最後の夜



今まで興味が沸かなかった香水もつけるようになった。
 派手な女と主張するような香り。
 煙草の匂いを消したかったのもある。
 鼻をつくくらいの匂いに顔を顰めるけれどこれでいい。



柚月菫子がいる学部は、彼女から聞いていたから知っていた。
 ざわざわと学生たちがひしめく中を歩いていく。
 前方を見やれば、一人佇んでいた。
 友人でも待っているのだろう。時々視線を動かして、辺りを窺がっている。
 視線を感じる。こちらに気づいたらしい。 
 目の前で立ち止まった時、あからさまに警戒する姿が少し笑えた。 
 この上なく優しい笑みを浮べる。
「心配しなくても取って食べたりしないわよ」
 口の端を緩く吊り上げる。
 菫子ちゃんは、些か眉を顰めているようだった。
「……薫さん」
「ごめんなさいね、菫子ちゃん。辛く当たっちゃって。
 よく考えたら涼があなたみたいな子を相手にするわけないものね」
 口に出してみれば滑稽に感じられた。
 口をつぐんだ菫子ちゃんはそれでも真っ直ぐ見つめてくる。
「涼が、言ってたわ。菫子は本当の妹みたいな存在だから
 ほっとけないだけで恋愛感情なんて感じたこともないって」
 女としてみていないと彼は言っていたのだがニュアンスは同じような物だ。
「そうよね菫子ちゃんは可愛いすぎるし涼に合うわけないわね」
 私は彼に選ばれたのだ。
「あなたと彼が並んでるの見た人はまるで兄妹みたいだって  言ってたし。私もそれ聞いて納得したわ」
 淡々と言葉が滑り出る。
 時々微笑みかけると、彼女も笑う。あどけなく。
「……そうよ、薫さん勘違いしてただけなんだから」
 弱い調子の声は、必死で言い聞かせている様子。
 私も似たようなものなのかもね。
「私と草壁くんじゃどう見ても吊り合わないでしょ。
周りの人の方がよく分かってたじゃない」
 最大の憂いが取り払われた。
 ずっと気にかかっていた。彼を名前で呼ぶこと。
 好きな男を取られたくない女は心が狭くなる。
 見せてはいないだけで独占欲のカケラもないわけではないのだ。 
「これからもよろしくね、柚月菫子さん」
 菫子ちゃんに、手を差し出す。
 意識することはない。
「涼……草壁くんとのこと応援してるね」
 無理しているだけなのは分かっているから、不快感には抗えない。
 口元が自然と歪んだ。
「無理しなくてもいいじゃない。前みたいに涼ちゃんって呼べば」
 白々しいことを言っている自覚はある。
「ただの友達だからけじめつけなくちゃでしょ」
 なんでそんなにいい娘なんだか。
「義理堅いのね、菫子ちゃんは。ふふ、ありがとうまた三人で会いましょうね」
「うん、ありがと」
 軽く手を振り去っていく。
 彼女の名を呼ぶ親友の声が聞こえてきた。



「薫、菫子が三人で会おうって言ってるんやけど? 」
「待ち合わせの時間は決まってるの? 」
「ああ、17時」
「そっか」
 暫し逡巡し、どうしようか考えていた。
「薫?」
 涼の声が返事を求めている。ふっと笑みが浮かんだ。
「用事があるから先に帰るわ。
 菫子ちゃんにもよろしく伝えておいて」
 これから私は性質の悪いことをする。
 自覚があるのだからまだマシというものだろう。
 実験は既に始まっていた。
 大学内から出ると適当な場所に身を潜ませる。
暫く待っていると菫子ちゃんが出てきた。 
 それに続いて涼が出てくる。
 待ち合わせの時間ぴったりだ。
 いつだって彼は時間に遅れたことはなかったことを思い出す。
 何か話しているがここからでは声は聞こえない。
 目的地がはっきりした所で逆方向から同じ場所を目指す。
 二人の姿が次第に遠ざかった。
 かなり大回りになるが離れて行動しなければ見つかってしまうからしょうがない。
