昼頃、携帯を開くと一件のメールが着信していた。
 沙矢からだ。因みに携帯には彼女の写真が何枚か保存されている。
『青、お仕事がんばってる?
 今、公園に散歩に来てます。
 お家に近い所だし、心配しないでね』
 近場なので別に気にすることはないだろうが……。
 心配性すぎるのは重々承知しているが、心配になるのは仕方がない。
 はしゃいで走ってはないだろうか。
 何もないところで転倒するほどの粗忽者ではないと思う。
 が、ありえなくもない。
 人間気の緩みがあらぬ失態を招く。
 自嘲して携帯に向かった。
『いい気分転換になったか?
 妊婦には適度な運動も必要だし、近場なら心配しない。
 メールを忘れないようにしろよ。午後になったら
 こちらから入れるが。今日は10時位になりそうだ』
 最近富に忙しくなった。
 仕事は嫌いじゃないし、のめりこむと他を忘れてしまいそうになるほどに好きだ。
 仕事か愛か両天秤にかけることなんて俺にはできはしない。
 沙矢がいるから、仕事に安心して行けるのだ。
 暫く待っていると携帯が着メロを鳴らした。
 午後の短い休憩時間の間のみ、音量をオンにしている。
 ここは屋上。誰も見ていないし、聞いていないから抜かりはない。
 自分の口元が笑みを刻むのを自覚しながら目で文章を追った。
『うん。楽しかったよ。また帰ったら話聞いてね。
 お仕事頑張って下さい(^_-)-☆』 
 沙矢に似合いの顔文字。
 同じ携帯会社だから絵文字も使えるが、俺も沙矢も顔文字の方が味があって好きだった。
『また帰ってきたら話聞かせてくれ。
 じゃあな、サンキュ 』
 返信して携帯を閉じ、バンダナで包んだ弁当箱を開いた。 
 愛妻弁当なんて、使い古された言い方はしたくはないが一般的にはそうだろう。 
 彩り豊かな具の数々。
 絶妙な配置の盛り付けは食べるのが、勿体無いといつも感じる。
 ここで昼食を取るのは毎日ではない。
大概は、医師の面々と同じ場所で忙しなく食べるので味わっている気がしなかった。
特に俺は駆け出しの新人で、余計に休む暇などない。
勉強することはたくさんある。
それに関しては文句はあろうはずがないが、
 やはり一人になれる空間は、ほっと息をつけるのも事実だ。
 比較的時間がある日は屋上に上り外の空気を吸いながら食事をすることが常になっていた。
 入院患者の洗濯物がはためく屋上には不思議に生活感が漂っていた。
 未だ冬真っ盛りの折、屋上で食事をする物好きは他にいないから
 一人の時間を満喫できた。
 その時かつかつという足音共によく通る声が響いた。
「そこの幸せ浸ってますって感じの君」
 この声はと思いながらも振り返らない。
 無視ではなく聞き流しである。
 どうも俺の身内には一癖も二癖もある人物ばかりで、少々頭が痛い。
 院長を筆頭にだからたまったものじゃない。
「俺の義弟はいつからそんなに冷たくなったんだろうか」
「内科部長はお昼、済まされたんですか」
「んー勿論。昼食を済ませて、青を探しに行ったらいなくて
 もしかしたらと思って屋上に来てみたら幸せオーラを漂わせる男が一人」
 意味ありげな物言いをする。
「……何かご用ですか。何の用もなしに俺に会いに来るあなたではないでしょう」
 自然と憮然とした口調になる。
「今日、翠が実家に行くって」
「それが何か」
 大した問題ではない。
「面白い物が見つかったから沙矢ちゃんに見せに行くとか」
 面白い物、妙に嫌な予感がする。
 ろくでもないことを沙矢に吹き込まなければいいが。
「へえ面白い物か。姉は退屈嫌いなので常に楽しいことを探してるみたいですね」
「ははは、さすが姉弟ってか」
「……一応血は繋がってるから分かる部分あるんですよ。嫌なことに」
「ふうん。俺も気になる所だけど、翠は教えてはくれないだろうしなあ。
 君が気が向いたら教えてね」
 ひらひらと軽く手を振って義兄こと葛井陽は去って行こうとする。
 文句のつけようのない爽やかな笑みだった。
 内容次第では、話す気などかけらも起きないだろう。
 翠は話さないというのも大いに頷けるが、その翠の夫だ。
 真っ直ぐに言葉を受け取ってはならない。
 俺を試して遊ぶくらいするか?
 いや彼はそこまで悪人ではないか。
 人前でも何も動じない図太い男だというのは思い知っていたけれど。
 少年時代の思い出したくもない記憶。
 表情を消して、弁当を食べるのを再開した。
 味わって食べる余裕はなくなり結局、流しこまなければならない羽目になった。
 あの人も忙しいだろうに物ずきだな。あれだけ言いにわざわざ来たということになる。
 些細なことだな……。
 お茶で喉を潤して、立ち上がった。

 1日を無事に終え、時計を見ると9時半を回っていた。
 沙矢にこれから帰る旨を告げるメールを送る。
 息をつき、職員駐車場に急いだ。
 白のBMWがない。既に院長は帰宅しているようだ。
 キーを使い車に乗りこんだ。
 タイヤが路面を滑りゆっくりと加速する。
 朝、家を出る時の脳内は仕事モード、帰る時は、
家すなわち心は沙矢の待つ場所へとひた走っている。
 軽快な走りに気分もよかった。


