with you


「涼ちゃ……」
「菫子、もっとこっち」
 菫子は首を傾げる。
 夫が一向に目覚めないことにほとほと困り果てていた。
 平日は仕事だから、休日の朝くらいのんびりしたいという涼の気持ちは、
 十分、分かるが今日は二人にとってとても大切な記念日なのだ。
 疲れているのに申し訳ないとも思うが起きてほしい。
 菫子が格闘し始めて既に小一時間が経過していた。
 涼は忘れているのかまだ時間に余裕があると思っているのか、
 目覚める気配など一ミリも見受けられない。
 宙に腕を彷徨わせて寝言を呟く。
 その腕をがしっと掴むと菫子はむうっと頬を膨らませ、
「起きて…… !! 」
 部屋が震えるくらいの大声を張り上げた。
 なまじ声が高い分耳に響くはず。
 だがどうやら効果はゼロだったらしい。
「うーんこのちっちゃさはまさに菫子や」
   涼は、捕まれた腕を逆に掴み返し、細い腕を引き寄せると顔に頬擦りした。
 いよいよ怪しい。
この男は本当に寝ているのか!?
 菫子は突然腕を引き寄せられ自然となくなった距離に心臓の音を激しくさせた。
 ベッドに肘をつく姿勢になり、側には逞しい涼の腕が。
「ぎゃっ」
 菫子は顔を真っ赤にしてうろたえた。
 ゆっくりと引き寄せられ顔と顔が触れ合いそうになるといよいよ菫子は、
 夫が狸寝入りであることを確信した。
気づくのが些か遅いが。
 しかもお腹を圧迫することを懸念している動作なのでこれは意識的に
 やらないとできないことだと感心もした。
 抵抗しようと思っても腰を抱かれて動けない。
 菫子は夫の茶目っ気が大好きで、寧ろ喜んで応じるのだが、
 今日は止めて欲しかった。
「涼ちゃん!? 」 
「そこで声出したら雰囲気崩れるやろ」
 涼は瞳を開け、悪びれもなく口端を吊り上げた。
「嘘寝してたじゃない」
「いつばれるか思ったんやけど、鈍いわ、やっぱ」
 菫子の中で血が逆流した。
「何よ! 」
「っ」
 菫子は、とても言えない場所にカウンターキックをかました。
 涼は体をくねらせ呻いている。
「……きっつー」
 切れた菫子は大胆なこともやってのけるのだ。
 普段の恥らう彼女からは想像もつかない。
「今日のこと忘れてたなんて言わせないわ」
「へ、えっと何やったっけ? 」
 涼は案の定忘れていた。しかも素直に聞き返している。
「……知らない。自分で思い出すのね」
「そんなに怒るとお腹の子に触るで」
「誰のせいよ誰の」
 妊娠中で神経が高ぶりやすくなっているせいもあるだろう。
 今日の菫子は手がつけられそうにない。
 キッ、と涼を睨みつけると寝室のドアを乱暴に開け閉めた。
「信じられない。あれほど約束したのに」
 沸騰していた熱が冷めた菫子はダイニングの椅子に座りテーブルにうつ伏せた。
「……謝ってこないと許してあげない」
 ぐすぐすと泣きじゃくり始めた。
 がんがんがんと拳でテーブルを叩く。
「涼ちゃんのばかー! 」



「あっちゃあ、やりすぎたか」
 涼は、さすがに反省していた。
 罪悪感が胸の中に渦巻いている。
 菫子が可愛すぎてついからかいたくなるのだ。
 それだけならよかったのだろうが、あろうことか大事な約束を忘れてしまった。
「何やったっけ」
 本気で頭を抱えた。
 ここ一ヶ月仕事が妙に忙しく、疲れ果てて帰ってきていた涼は、
 菫子に癒しを求めていた。
 平たく言えばからかいと言う名の愛情表現をしていたのだが。
 はしゃぎすぎが祟った。
「あれか! 」
 ぱっと頭の中に約束が、浮かんだ。唐突過ぎるほど唐突に。
 それは一ヶ月前の記憶。