 河川敷が見えてくると、二人が並んで階段に座っている様子が視界に捉えられた。
 涼と菫子ちゃんは、立ち上がって話しこんでいる。
 まさか見ているなんて思いもよらないだろう。
 橋を渡っていく。
 沈みかかっている陽が目に眩しい。
 一歩一歩近づくほどに胸の鼓動がうるさくなる。
 さらりと髪をかきあげながらゆっくりと歩を進めた。 
 涼が気づいたらしくこちらに手を振った。繋いでいた菫子ちゃんの手が離れる。
 満たされた気分で涼に駆け寄った。
 背中に腕を絡めるが、欲しい腕は背中にない。
 肩に頬を寄せる。
「董子ちゃん、涼はもう返してね。
 今からは恋人同士の時間だから」 
 女っぽい行動は嫌悪していたはずが、自分から女の匂いをぷんぷんさせている。
 怖いのは涼や菫子ちゃんよりも変ってしまった自分自身だ。
「薫さん、そんなに守らなくても取ったりしないよ」
 菫子ちゃんの声は、私の声よりも強く響いて聞こえた。
 彼女の強さを見せつけられた気分だ。
 歯軋りしたくなるのを堪えるのに必死だった。
 足音が遠ざかり菫子ちゃんの姿が消えた時、背中に回された腕を感じた。
 まるで彼女に見られるのを嫌悪しているかのようだ。
「用事あったんやないん? 」
「もう済んだわ」
 目的は果たせた。
「行こうか」
 涼の腕に腕を絡め歩き出す。
 脳裏に響くのは強い菫子ちゃんの声。
 その表情を見ていないのに、口元を吊り上げて笑う姿まで想像できた。
 嫉妬するぐらい強くて、へこたれない。
 あんな台詞を言ったこっちが惨めだった。
 勝負にもなっていなかったのだ。
 無理矢理自分の中で納得させれば意外にすんなり割り切れる。
 心が一定方向に動き出す。何で早くこうしなかったか
 諦めの悪かった自分自身を嘲笑う。
 涼にしがみつけば支えられた。
 酒屋でワインを買って、涼の部屋に向かった。
 馴染み深い部屋。さして広くもないが、物も置いていないので狭くは感じない。
「腹減ったな。パスタでも作ろうか」
「そうね」
 私が手伝って、涼が作る。定番のパターン。
 これが最後の晩餐になるだろう。
 このまま別れないでずるずる続けても虚しく醜いだけだ。
 きっぱり告げる自信はないから、別れるように仕向けよう。
 頭の中で繰り返されるシミュレーション。
 冷静な脳内は、別れた後のことまで考えていた。
 火にかけた鍋にパスタを放り込んでいる涼の隣りで
   私はサラダを作っていた。
 適当に盛り付けたサラダと、パスタをテーブルに並べる。
 お互い一言も話さずに黙々と食事を終えて、後片付けも済ませると
 寄り添い合った。
 肩に頬を寄せていると、似合いもしない涙が落ちそうになるから顔を上げた。
 頭を撫でる仕草はとても優しい。
「ねえ、私が煙草吸ってても平気なの?」
「俺の側で吸わんし匂いにも気をつけてるやん。
 マナー悪かったら腹立ったかもしれへんけど」
「そう」
 一年余り付き合っていても内面の全てを知っているとは言い難い。
 穿った考え方をすれば、他人の全てを理解し受け入れる人間などいないのだ。
 部屋にはお互いの呼吸と、掛け時計の音と時々外を通る車の音。
「涼……」
 陽気な涼が、さっきから一言も発しない。
 胸の中に抱いていた違和感が弾けたと思った。
 涼の腕を掴む手に力を加え爪を立てる。
 もう一方の手がそっと掴まれて握り締められた。
 骨ばった手の感触に男らしさを感じる。
 涼を形成するパーツで一番好きな部分が手だった。
 背の高さだって好きだけれど。
 素肌に触れられたい、触れたいといつだって思ってた。
「……抱いて」
 涼の瞳が見開かれ、握られていた手の感触が強くなった。