家路に着くと玄関から、転がり出るように沙矢が出てきた。
 慌てなくても逃げないのに、ドアを開けた途端
 ぶつかる勢いで、出迎えられた。
 さっと抱きとめると腕の中で、はにかみ上目遣いに
「お帰りなさい、青」
 涼やかな声。
 大きくなってきたお腹の隙間分の距離を残し触れ合う。
 夕食の匂いより先に沙矢からの香りで、今宵の晩餐のメニューを知る。
「ただいま」
 靴を脱いで家の中に上がると、鞄とコートは奪われるように沙矢の腕の中に移動した。
 沙矢はパジャマにショールを羽織った姿で、眠る準備を整えている状態だ。
 ダイニングへと向かう間も彼女は横目でちらちらとこちらを見ている。
 後ろより隣を歩いてくれる方が嬉しい。
 振り返らずとも姿を確かめられる。
 今すぐ話をしたいけれど、夕食後落ち着いてからでも時間はあるのだ。
 テーブルに着くと、少し離れたキッチンカウンター越しに沙矢の姿が見える。
 帰り際にメールをしたので、既に温まっているようだ。
 並べられた料理からは湯気が漂い食欲をそそる。
 ビーフシチューの皿の端にフランスパンが添えられ、クルトンの載ったコールスローサラダもある。
 ボリューム満点だが、野菜もあるので食べきれるだろう。
 手をつけた料理は残さない。
 子供の頃に叩きこまれた教えの一つだ。
 残すのが一番の贅沢だと。
 無論、沙矢の手料理を残すはずもないが。
「お酒は?」
「ああ、ワインを」
 飲めるように用意してくれていたらしいワインがグラスに注がれる。
 今日は白ワインか。
 グラスを手の平で揺らして弄ぶ。  グラス越しに瞬きする沙矢が映し出されていた。
「お疲れさま」
 にっこりと微笑まれれば一気に疲れが吹っ飛んでいく。
 大げさではなく実際に起きている現象なのだから、不思議なパワーだ。 
「今日何かあったか?」
 ワインで口を湿らせた俺は、
 言いたそうに手の平を擦り合わせる沙矢に問いかけた。
「公園に遊びに行った時に、小さい子供を連れたママさん達に会ったんだけど、
 その中の一人のママさんが、話しかけられたの。
 お腹の赤ちゃんのこと話したら、
 子供が生まれたらその子連れて公園に遊びに来てねって言ってくれたわ」
 声の調子で俺の答えを不安半々で期待しているのが分かる。
「そうだな。落ち着いたら子供連れて散歩にでも行くか」
「よかった。賑やかな場所嫌かなって思ったから」
ふ、と瞳を緩める。
 親子連れの群れなんて、以前はごめん被りたい部類だった。
沙矢に出会い惹かれるまで、俺は小さな子供を特に好きではなかったからだ。
 今では、小児科に訪れた子供を見かけると
 早くよくなるようにと声をかけることもある。
 子供に懐かれるのに慣れていない俺は些か戸惑いもあるが、
 無邪気そのものの姿は見ていて可愛らしい。
 変れば変わるものだ。
   我が子となれば、いとおしさは比べ物にならないだろう。
「青、優しい顔してるわ」
「そうか?」
「とっつきにくくて近寄ってこなかった人達まで虜にするんだろうな」
「……お前と俺の子供のこと考えてたんだよ。
 普段からお前以外の前でこんな顔するわけないだろ」
「否定しなくても」
「誰彼構わず愛想振りまく芸当は一生できないと断言する」
 沙矢ははっとして目を瞠る。
 本気だからな。
「誰彼構わず優しい奴の方がいい?」
 意地の悪い問いかけだ。
 口角が上がっている自分を意識した。
「……いじわる」
「言うと思った。つまりは嫌なんだろ」
 答えられない沙矢がテーブルに頭を伏せて唸っている。
 はっきり言えないのが、彼女だ。
「心配するな。俺はどうでもよかったら見向きもしない男だ」
「……ぷっ。青らしくておかしい」
「おかしい。その評価は気に入らないな。
 どう調理してやろうか。生殺しが辛いってお前も知っているだろ」
「ごめんなさい!」
 冗談は一切なしの脅し。そう、俺はいい考えを思いついたのだ。
 刺激が欲しくてたまらないであろう妻に仕掛けるゲームを。
「自分の意志を曲げてまで謝るのはよくないな」
「はう。ご飯食べて! 折角温めたのに冷めちゃうわ」
 最初のはうは何だ……。
 妙な反応をした沙矢に苦笑し、食事を再開した。
 ついつい10分程話し込んでしまった。
 まだ、これから入浴だというのに。
 誤魔化すように笑い席を立った沙矢が、キッチンに向かう。
 シンクに立つ後姿から声だけが、聞こえてくる。
「今日翠お義姉さんが来たわ。
 一緒にお茶飲んで、一時間もいらっしゃらなかったけど
 とっても濃い時間を過ごしたのよ」
 ハートが飛んでいそうな弾んだ声。
「青って学生時代もモテモテだったんだろうな」
 水の流れる音。調理器具を洗っているのか。
 独り言だからツッこまなくていいのだろうと判断し
 放置プレイを決め込むことにした。
 さて、どれくらいでギブアップするかな?
 


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