忙しかったとはいえ、忘れていた自分が、信じられない。
 そんなに前のことでもないのだ。
『今年の12月24日は金曜日なのね』
『去年のイブ懐かしいな』
『うん、何かすごく昔みたい。あっという間だったもん』
 菫子は一年前を懐かしみながら今年のことに思いを馳せていた。
 目の輝きが違う。
きらきらとの表現がぴったりくる。
『24日は仕事で遅なるかもしれんわ。25日に埋め合わせで構わん? 』
『お仕事ならしょうがないよ。それに25日がクリスマスだもん。
 前夜祭なんていらないんじゃないって思ってたし』
 笑顔だが声に寂しそうな響きがあったのは否めない。
 言わせているのは自分だ、と涼は、情けない気分だった。
『二人だけで過ごすラストクリスマスやもんな。
 心に残るクリスマスにしたる』
『楽しみにしてるね』
『ホテルのディナーの予約しとくか。今からでも間に合うよな』
『ディナー! 』
『うわ思いっきり嬉しそうやな』
『特別な時じゃないと行けないから嬉しいの』
『土曜日だし休みやから……朝から出て』
『おでかけしましょ』
『ぷっ。そうやな』
『じゃあ私も今から行きたい場所とか考えておかなきゃ』
『おう、どこでも連れてったるで』
 そう言った時の菫子は、花が綻んだ笑顔だった。
 口を開けて屈託なく笑っていた。
 胸に焼きついた笑顔を、忘れていたなんて。
 しかもつい一週間前、菫子は可愛い
ワンピースを見つけたから買っちゃったのと、見せてきた。
 へえ珍しいななんて笑いながら
 ふわりと母性が滲んできた優しい姿に目を細めていた。
 あの時は今日の前振りだったのだ。
 こっちが忘れていないと信じていたから、何も言わなかった。
「……今日ほど自分で自分を最低と思ったことはないな」
 自嘲し涼はベッドから降りた。
 パジャマのままでダイニングへ向かうと、案の定テーブルに突っ伏した菫子の姿があった。
 鼻を啜る音を聞けば途端に込み上げる罪悪感。
 顔を手のひらで覆い、一瞬うな垂れる。
 一歩踏み出したと同時に椅子の足に踵が当たってしまいガタンと音を立てた。
「……涼ちゃん」
 菫子がこちらを振り向いた。
 泣きはらした表情。
 目は赤く雫がまた零れそうな予感がした。
 心が痛かったが、裏腹に可愛い泣き顔やな
 なんて不謹慎なことを考えている。
 涙で潤んでいるせいか大きな瞳がますます大きく見えて、
恐ろしい吸引力を発揮していた。
(やばいわ。どうかしとる。
 泣き顔を見て喜ぶなんて虐めっ子と違うんやから)
 語弊があった。喜んでない。見惚れていたのだ。
 涼の気配に気づいた菫子は、ぐいと腕で目元を拭い、
「朝ごはん、食べる? 」
 舌ったらずの口調で聞いてきた。
「ああ、頼む」
「ん」
 怒っていたはずなのにしっかりと朝食の準備までしてくれていたのか。
「できすぎて俺には勿体無いくらいの女や」
 背を向けてシンクの前に立った菫子の表情は分からない。
 何も言わず無言でガスコンロのスイッチを押した。
 かちっと音がしてクッキングヒーターの朱色が灯る。
 火にかけられているのは味噌汁の鍋だろうか。
「菫子、ごめんな」
「ううん、私こそごめんなさい。
仕事で疲れてるのにわがまま言って」
 こんなことを言わせている自分が許せない。
「忙しいの言い訳にして何でも流してたら
あっという間に夫婦仲なんて冷え切るで」
「……でも事実だし」
「全部思い出したから。
な、ちょっと遅くなったけど今からでもええやん。
 ご飯食べたらおでかけしよ? 」
「……うん」
 固まっていた表情に温もりが戻っていくのが見てとれた。
