私の胸の奥からどろどろ湧き上がる黒い感情。
 醜悪で大嫌いだから、消してしまえたらいいのに。



 3、嫉妬



「……いったあ」
 菫子は額を押さえながらも体を起こす。
 昨日の飲み会で強がってチューハイを飲んだ為のツケがこれだ。
 元々アルコールを受け付けない体は、素直に拒否反応を起こした。
 幸いなのは今日は午前一番に受けなければならない授業はないことだった。
 ベッドから脱け出ると、キッチンで鍋を火にかける。
 酔いざましに味噌汁を作るため。
 手抜きせず煮干からだしを取る。
 菫子はお湯が沸騰する間、ぼーっと椅子に座りテーブルに肘をついていた。
「……はあ」
 溜息を口にまで出してしまった。 
 どうにかしないとやばいと自分自身でも痛いほど分かっている。
 他の人に目を向けるなんて器用な真似ができないから、余計救いようがない。
 トイレの横の洗面スペースに移動して、ばしゃばしゃと顔を洗う。
 顔を洗うと幾分か、気分がすっきりとした。
 乾いたタオルで拭くと部屋に戻って着替える。
 髪を整えて、ピンを止めて、ナチュラルメイクを施し部屋を出る。
 キッチンでは鍋がぼこぼこと泡を立てていた。
 慌てず騒がず、味噌汁の準備をする。
 朝の匂いが漂ってくると、一日の始まりという感じがしてふいに頬が緩んだ。
 冷凍していたご飯をレンジでチンして、味噌汁と一緒にテーブルに並べ、
「いただきます」
 と手を合わせて食べ始めた。
   学生の本分は恋じゃなくて勉強じゃない。
 秋だから余計感傷的になっちゃってるだけなのよ。
 半ば自分に言い聞かせるように菫子は思考を切り替えた。
 その後、大学での授業もふやけた頭の昨日までとは別人のように  身が入った。
白紙状態だったレポートも一気に終らせた菫子に  伊織は逆に違和感を覚えていた。
 このがむしゃらさは痛々しいと。
 当の菫子本人は、無駄に元気というわけでもなく、普通の調子。
 いい傾向なのだろうが……。
 草壁涼のことが吹っ切れたとは到底思えなかった。


 今日受けなければならない授業を終えて、菫子と伊織が大学を出ようとしていた時、 
 菫子がふいに立ち止まった。
隣を歩く伊織が首を傾げかけた所で  彼女の立ち止まった理由を見つけてしまった。
 視線の先には、草壁涼と、その恋人である三谷薫の姿があった。
 反対側の歩道にいる涼と薫は人目もはばからず抱きしめあっている。
 二人はゆっくりとスローモーションの映画でも見るような動作で、唇を近づけてキスをした。
 抱擁を交わしながら唇を離す気配のない二人。
 車が走る道路の向こう側で揺れる蜃気楼。
 菫子は釘付けになっていた映像から目を離すと、走り出した。
 踵の高いサンダルなので走りにくそうだ。
 すぐに追いかけてきた伊織に腕を掴まれ、我に返る。
「直接見ちゃうときついかも」
 菫子の大きな瞳にはうっすらと雫が溜まっていた。
 俯き加減の背を伊織がさする。
「無理しないで……」
「やっぱ無理しているように見えるんだ」
「極端すぎるわ。ぼうっとしてたと思ったら急にしゃきっとして」
 菫子はいつもはっきり言ってくれる伊織が好きだった。
「はは……」
「今日久々に泊まりに来ない? 明日、菫子も午後からよね?
 私も同じだから、夜更かしして騒いじゃいましょうよ」
 微笑みかけてくる伊織が、菫子の瞳には眩しいほどに綺麗に映った。
「うん、いいね!」
 二人は笑い合った。さりげない優しさは胸に染み込んでいく。
 伊織の存在がこれほどまでにありがたいと思えたことはなかった。
 その日、約束どおり董子は伊織のアパートに向かった。
 アパートといっても小奇麗なので菫子の住んでいるマンションと大差ない。
 すっきりとシンプルな部屋には生活に必要最低限のものしかなかった。
 伊織がこの場所に部屋を借りた理由は、彼の入院している病院の目の前だから。
 いつでも会いに行ける距離ということで選んだらしい。
 カーテンを開けて二人で外の景色を見つめる。
「彼……余命半年って宣告されたわ」
 伊織の突然の告白に菫子は、どう反応していいやら判断がつきかねていた。
 あまりにもさらりと平静の調子で言う伊織。
 小さく微笑みながら窓越しに病院を見つめる彼女の眼差しは強い。
「両想いの人がすべて幸せとは限らないのね……」
 菫子はぽつりと呟いてしまった。
 罪悪感が心にのしかかる。
 伊織は気分を害した風もなく静かな表情をしていた。
「ううん、私は幸せよ。彼と出会えて共に過ごす時間が与えられたもの」
 菫子ははっとした。彼女の言葉にどれだけ救われているのだろう。
 彼女は他意もなくまっすぐな気持ちを口にしただけだとしても
 確かに勇気づけられている。
「伊織みたいに強くなりたいな」
 菫子はしみじみ思う。そんな考えを持てる人は素敵だと。
「相変わらず可愛いことを言うわね。私だって強くなんかないわよ?」
 くすくすと伊織は笑った。菫子はきょとんとしている。
「客観的に言えば精一杯強く在ろうとしているんだと思う」
「伊織……」
「大丈夫よ。あなたは強いわ。だからありのままでいて」
 菫子は、強く捕まれた手に胸が温かくなっていた。 「うん。私ばっかり助けられてて何だかごめんね。
 伊織も何かあったらばしばし言っちゃって。私じゃ頼りがいが
 ないかもしれないけど、何でも聞くから」
「ええ」
「あ、お夕飯まだだよね?」
「菫子と食べようと思って未だ食べてないわ」
「お弁当持ってきたんだけど、食べない?」
「菫子の料理が食べられるのを断るわけないじゃない」
 おどける伊織に菫子も笑った。
「ふふふ、プチオムライスなのだ」
 菫子はにっこり笑って、お弁当箱を取り出す。
 蓋を開ければ卵に包まれたご飯。
 おかずはスパゲッティとプチトマト。
「可愛いー。美味しそう!」
 伊織が感嘆の声を上げ、菫子は至極嬉しそうな顔をした。
「「いただきます」」
 二人は口に含む度に笑い合う。
 こんなに笑ったのは久々だと菫子は思っていた。
 食事もお風呂も済ませ、就寝の時間。
 伊織はベッド、菫子は床に布団を敷いた。
 二人は布団の中、向き合って語り合い始めた。
 抱き枕を持参してきた菫子に伊織が、吹き出していた。
「何かおかしい?」
「抱き枕なんて持ってきたのね。荷物になるでしょうに」
「これがないと落ち着いて眠れないのよ。枕が変っても眠れるけど
 抱き枕がないと絶対無理。不眠症になっちゃうわ」
 菫子はぎゅっと枕を抱きしめている。
「はあ……菫子はこんなに可愛いのにね。抱きしめてあげたくなるわ。
 草壁くんもこの姿見たらきっとそう思うわよ」
「なんてこと言うのよ。伊織って時々大胆ね!」
 菫子は顔を真っ赤にした。
「抱き枕って草壁くんの代わりでしょ」
「伊織!」
 思わず枕を投げそうになった菫子である。
 和まそうとしてくれている伊織。
 あはははと楽しそうに笑いながら気を紛らわそうとしている。
 菫子の瞳の奥がじんわりと熱くなった。
「やだ、どうしたの、菫子」
「伊織、ありがとう」
 半泣き状態になりながら漏らした言葉は掠れていた。
 ベッドの下に伸びてきた手が菫子の手のひらを掴む。
 強くも弱くもない力は、伊織の優しさ。
 ゆっくりと目蓋を閉じて考える。
 逃げるのじゃなく、このままでいればいい。
 諦めの悪さは自他共に認めていることだ。


