once more night


いっそ出会わなければ良かったのに。
 そう思うのは自分の苦しみから逃れたいだけなのか?
 たった一度夜を過ごした女を忘れられない。
 胸を離れないのだ。
 我を忘れるほど夢中になったあの夜。
忍ばせておいた避妊具がなければ、事に及ぶことはなかった
 とは思うが、何もせずに解放してやる自信は欠けらもなかった。
 今まで一度も、あんなに激しく女を抱いたことはなかった。
 頭の中は冷めていて理性を手放したことなどない。
 


 仕事に使う資料を探しに本屋へと車を走らせた。
 別に、見つかりさえすれば何処の本屋でも良かった。
 わざわざマンションから遠い場所を選ぶなんてどうかしているとは思うけれど。
 平日でも時間帯的に客は割と多く、店内は今流行のポップスが賑やかな雰囲気を醸し出していた。
 店内を散策しているとふと気になる面影を見つけた。
 4月の終わり、出会った彼女に間違いなかった。
 今日発売の本は戸棚ではなく平積みされているというのに、わざわざ
 棚に手を伸ばそうとしている。無理な体勢のせいで足が半ばヒールから浮いていた。
 見ていられず横から手を伸ばし本を取って声を掛けた。
「これでいいのか?」
 今気がついたとばかりに彼女がびくりと反応しこちらを振り向く。
 驚き固まった顔。
「……やっぱりいいです。取って頂いたのにごめんなさい」
 慌てたように早口で捲くし立てながら本を俺に押し返してきた。
 あからさまに動揺され、ショックを感じている自分がいる。
 だが、俺の表情は変らない。彼女は顔を強張らせていた。
 目立つことすら気に留めずに店内を駆け抜けて出て行った。
 残されたのは一冊の本。
 俺は、探していた会社用の資料と一緒に、その本もレジに持って行った。
 彼女の好きなものを知りたいと無意識で思っていたのかもしれない。
 本屋を出て駐車場から車を出すと、必死で探していた。
 他でもない、彼女ー沙矢ーを。
気が動転していることも考えられた。
 だとしたら自分の責任だ。
 慌てて飛び出したから心配になっていた。
無我夢中で車を走らせた。恐らくはバスか電車かで通勤しているの
 だろう。既に帰っている場合もある。
 だが、何故かまだこの辺にいる気がしたのだ。
 裏通りなんかに紛れ込んでいなければいいが。
 一通り巡って本屋のある通りまで戻ってきた。
 バス停も手前にある。
 目を凝らしてよく見れば
 疲労しきった表情で椅子に座る沙矢の姿があった。
小さな傘を差しかけてうつむいている。
 俯き加減なのを見ると何かあったのかと勘ぐってしまう。
 バスが停止する位置にゆっくりと車を寄せる。
 クラクションを鳴らすが、気がつかない。
「乗れよ」
 痺れを切らして助手席のドアを開けて、声を掛けた。
 明らかにわざとらしいのにきょろきょろと辺りを見回している。
 当然ながら誰も反応していない。
「え……」
 煙草のフィルターを噛み、ハンドルを握りなおす。
 戸惑っている様子が手に取るように伝わってきた。
 おかしな見世物になっているのか、周囲の人々の視線が
 こちらに集まってきていた。煩わしいことこの上ない。
「ありがとう」
 沙矢は声を絞り出して唇に乗せた。
 乗り込んでくる彼女に俺はフッと笑うと、ドアにロックをかけ、窓を開けた。
 シートベルトをして準備が整ったのを確認すると車を走らせた。
「何か疲れきってる感じだった。
 実は本屋で気づいてたんだけどな、声をかける前に走っていったから」
「……あの日からあなたの事を一度も忘れたことなんてない」
 ルームミラー越しに見やれば、泣き出しそうな表情だった。
「馬鹿だな」
 知らず自嘲の笑みを浮べていた。
 自分自身に言っている気がした。
「忘れられるわけ……ないじゃない」
 顔を見なくても大粒の涙が彼女の頬を濡らし始めているのが分かった。
「どうしてあんなことしたの! 」
 涙混じりの高い声。
「あなたにとっては簡単なことなんでしょ。
こんな世間知らずな子供を手に入れるくらい」
「私なんかのどこが良かったの? 私なんかじゃなくても
大人で綺麗な女の人なんてたくさんいるでしょ」
 塞き止めていた感情が溢れているのだろう。
 言葉は次々に沙矢の唇をこぼれた。
「欲しいと思った」
「無性にお前が欲しかったんだ」
 あの日の心情をぽつぽつと漏らす。
 言葉にすれば陳腐で、これほど分かりやすい物はないのに、
 簡単に口にすることができない自分。
 あの時言っていればお互いに苦しむこともなかった。 
 階下で目が合ったあの時、俺の心はかき乱された。
 瞬時にがんじがらめにされたんだと。
「……嘘よ」
「誰でも良かったんでしょ? 」
 彼女の長い髪が揺れてシートに音を響かせた。
 首を振ったのだ。
「お前だから欲しいと思った。信じてくれなくてもいいが」
 真摯な声音で呟く。
 あんな手段しか選べない俺を簡単に信じられるはずがない。
 否定でも肯定でも彼女の言葉が聞ければどちらでも良かった。
「……本当? 」
 恐る恐る返ってきた反応に胸を撫で下ろし、
「ああ」
 吐息を吐き出すように。
 後部座席からは微かな嗚咽が聞こえてくる。
 一気に車のスピードを上げた。