「じゃあ決まり、さあ董子の絶品料理を食べるでー」
 わざとらしい位に明るく言ってテーブルの上のラップをかけられた皿を引き寄せた。
 ラップを剥がし、行儀悪いことを自覚しながら
卵焼きを手で掴んで口に運ぶと
 菫子はしょうがないわねという風に笑った。 
 普段通りの彼女の姿がそこにはあった。

 朝食を終わったので、外出する為に着替えることにした。
 クローゼットの中に大事にしまってある黒いベロア調のワンピース。
 膝丈の方が自分には合うし涼も喜んでくれるが、
 ロングの丈だ。おなかの子のことを第一に考えて。
 今年の冬はロングブーツを履けないのが 
 少し残念だけどしょうがない。
 後は黒いタイツを穿いて、終わり。
 化粧も終えて、鏡の前で確認して微笑んでみた。
   シャワーを浴びてから着替えると言っていた涼はリビングにいるはずだ。
 昨日お酒飲んで帰ってきてそのまま寝ちゃったから。
 泣き疲れて冷静さを取り戻すと気遣い足りなかったなと自己嫌悪が込み上げた。
 急に朝ごはんのことが気になりだし、作っていた味噌汁を温めた。
 謝ってくれた涼ちゃんの言葉に、涙が止まった自分は現金そのものだ。
 菫子はふふふと笑い、部屋を出た。
「かっこいい……」
 案の定、涼はリビングにいた。
 黒ジャケットに白いカッターシャツ、下は黒のズボン。
 ジャケットのボタンは留めてない。
 中々ニクいことをする彼に釘付けになる董子だった。
「菫子もめっちゃ可愛い」
 涼のストレートな言葉に董子の頬に熱が灯る。
「似合ってる? 」
 菫子は照れ笑った。
「うんうん似合ってる。
何か示し合わせたみたいやん。気ぃ合うなあ俺ら」
 涼はとても満足気に笑う。
「そうよね! 」
「難を言うならすみれ、ワンポイント足りんかな」
 涼はものすごく楽しそうな様子で、頭の上に手を置いた。
「なあに? 」
「まあ任しとき」
 涼は、ソファーに置いた紙袋から、黒いリボンを取り出してきて菫子の頭に巻いてゆく。
「これでええかな。髪の下で結んであるから取れんやろ」
 見た目はカチューシャっぽい。
 思わぬプレゼントに菫子は、素直な反応を返す。
「素敵……ありがとう」
「どないしたん? 」
 俯き加減になった菫子に涼が、腰を屈めて視線を合わせる。
 背伸びをすると菫子は首が痛くなるので、涼が腰を屈めることが多い。
「え、えっと可愛いけど私には可愛すぎるかなって」
「どうやったら自分の今の装いが引き立つか学んだ方がええな。
 折角似合う格好してるんやし」
「う、うん」
「素直でよろしい」
 涼は董子の頭を大きな掌で撫でると菫子は照れたように顔を赤く染めた。
「子供が生まれる頃には伸びてるかな」
「今度は涼ちゃんに黙って切らないから。
残念そうにつぶやくあなたを見ていたら、何故か幸せな気分になった。
 愛されてるって実感が沸いたの」
 しみじみ呟く菫子に涼は愛しさが込み上げていた。
 さらさらの髪を撫でながら
「行こか」
 と微笑む。
 どちらともなく手を繋いでマンションの部屋から出た。

「菫子、落ち着け」
 きょろきょろと落ち着かない様子で、店内を見回す菫子に涼は苦笑いを浮かべた。
「分かった」
 普段は、滅多に高級レストランは来ないから慣れてないのだ。
 薄暗い店内は、仄かな光に照らされてる。
 遊園地→映画→喫茶店→レストランが本日のコース。
 朝食が遅めだったので昼食は取らず、遊園地に行ってからお茶をした。
 遊園地は某有名なネズミの国だ。
 二人揃って耳帽子を買ってしまった。