 午後まで伊織のアパートで過ごし、外でランチを食べた後、一緒に大学に行った。
 滞りもなくその日の授業を終えた菫子は、図書館を訪れた。
 暫く図書館で本を読んでいた時、近くのテーブルに薫がいるのに気づいた。
 否、薫と涼がいた。
 図書館なので会話はないが、目線を交わしては微笑み合っている。
 目で追ってしまう自分に呆れてしまった。
 涼よりも薫に知られたくはなかった。
 この広い図書館には学生はたくさんいるのに、二人を見つけてしまう
 自分の目敏さが嫌で半ば泣きそうな気持ちになる。
 薫を優しい眼差しで見つめる涼。
 心の中に湧き上がる黒い感情はもやもやと騒がしくて。
 二人が図書館を出るまで、心は休まることがなかった。
 意識しないようにすればするほど意識してしまうのだ。 
 菫子は激しく高鳴る胸をそっと押さえ、重症だわと心中呟いていた。



「菫子」
 びくっと頭を起こすと涼がいた。
 閉じられた本が横に置いてあるのに気づく。
 どうやら図書館で眠ってしまったらしい。
 堅いテーブルに突っ伏していた為、首やらが痛い気がする。
 こうやって不意打ちで声をかけられるのは何度目だろうか。
 ぼんやりと焦点を合せると、涼は真顔でこちらを見ていた。
「薫さんは」
 菫子の口から滑りでた名前に涼が怪訝な表情をした。
 わけがわからないと言っているように。
「一緒じゃないんだ」
 何も言わない涼に菫子はそれでも言葉を続けた。
「いっつも一緒ちゅうわけやないで」
 涼は、視線を逸らした。
 涼と薫の二人はラブラブカップルと周りから言われていた。
 人前でべたべたすることはないが、波風が立つこともなく一緒にいることが自然。
 見せかけだけには到底思えない。
「そうなんだ、意外かも」
「それより菫子、もう6時やで。帰らんの?」
 言われて窓を見れば、夕闇に照らされていた。
「随分長く寝ちゃってたみたい」
「一人で危ないし送ってやる」
「このくらいの時間に一人で帰るのなんて慣れてるわ」
「俺が心配なんや」
「妹みたいにほっとけないだけでしょ。もうほっといてよ!」
 私の気持ちなんて知りもしないで。
 菫子は甲高く叫び、椅子から立ち上がった。
 人気のない図書館に声が反響する。
 言葉を失くした涼は、立ち尽くしている。
 図書館を去り際、振り返った菫子は涼に向かって、
「涼ちゃんが本当に兄だったらどれだけよかったか分からないわ」
 絞り出すような声音で途切れ途切れに言った。
 こんなの偽りに過ぎなかった。
 好きになった苦しみから逃れたくて吐き出した気持ちだった。
 同じ血を分けて生まれたきょうだいなら、
 好きという感情を持つこともなかったんだ。
 兄と妹のような関係じゃなくて本当に兄と妹だったなら。
 菫子は首を振っていた。バッグがやけに重く感じた。
 馬鹿みたい……!
 走り出した勢いそのままに大学の校舎内から出て行く。
 涼が追いかけてくる気配はなかった。
 



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