「怖かったの」
 ここは、たまに一人でのんびりとしたくなった時に泊まるホテルだ。
 家へ帰らなければいけないとぼそぼそと言っていた言葉を聞き流し
 少し強引に連れて来た。正直な所、帰したくなかった。
 家へ送ろうと最初は思っていたが、涙を啜る音で、気持ちは霧散した。
 そそられてしまったのだ。
 それだけではなく、雨の中一人でバスを待つ孤独な姿に保護欲もかきたてられていた。
 幾分落ち着いた表情でソファーに座っていた沙矢は、
 突然肩を震わせて泣き出した。
 冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出すとグラスに注いで渡した。
「それもこれも俺が原因か」
 "逃げ出したなんて、傷つくな"
語尾に含ませていた意味を沙矢は感じ取ったようだった。
 煙草を口に銜え、火をつけるとフィルターの焼ける音がした。
「ごめんなさい、そんなつもりじゃ」
「冗談だよ。辛かったな」
 うな垂れる沙矢の頭を柔らかい仕草で撫でた。
「今夜は側にいてやるよ」
「お風呂入ってもいい?汗で気持ち悪くて」
 強請るように見つめてくる仕草がたまらない。
「ゆっくり入れよ」
 淡く微笑んで掠める程度のキスをした。
「うん」
 バスルームの方に消えた沙矢の背中を見送る。
 口では汗で気持ち悪いなんて言っているが、そのつもりだと都合よく解釈しそうだ。
 どちらにしてもこの後の展開は分かりきっているけれど。
 少し離れた場所から、湯の流れる音が聞こえてきた。
 俺は、冷蔵庫からビールを取り出し、プルタブを起こした。
 アルコールを煽ると幾分体を熱が満たす。
 この程度の軽いアルコールじゃ酔えやしない。
 喉に流し込み、考える。
 このまま流されるまま、ずるずると穴に  落ちて行くことを望むのか俺は。
 手離せなくなる。
 愛情なんて簡単に言えないから性質が悪い。
 愛しいと思ったのは確か。
 もう会わないと思っていたが、ふいうちの再会。
 はっとした。
 彼女は一段と綺麗になっていた。
 コケティッシュと表現するに相応しい。
 ふっ。
 口元をゆがめて笑う。
 欲しいと言われて喜ぶなんておかしいんじゃないのか。
 奔放すぎると痛い目見るぞ。
 意味分かってるのか。
 心が欲しいってわけじゃない。
 どういうことか分かってるよな。
 意味分かってて喜んでるなら、本当の馬鹿だ。
 こんな男の中に堕ちるのを望むのだ。
 そもそも車に乗ることを受け入れた時点で彼女も半ば覚悟していたはずだ。
 俺たちは大人の男と女なのだから。
 立ち昇る紫煙の中に映るのは都合のいい未来のビジョン……。
 俺はタオルを浴室の外にあるかごにそっと置いた。
 ベッドの端に座ってコロンをつけていると、部屋のドアが開く音がしたので  そっと、ベッドの引き出しにしまった。
 バスタオル姿の沙矢がたたずんでいる。
 洗いざらしの髪は拭いているとはいえまだ生乾きだ。
「あなたは?」
「今朝入ったからな。いいんだ」
 匂いに気づいたのか、沙矢がきょとんとしている。
 惚けた表情でこちらを見るな。
 自分を制御できなくなる。
 見つめ返せば視線が交差した。
 口づけを重ね、瞳を閉じた沙矢の背中に腕を回しバスタオルを解いた。
 そのままベッドに誘導し縺れ合いながら沈んでいった。


