6、末期症状



 両手首は片手でベッドに縫いとめられていた。
 力は込められていないので痛みはない。
 鋭いまなざしが全身を貫いて、石になってしまう。
 首筋にかかる息で、背筋をびくん、と揺らした。
「……いらんこと考えられん位夢中にさせてやる」
 強い口調の連続。それでも語尾は、甘い余韻を残す。
「っ……ん」 
 割り込んできた舌が、絡め取る。
 白い糸が、引いては千切れた。
 意識が、ぼやけて霞む。
シーツを掴もうと指先を彷徨わせた。
「ひどいこと言ってごめん……涼ちゃん」
「謝らんでもええから、素直に俺に応えて。
 そしたら、分かるから」
 甘い声が、体に伝染し広がっていく。
「……っ」
 泣きそうになるのは、優しすぎるから。
 大切に、愛してくれるから切なくなる。
 頼りがいがあって大きな存在。
 体格だけではなく、心も広くて果てしない。
 追いつけることは、きっとない。
 菫子は、それがとても嬉しかった。
 近づきたくてもがいていたあの頃の気持ちのまま涼に恋していたい。
「啼いてもええけど泣くな」
 口の端をあげて笑った涼は男性的な雰囲気で溢れていた。
「でも……見ないで」
 明るい場所では、抵抗があって恥ずかしい。
 寝て起きたら夜だなんて言うけれど、まだ夕日も見えない時間だ。
 両腕を交差して胸を隠し、膝を立てた菫子に
 涼は、ふう、と息をついた。
「無理やな」
 その眼差しに宿る欲情に、どくんと心臓が暴走する。
 スマートに腕を避けられ、肌に唇が寄せられる。
 首を仰け反らせ、声を上げるしか菫子にはできなかった。
 首にも鎖骨にも、ちくりと痛みが刺して甘い電流が体を走っていく。
「涼ちゃん……っ」
 大きな手のひらが確かめる肌はすでに火照ってきているのが分かる。
 手を伸ばした先で触れたものの、熱さに思わず手を引っこめる。
 不思議と嫌な感じはしなくて、こんなにも求めてくれていることが、喜びをもたらした。
「……な。俺がこんなになるのは菫子だけやで」
「もう……何てこと言うの」
 独占欲を自然と満たしてくれる。
「ほんまのことやもん」
 媚を含んだ口調。
 片手を繋ぎ合わせると、心が安らぐのを感じる。
 指先と唇で触れられ、高い声をあげて、彼の頭を押さえた。
 とっくに夢中になっていた。
 与えられる刺激が体を支配し、他の感覚がシャットダウンする。
 涼を感じることだけ。それ以外考えられない。
 素直に応えるというのがどういうことか掴めていなくても、
 菫子は、ちゃんと態度で示していた。
 涼は嬉しそうに、菫子を愛して、優しく攻めている。
 伏し目がちの瞼で、涼を見上げ、薄開きの唇で、堪えず喘ぐ。
 濡れた唇に唇が重なり、吐息を混ぜる。
 潤んだ眼差しで、キスを返す。
 遠くへ連れ去ろうとする指が、悪戯に動く。
 口元を押さえて、堪えた。
 脳裏が白濁しはじめる。
 背が弧を描いて、浮遊する。
「菫子……」
 切羽詰まった声は、早くひとつに溶けたくてしょうがないという感じで、胸がきゅんと疼く。
彼が欲しくてたまらないのは同じ。
 脚の間に触れた髪がくすぐったくて身をよじる。
 そこに触れられることは未だ変な感じがするけれど、
 一歩ずつ近づいてくる波にさらわれたくて、
 本能のままに任せている。
 意識が弾け飛ぶ。
 額と頬に落とされるキスで、菫子は秘めやかな夢に落ちていった。


 どこかで、呼ぶ声がする。
 耳を澄ませて、慎重に歩を進めて、その先へ向かう。
「……こ」
「涼ちゃん、どこ?」
 虹色に輝く雲の上、足元を取られないように
 気をつけて進んでいた菫子は、段々と焦燥に駆られて走り出す。
 あの優しい声に、会いたくて、抱きしめ合いたくて。
 途中、足がもつれて転びそうになったけれど、
