書館。  菫子は、ペンを片手に上の空。
 広げられたレポート用紙は全く埋まっていない。
 溜息は止まることを知らず、正面に座った伊織もどう対応していいか困っていた。
 ここ一月余りというもの、菫子は、ずっとこんな調子だった。
長年の片思いは、自分を思いつめるほどだ。
「また草壁くんのこと?」
「……やっぱり分かる?」
「わからない方がおかしいでしょうよ」
「そ、そうよね」
 クルクルとシャーペンを回しながら、菫子は曖昧に笑う。
「諦めた方がいいのかなあ」
「諦めないのが菫子のいい所だと思うわよ」
 伊織は、目を細めた。
 目の前の友人の可愛らしさに微笑ましさを覚えたのだ。
「ごめん……伊織の方がずっと辛いのに。私って勝手だわ」
 ひたすら申し訳なさそうに菫子は呟く。
「ううんいいのよ」
 菫子は伊織の強さに目を瞠る。
 彼女の彼は、病気で未だ入院中であり、病状も思わしくないという。
 私は贅沢だ。
 菫子は、自分を恥じた。
 「草壁くんが、あなたの中で生きているならそのままでいいじゃない」
 行くねと、椅子を引いて立ち上がった伊織に、
 菫子はありがとうと微笑んだ。
ペンを持ち直して再びレポート用紙に向かった。

 大学に程近いカフェ。テーブルシュガーを半分ほど入れたコーヒーを
 ぐるぐる掻き混ぜて琥珀色の液体を見つめる。
 波打つカップの表面に映る自分の表情は他人にはどう映るだろう。
 出会って以来ずっと続いている妹扱いが歯痒くて、唇を噛み締めるしかなくて。
 私、涼ちゃんと同い年だよ。もう出会ってから1年も経つんだから。
 告白してそういう対象に見てないとか言われるのが怖いし何より
 恋人がいるのに不誠実な態度取れる人じゃない。
 私が踏み出すことで今の関係が壊れるのなら、このままでいる方がいい。
 思いつめても深みにはまるのみ。
 菫子は、開き直ることにした。
 嫌いになろうとしてもなれないのだったら好きなままでいる。
 学科が違うから待ち合わせない限りほとんど会うこともない。
 出会った年は、しょっちゅう会っていたが想いが募るにつれて
 段々と息苦しくなっていた。
 今日誘われている飲み会は彼が誘ってくれて二つ返事でOKした。
 彼が来ると思えば心も躍るけれど、絶対に彼女も来るに違いなくて。
 今更になって行くことへ後ろ向きになっている。
 普通に接してくる彼に平静を装うのは慣れたが、果たして。
 彼女と一緒にいる彼を見て動揺せずにいられるか不安は尽きない。
 逃げ出したくなるかもしれないことへの恐れ。
 途中でさっさと帰ったら態度をおかしく思われる。
彼の前で惨めな姿は見せられない。
 頑張れ、菫子。あなたは、強いでしょ。
 自分に言い聞かせるように董子は、笑った。ほんの少し唇の端を上げて。
 


 カフェでコーヒーを飲むと帰宅した菫子は、部屋の化粧台の前に座った。
 乱雑にメイク道具を広げて、メイクを直し始めた。
「よし」
 普段より大人っぽく見えるように心持ち濃い目のアイライン。
 マスカラで睫を長く見せて。
 お気に入りのハンドバッグを手に清々しい笑みを浮かべるとマンションの部屋を出た。