 帰宅したら家で被って遊ぶに違いない。
 菫子はメニュー表を見ながら、涼に恐る恐る聞く。
「これ食べてもいい」
「ええに決まっとるやろ。連れてきたんやから」
 くすくすと笑う涼に菫子も微笑んだ。
「このコースにするわ」
「俺はこっちかな」
 お互いのメニューを見せあい、店員を呼ぶと注文をする。
 一品一品運ばれてきた料理は綺麗に盛り付けられていて
 視覚的にも楽しませてくれた。
 最後に出てきたデザートは、菫子がブッシュ・ド・ノエルで涼が苺のショート。
 涼は、何故か苺をフォークで突き刺し菫子に見せつけて食べていた。
 意味深な仕草に、艶を感じ、目をそらしてしまう。
「美味しかった」
「なら良かった」
 ナプキンで口元を拭うと立ち上がる。
 涼が支払いを済ませ、レストランを後にした。
 帰宅するなり菫子は涼がした仕打ちを思い出し赤面する
 とんでもないことをやらかしていたのだ。
「涼ちゃん、痛くない? 大丈夫? 」
「……遅っ」
「ごめんなさい」
「ええって。とっくに痛みは引いたから」
 そう言われても心配だわ。
「さすってあげようか? 」
「マジで言ってますか、菫子さん」
涼はにやっと笑い、腕を組んだ。
「うわ。違う! 」
 無意識で言っていた為余計恥ずかしさが込み上げる。
 菫子は地下室があれば潜りたいと本気で思った。
「疲れたなあ。風呂入りたいわ」
「沸かしてくる」
「一緒に入ろうな」
 菫子はこっくりと頷いてバスルームに急いだ。
 お湯が溜まったのを確認して涼を呼ぶ。
 自分のを脱いだ後タオルを巻いた涼が笑顔で、
「はい、ばんざいして」
 なんて言ってくるから反応に困った菫子である。
「もうすぐママになるのに子供扱いなんて失礼しちゃう」
「菫子を見てると保護欲くすぐられるんや。
構ってやらなきゃって感じさせる何かがあるというか」
 色めいたニュアンスは欠片もない。
 遊んでいるだけ。その証拠に涼は冗談っぽく笑っている。
「いいから先に行ってて! 」
 菫子は、涼を浴室に追い込むとするっと服を脱いでいった。
 ガラガラとドアを開けると泡だらけの頭が目に飛び込んでくる。
広めのバスタブだが、二人で入ったらぎゅうぎゅうだ。
 自然と、大きなだんな様が小さな奥様を抱え込むことになる。
 二人とも洗い終えると、一人ずつ浴槽に浸かった。
「涼ちゃん、本当はいつから起きてたの? 」
「ずっと寝真似こいてたわけやないで」
 涼がそれ以上は言ってくれないから、菫子は考えてみることにした。
「30分後には起きてたとか」
「俺の記憶によれば、10回目の涼ちゃんコールで目が覚めたと思う」
「えええー」
「で、このまま起きなかった時の反応が気になってまどろんでみました」
「あの時、菫子、もっとこっちとか言ってたの寝言じゃなかったのね」
「あそこで気づくとおもったんやけど」
「鈍くてごめんなさいね! 」
 菫子がバシャとお湯をかけても余裕の表情の涼は更に悪びれもなく、
「菫子はそれでええよ。そのままでおって」
 ぎゅ、と彼女の身体を抱え込んで屈託なく笑った。
「何その笑い」
「だからからかい甲斐があるくらいが可愛いって」
「……そ、そう」
 他の夫婦もこんなものなんだろうか。
 とりあえず私は愛されてるし愛してるから、これでいい。
 愛情表現がいささかふざけてる気がしないでもないけど
 楽しいからよしとしよう。
 菫子は頬を緩めて湯船に使った。
 抱えられた腕の心地よさを感じながら。
 


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