 窓を叩きつける雨が、激しさを増す。
 その雨よりも激しく俺は彼女を苛んでいた。
肩に回された腕、甘い啼き声。
 彼女と抱き合っていると五感全てを刺激される。 
 沙矢の涙は快感によるものともう一つは。いや考えるな。
 俺に拭う資格なんて存在しない。
 お互いを感じ合うことで、伝わるものがあればいい……
 なんて戯言だな。
 沙矢が首を振っている。
 怪訝な顔で凝視すれば
「時計の音を聞きたくないの」
 やけに可愛らしい台詞が返ってくる。
   くすりと笑い、
「俺だけ感じていればそれでいい」
 傲慢に告げた。
陶酔した表情の沙矢。
 清純可憐なさっきまでの顔とは別人で、ベッドの中では彼女は女と化す。
 まどろんでいる姿に自然と口の端が上がる。
 唇と指先で隅々まで確かめていると確かな生ある物の温もりを感じた。
「……り」
 自分の口から出た言葉にはっとした。
 俺は何を言おうとしたんだろう。
 しがみついてくる体は震えていた。
 内心、舌打ちしながら、壊れそうな体を抱きしめる。
 思わず歯軋りしてしまった。
 彼女が、俺を嫌うのもそれはそれでいい。
 いっそ嫌われた方が楽だ。
 彼女が突き放さない限り俺は、求め続けててしまう。
 本気になることはないだろうが。
 快楽と悲しみが入り混じった表情で、彼女がしがみついている。
 やはり思うがままに蹂躙してしまったな。
 だが彼女が望んでいたからなんて言うのは卑怯か?
 寂しそうにしていた子猫に一時の温もりを
 分けてやったと言ったらいけないのか。
(沙矢……)
 思いの外力が強くなる。
 揺れる視界に、涙の跡の残る表情が映った。
 俺は、また罪を犯している。
 傷を残した分、己が傷ついていることなんて考えもせずに。
 眩い白い世界に共に旅立ち、やがて重なり合った。
 体の向きを横にして腕枕する格好になる。
 しっとりと濡れた髪から香るシャンプーの匂い。
 自分と同じものを使っているのに、違う感じがするのが不思議だ。
 抱き寄せれば腕の中の彼女は、穏やかな寝顔をしていて、胸が痛くなった。
 


 朝の光がカーテンの隙間から漏れている。
 結局ろくに眠れず夜をやり過ごした俺は煙草に手を伸ばす。
 微かな音に視線を向ければ、ぼうっとした表情で体を起こす沙矢の姿。
「……はずかしい」
 急に顔を赤らめ、両手で頬を押さえた。
「何を今更」
 あからさまに冷たい一瞥をくれてやる。
「だって……」
「可愛かった」
 腕の中で乱れるお前は。
「……!」
 先程よりも激しく頬を赤く染めた沙矢は戸惑いつつ、
「嬉しいけどそんなこと言われると……」
 そう口にした。
「また会えるか?」
「私は会いたいけど」
「俺は、ちょっと厄介な仕事をしてるから、
 そんなにしょっちゅう暇なんてできない。
 それでもよかったらまた会おう」
 厄介……都合のいい言い訳だ。
 ただそう言い聞かせているだけで、すぐ会おうと連絡を入れるに決まっている。
 そして会う度に彼女とともに過ごす夜をもう一度と願うのだ。
 今回のように。
「会えるなら待つわ」
 笑いかけてくる沙矢の髪を梳く。
 ふと渡そうと思っていたものを思い出した俺は、
 床に置かれた袋に手を伸ばした。
 これを買ったのはあの翌日だった。
 会える機会があったら渡そうとずっと持っていたのだ。
 袋から箱を取り出し、片手に持ち、沙矢の髪を掻き分けた。
 首筋に触れ、耳元に辿り着く。
「……青?」
 左右のピアスホールにピアスを着ける。
「似合ってる」
 指先でピアスを揺らすと、
「え……あ、ありがとう」
 沙矢ははにかんだ。 
「いつか落としてしまったからな、そのお詫びも兼ねて」
 吐息が触れるほどの至近距離。
 沙矢の胸の高鳴りが聞こえてきた。
 そんなに嬉しかったんだろうか。
 屈託なく笑う顔は綺麗で愛らしくて。
「別に無理することないんじゃないか。そのままで充分だと思うぞ」
 大人っぽく見せようと頑張っていたのは分かっていた。
「……でも」
「外見だけ取り繕ってもな」
「もう無理しない。そのままの私でいる」
「そうだな」
「送っていってやるから準備しろ」
「わかった」
 沙矢は時々ちらちらとこちらの様子を窺がっている。
 自らを抱きしめる仕草から目を逸らした。
 髪を掻き上げて、視線を送る。 
 衣服を整えて駆けて来る沙矢の腕を取って部屋を後にした。

 たとえ抱き合うことしかしらない関係でも、
 お互いに触れ合っていることこそ真実なのだから、
 余計な言葉なんていらないだろう。
 自分に言い訳するように溜息をついて、彼女の腕を引いた。
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