 菫子は賑やかな声がする店内に堂々と入っていく。
 涼は、案の定恋人の薫と共に席に座っていた。
「久しぶり!」
「お、菫子」
 菫子が涼と会うのは一ヶ月振りだった。
 最近は偶然出くわすことを恐れてひたすら避けていたのだ。
「菫子ちゃん、こんにちは」
 薫に声を掛けられ、菫子は一瞬びくっとしたが、すぐに笑顔を返した。
「こんにちはー薫さん」
 菫子は、すらっとして大人っぽい容姿を持つ薫に憧れを抱いていた。
 二人とも長身で、傍から見てもお似合い。
 周りを見ても自分だけが場違いな気がするのは、最初に合コンに
 行った時から変わらない。今はあの時よりも自信を持っているけれど。
 曖昧に手を振って菫子はその場から離れようと思う心と闘い、
 どうにかその場に留まることにした。
 離れた場所に移りたいが、決心を台無しにしたくはない。
「何かかちこちやで。リラックスせな」
「そうよ、さあ飲んで」
「あ、あかんって。菫子はアルコール受け付けんのやから」
 菫子は涼の決め付けた物言いにむっとする。
 確かにはじめて会った時もジュースを飲んでいたからばればれだろうが。
「ううん大丈夫。薫さん、注いでくれる?」
 菫子が強気に返すと薫は曖昧に笑った後、並々とグラスにチューハイを注いでくれた。
「あーあ、どうなっても知らんで」
「自分の面倒くらい自分で見れるから心配しないで」
 涼が呆れて笑うが、菫子は、やんわりと受け流す。
 早速、グラスを傾けて一口飲んだ。
「そういえば涼ちゃんと薫さんは卒業したら結婚するの?」
「ぶっ」
 菫子の突然の発言に涼が吹き出す。
 テーブルに飛んだ液体を薫がしょうがないわねと言いながら拭いていた。
「唐突ね」
「だって一年も付き合ってるんだよ。少しは意識したりしないのかなって」
 菫子は馬鹿なことを言っている自覚はあったが、自分を止められない。
 諦める為の何かが欲しいのかもしれない。
 この想いにストッパーをかけてくれる言葉が。
「どうやろ。今が幸せならそれでええ」
 涼の言葉に薫の瞳が微かに翳った。
 見逃してしまうくらいの短い時間。
 いつかの七夕に言っていた彼の台詞が菫子の胸に蘇る。
 ”今が続きますように”
「年月は関係ないんじゃないかな。したくなったらするんだろうし
 私も涼も先の事は考えられないから」
 薫は笑った。驚くほど自然な微笑。
「そっか、変なこと聞いてごめんなさい」
「ううん全然」
「謝らんでええけど、菫子は時々爆弾発言かますよなあ」
 涼は苦笑し、同じように薫も苦笑した。
 菫子は恥ずかしくて顔を真っ赤にした。
 これって爆弾発言なのかな。
 どうして涼はそう考えるのか。
「美味しい」
 菫子は話を変えたくて、グラスを傾けた。
 チューハイは炭酸にアルコールが入っているという感じなので、
 割と飲みやすい。ピンク色の液体に泡が弾けている。
 頬を仄かに染めながらこくこくとグラスの中身を減らす菫子を
 心配そうに見守る涼の姿があった。
 薫は自分の恋人が別の方を見ていることを気づかない振りをしている。
「誘ってくれてありがとう。二人に会えてとってもうれしい」
 にこっと菫子は笑う。
「菫子が楽しんでるならええんやけど……、楽しんでるか?」
「うん、楽しいよ。でも実は来るの止めようってさっきまで思ってた」
 アルコールのせいか菫子は普段以上によく喋る。
 本音を漏らしているのだと誰の目にも明らかだ。
 涼&薫だけでなくほかにもカップルは何組もいたし、一人で来ている者もいる。
 それぞれ別々のテーブルで静かに盛り上がっているといった感じだった。
 店内には同じ大学の2年の男女が十数名集まっていた。
 菫子の学部から参加している者はほとんどおらず涼や薫と同じ学部がほとんどだ。
「……トイレ行ってくる!」
 菫子は高らかに宣言すると口元を押さえて立ち上がった。
 化粧室へと一目散に駆けていく。
 涼と薫は顔を見合わせると、薫が菫子の後を追った。
「無理して飲むからや」
 自分が飲ませてしまったのだと分かっているから、心が苦い。
 涼は頭に手をやると一気にグラスを煽った。
 グラスの氷がからんと音を立てる。
 チューハイより何倍もきつい酒だが、涼にとっては何でもなかった。



「大丈夫?」
 トイレの個室から聞こえてくるうめき声に薫は心配そうな声を掛ける。
 個室にこもった菫子はかれこれ10分は出てこない。
 薫は辛抱強く出てくるのを待っていたりした。
「う、うん……ありがとう。ごめんね薫さん、折角の飲み会なのに」
「別にいいの。来たくて来たわけじゃないし」
「えっ」
「二人きりで飲む方がいいわ。涼と違って騒がしいの嫌いなのよ」
 薫の思わぬ本音に菫子は言葉を失った。
 吐くものすべて吐いて、喉の気持ち悪さを除けば、回復したのだが
 個室の外に出ようにも出られない。
「あなたを誘おうって言い出したのは涼じゃなくて私。
 菫子ちゃんがいた方が彼も楽しいだろうなって」
 どこか意地の悪い声音で言った薫に菫子は胸がざわついていた。
 訳が分からない。
 彼女はどうしてそんなことを言うのだろう。
 涼がまさかそんな風に感じているなんて。彼女である薫をあんなに大切にしているのに。
「薫さん、私は涼ちゃんの”妹”なの。
 私もお兄さんみたいだって思ってるし」
「嘘つき」
 薫の吐き捨てた言葉は菫子の胸に深く突き刺さった。
 鋭い痛みが無遠慮に体中を駆け巡る。
 菫子の中で波紋のように広がる薫の言葉。
「私は彼を手放すつもりはないから」
 薫の声は静かだった。恐ろしいほどに。
 足音が遠ざかっても菫子は扉にもたれたまま、動けない。
 呪縛されたように。
「分からない……どうして薫さんはあんなことを」
 悟られぬようにしていたつもりが、全然駄目だった。
 友人の伊織だけではなく、薫にまで気持ちが露見するなんて。
 会うのを避けていたから、おかしいと思われたのかもしれない。
 涼の気持ちが知りたい。
 だが薫を傷つけたくはない。
 菫子は迷い道へと入り込んでいた。 



  1、歩幅   3.嫉妬

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