 近づいてくる距離に胸を踊らせて、走る。
 気づけば彼の方もこちらに向かって走っていた。
「菫子!」
 大きな声で叫んだ涼が、腕を広げ、強く菫子を抱きとめる。
 腕の中で、包まれてうっとりと心地よい感覚を味わう。
 見上げたら、穏やかなまなざしとぶつかった。
 髪を梳いて撫でてくれる指先さえ愛しくて泣き出してしまった。
 こみ上げる嗚咽で肩を震わせる菫子の手を
 握りしめる手は大きくて、彼だと安堵する。
 当たり前なのに、それが嬉しいのだ。
「もう大丈夫や……一緒やから」
 菫子はふわり、と微笑んだ。
 すがるように、涼の背に抱きついて、ことんと身を預ける。
 それを合図に、短い夢から覚醒した。
 瞬きを繰り返して、うっすらと瞼を持ち上げると、
 どこか心配そうに涼が見つめていた。
 菫子の横に肘をついて覗きこんでいる。
「涼ちゃん?」
「いや、あまりに帰ってこんかったから……」
「夢を見ていたわ。涼ちゃんが出てきたの」
 ぽつり、ぽつり語りだした菫子に涼は興味津々の態で耳を傾けている。
「へえ。どんなんやった」
「涼ちゃんが呼ぶほうへ走って行くんだけど
 雲の上だったからなかなか大変で、
 でもちゃんと走り寄って来てくれた」
「……それで」
「抱きしめて、髪を撫でてくれたの。
 もう大丈夫や……一緒やからって」
「さっき菫子の手を握りながら言うたわ」
「……え」
 夢と現実は隣り合わせで、迎えに来てくれた手を掴んで、戻ってこられたのだ。
 一人でさまよい歩いていた世界を二人で抜け出した。
 ほっと、体の力が抜け、腕を伸ばす。
 繋いだ手のひらに力がこもる。
「一緒に往こう」
 囁きが、落ちてくる。
「……ええ」
 菫子が夢の中を漂っている間に、準備を終えていたらしい。
 戻るのを待っていた涼に、笑いかけ、手を伸ばす。
 向かい合って横になった格好で抱きしめ合っている。
 圧迫感を感じた瞬間彼の手のひらに爪を立てた。
 熱く溶けだしそうな体の奥で、涼が主張する。
 狂おしい引力が、体に満ちては引いていく。
 何度息を吐き出しても間に合わず途切れ途切れになる。
 名を呼んでも、うまく言葉にならなかった。
 心が、泣いている。
 愛し、愛されて悦びの極致の状態で、
 涼と共に往きたくて、
 流れに飲み込まれそうになる中で必死で抗う。
 同じ時を刻む二つの体温。
 温度は違うけれど、重ね合わせることはできる。
 愛しさのかけらを拾い集めて、
 羽なんてなくても、飛べる。
 高く飛翔する。
 リズムを合わせて、ゆっくりと駆け上がる。
 襲いかかるクライマックスに思考を奪われていく。
「菫子……!」
「涼ちゃん!」
 愛してると呟いてキスを交わす。
 淡い光が差し込む。
 虹色の雲を二人で渡る夢ではなくて現実。
 泣き叫んで、眩い光の洪水の中でひとつに溶け合った。


「菫子」
 名を呼ぶ声に、手のひらがぴくりと動く。
「……涼ちゃん」
 涼は、満ち足りた表情で菫子の肩を抱く。
 髪を撫でられて、うっとりと目を細めて胸に寄り添った。
 すらっとしているのに適度に鍛えていて惚れ惚れしてしまう。
 手で触れ、頬を寄せて、心音を確かめる。
 とくん、とくんと鳴り響く音。
 終わりを迎えて、息を整えた後の安らぐ時間。
 汗ばんだ肌にどきっとしてしまう。
 この体に抱かれたのだと意識すれば落ち着かない気分になるけれど、日々愛しさは、増していく。
 どれだけ生々しくても夢じゃなくてよかった。
 背中を撫でる手の温もりが心地よい。
 愛し合った後も大切に扱ってくれる紳士的な部分に安心する。
 決して背中を向けて、寝たりしない。
「羽を失ってしまったけれど、そんなの必要ないって分かったわ」
「どうして」
「涼ちゃんが、手を引いてくれるから怖くないの」