意味を理解できない初な男ならいっそよかったのに。
 私はあの時から好きだったのよ。
 抱かれた記憶が、想い出となって縛り付ける。
「俺はお前をこれ以上傷つけたくない」
 勝手だがそれを涼から言われると余計辛い。
 もっと物分かりの悪い身勝手な男だったらさっさと振っていただろう。
「忘れられない傷になったって、涼から与えられるなら私はそれでいいわ」
 はっきり口に出したつもりが最後は掠れた。
 ぎりと唇を噛み締める。
「そんな顔、薫らしくない……いやそこまでお前を知らんな」
 どこか遠くを見つめる涼。
 結局お互いに素を見せてなかったということか。
「そうね、私もあんな楽しそうに笑う涼知らなかったもの」
 菫子ちゃんの隣りで少年達の野球をする様子を眺める涼は、
 私には決して見せない顔で笑っていた。
「俺かて強いお前も好きやったけど弱い姿だって見せて欲しかったんやで」
 本音で付き合っているかに見えて実は、お互いの心ごと預けてはいなかった。
「何かに負けちゃう気がしてたの。今から考えると馬鹿みたいね」
「……いや」
 躊躇いがちに顔を上げると涼は苦しそうな顔をしていた。
 すっと真摯な表情になると、
 息が詰まるほどの勢いで体を包まれた。
 涼の想いが詰まった抱擁。
 私の心は確かに抱かれていた。
 そっと腕の中から抜け出すと、唇を重ねる。
 呆気に取られている涼に笑う。
「餞別くらいくれたっていいじゃない? 」
 涼がふっと優しい眼差しになる。
「何か、今までで一番可愛かった」
 ぽろっと呟かれた言葉に瞳を丸くする。
 欲しい言葉をちゃんとくれるんだから、ヤになるわ。
「忘れられなくなったら、会いに来てもいいわよ」
「……そやな、考えとく」
「嘘嘘、冗談。未練たらしくしがみついたりしないから安心して。
 そういうの大嫌いだから」
 くすっと笑う。
 口を上げて笑っていなければ、途端にぼろが出そうだった。
 どうせなら、あなたが言う強い私で別れてあげるわ。
「じゃあね、ちゃんと自分の気持ちに素直にならなきゃ駄目よ」
 耳元で囁いて立ち上がる。放り出された涼の腕が空を切った。
「薫」
 聞き慣れた男の声が背中に放たれたのを振り切る。
 バッグを持って、部屋を出ると早足で歩き始めた。
 歩を緩めることなく、空を見上げながら。
 指だけが酷く凍えていた。寒さではなく解けた温もりで。
 自分の部屋に戻ると、ベッドに横たわる。
 堪えていた感情が、熱い液体となって流れ出していく。
 涼は私のことをちゃんと好きだったのだ。
 勝手にやきもきしている間に涼の心が、離れてしまったのかもしれなかった。
何が違和感だ。自分から近づこうともせずに。
 ほんと、遅すぎたな。
 今頃はようやく自分の本当の気持ちと向き合えているだろうか。
 あのお人よしのことだから私を傷つけたことを悔いているか。
「馬鹿ね、後は自分が素直になるだけなのよ」
 明日が楽しみだ。
 この恋の後始末をして、
 新たな自分に生まれ変われる。
 涙は我慢しない。
 生きていくには泣く事だって必要だろう。
 涼はお調子者のようで頼れる男だったから。 
 一つだけ言えることは、出会いも付き合ったことも
後悔なんて  していないということだ。
 私が好きになったほどの男なんだから自信持ちなさい?
 そこまで言ってやる必要はないから絶対言わないけどね。
 次に付き合うなら私がいてあげなきゃどうしようもないような男がいい。
 そんな男に変えて見るのも面白そうだ。
とりあえず最後に意地悪をしてみようかしら。
 憎みきれないほど可愛い、嫌いだけど好きな彼女に。
    


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