 菫子は、ひしと自分から抱きついた。
 彼は下着だけ身につけて、上半身は裸の状態だ。
「すみれ……」
「今なら愛称で呼んでも許してあげるわよ」
「今ならか。何かやばいくらい素直やな。めっちゃめんこいわ」
「めんこい?」
「可愛いってこと」
 耳をくすぐる軽い音に、顔が火照る。
 腕の中に閉じ込められて、降り注ぐキスに酔う。
「ん……何か心まで裸になるみたい」
「……裸のお付き合いやもんな」
「裸のお付き合いって」
「シャイやなあ。体と体でする自然なコミュニケイションやんか」
「……だって慣れてないからまだ戸惑っているんだもの」
 怖いくらいに涼が近付いて、結ばれて、そして離れていく。
「大丈夫や……すぐに初心者マークを外させてやる」
「…………っ」
 触れた唇が、火をつける。
 菫子がぼうっと意識の波間を漂っている間に
 再び、涼は準備をしたらしく、
 獲物を捕らえるように妖しげな眼差しで菫子を捉える。
 心臓が跳ねて、肌の熱がますます上がる。
 身を起こした涼が導いて、二人の位置が入れ替わった。
 横たわった涼の上で、体を揺らす。
 伸びてきた指が、菫子を奏でる。
 涙が弾けて、落ちる。
 快楽の波がじわじわと忍びよる。
 二度目の終わりは早くて、腕を引かれた瞬間、涼の体の上に倒れこんでいた。
「……好き……よ涼ちゃん」
「めっちゃ好きや」
 眠りについた二人は、同じ夢を見て再び目を覚ました。
「一緒にシャワー行こう」
「涼ちゃん大きいし、二人で入ったら狭い」
 現実的な返事に、涼は苦笑いした。
「菫子がちっちゃいから平気やろ」
「……先に行ってて」
「後から来るんやで」
 言い残し、涼がベッドを抜け出た。
 菫子は、息をつくと、
「……本当に、夜だなんて」
 外からは月明かりが漏れ入っていた。
 自分たち二人の懲りなさ加減に呆れるばかりである。
 部屋を出る際に照明のスイッチを入れてくれたので、
 光りに照らされているが、未だに裸のままだと思い知らされる結果になった。
 ぶるり、震えた菫子は、シーツを巻きつけて床に放られた下着を拾う。
 バッグの中の携帯で時間を確認すると、溜息をついた。
 脱ぎ散らかされた服を畳んで涼の分を胸に抱えると、浴室へ向かった。
水の流れる音。浴室の扉のガラスに大きな影が映る。
(……ごめん、涼ちゃん、約束守るの無理)
 脱衣籠に、服を置いて、そろり立ち去ろうと忍び足で動いた菫子だったが、
 突然、浴室のドアが開いて、びくっとした。
「嘘つきはあかんなあ。覚悟せえ菫子」
「……きゃあっ」
 すさまじい勢いで、抱きこまれてシーツが落ちる。
 浴室内に連れ込まれた時には、肌に何も身につけていない状態で涼に迫られていた。
「疲れさせた侘びに洗ってやる」
「い、いらないわよ」
「遠慮はいらん」
「……変なところ触らないでよ……ヘンタイ」
 憎まれ口を叩きながらも、浴室から出ようとしないのは、
 涼が、軽く触れる程度しか触れてこないからかもしれない。
 単に遊んでいるだけで本気じゃないのだ。
「朝までずっと一緒やろ。時間は有効利用せんと」
「……だからって」
「抗う菫子も可愛いなあ。それでも俺は優しいからここで止まるけど」  
 不敵に笑んだ涼は、菫子を椅子に座らせて、湯船に浸かった。
 菫子は、気恥かしさでいっぱいだったが、こんな馴れ合いも悪くないと思った。
「優しい人は、真正面から見たりしないと思うんだけど」
「素っ裸で睨まれても、そそられるだけや」
 慌てて、上半身を腕で隠してもどうにもならず、背中を向けて体を洗い始めた。
 時々、バスタブの中から入る茶々に、辛抱強く反応を返す菫子であった。

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