9月9日、空に赤い月が姿を表す。
汝、これを見てはならない。
見たものは魔と化すだろう。



「止めろ、アリーシャ」
 彼はカッターを手首に当てていた妻アリーシャの姿を見つけて怒鳴った。
「放っておいて」
 彼が見ているのにも構わずカッターを押し当て食い込ませる。
 じわじわと広がる真紅。見ている側も痛々しい。
 駆け寄った彼が、彼女の腕を掴むとカランと軽い音を立てて、カッターが転がった。
 慌てて拾うと手を伸ばすものの強く押さえつけられていて適わない。
「あ…………」
「何やってるんだ」
 分かりきっているのに聞くのは狂い始めているからか。
「……うっ」
 苦しげに呻く彼女の瞳からは涙が滲んでいた。唇が切れるほど強く噛んでいる。
 彼はそっと後ろから抱きしめた。
「なぜ、俺に何も言ってくれない。そんなに頼りないのか」
「あなたの重荷になりたくなかったわ。毎晩仕事から疲れて帰ってきて
 眠りにつくあなたに何が言えるの。言えるわけがない」
 生地越しに震えが伝わってくる。彼は益々抱きしめる腕に力を込めた。
「ごめんな。お前の苦しみに気づいてやれなくて」
「シン」
「これからは一緒に苦しめばいい。夫婦なんだから痛みも傷も二人のものだ」
 こんなにぼろぼろになるまで、君を苦しませて俺は最低だ。
 これからは一緒に苦しもう。
 泣かなくてもいいから。
 問いかける夫に、妻はこくりと頷いた。
 弱い二人は苦しみから脱け出す術を知らず。
 堕ちて行くことも知らずに束の間の天国へとひた走ってゆく。
 アリーシャの血を見てシンは狂気が目覚めるのを感じた。
 アリーシャも、わざわざ見せつけるように手首を切っていたのだが、互いに知る由もなかった。



 傷口に押し当てられる包帯を冷めた目で見つめる。
 こちらを心底案じている表情で彼は包帯を丁寧に巻いてゆく。
 ああ、こんなに仰々しく巻かなくても大した傷じゃないのにね。
 クス。心の中で哂っても決して悟られることはない。
 きつく巻かれることによってちくちくと痛むのだが、心地よささえ感じた。
 彼が目だけで笑ったのは気のせいかしら。
 関係ないわね。

 その夜白い包帯を自ら外した。
 愛の交歓をするのには邪魔だったから。
 夫が目を瞠る。それでも彼は、行為を止めようとは思わないようだ。
 しゅるしゅると解けた包帯は小さな血痕がついていて、
 新たな血を補わなければ足りない。
 互いが互いの衣服を脱がせる。
 隆起した筋肉、引き締まった腰が、欲を誘った。
 夫も食い入るように私の裸体を見つめている。
 締め切ったカーテンに月明かりが差し込んでいる。
 向かい合う二人は笑いもせず、指先を絡ませた。
 どくどくと血潮の流れる音と、心臓の音が静寂に響く。
 どっちが先に仕掛けるか見ものだ。



 白いカーテンは映画のスクリーンのごとく二人を映し出す。
 生まれたままの姿を曝け出している男と女を。
 硬く突き出した頂が、艶めかしくて、彼は喰らいつく。
 女性の内部と繋がっているそこは些細な愛撫でも過剰な反応を示す。
 月明かりが差し込む部屋の中で、舌を絡め、足を絡ませる。
 無茶な体勢というのも互いの頭には既にない。
 弓なりに反る女の背中を男は幾度となく抱きしめた。
 背中に増えているだろう傷痕。
 内部に潜り込む度にひりひりと疼く。
 縺れ合うように広いベッドに倒れこんで互いの肩先に噛み付いた。
「っ…………」
 奪いつくしたい。
 自分に足りない何かをもう一人から吸い取ってしまおう。
 赤い雫が筋となってシーツを汚してゆく。
 ぽたりぽたり花びらが落ちる様で美しい。
「貪欲な」
 シンの方から漏れた呟き。
「浅ましいのかしら」
 問いかけるでもなくアリーシャの唇から淡々と漏れた言葉。
「かもな」
 くっ。口の端を歪めて笑い男と女は口づけを交わす。
 舌を絡めねっとりとした粘膜を味わい、咥内を噛み切る。
 痛みさえ二人を酔わせる甘美な麻薬だ。
 唇から赤い雫。
 禍々しくて美しくて二人はお互いの傷口に囚われる。
 ぺろり。舌で啜る。
 餓えた生き物。まるで人ではないものになってしまった気がした。
「あっ」
 突然含まれた赤い果実。
 シンは美味しそうにしゃぶっている。赤ん坊が乳を啜るように無心に。
 舌で転がされて電流が走った。
 甘い感覚が疼く。
 優しい仕草で揉まれる。掌を押し返す弾力。
 アリーシャが誇るもの。
「はあん………っ」
 鼻にかかった声。
 アリーシャは夫の首に腕を回した。
 乳房を愛でられると歓喜を覚えるのは赤子を産んで
育てる”女”だからだろうかとアリーシャは思う。
 息が乱れる。既に声にならない声になっているけれど。
「あなた、私が好き?」
「好きだよ。お前は俺が好きか?」
「ええ、大好き」
 そう言って二人は口づけをする。
 こんな愛を交わし始めてどれだけ時が流れただろう。
 一週間、一月否三月。
 月に魅入られた9月9日の赤い夜からだ。
 あの夜から、体を交わす前に血を交わしだした。
 血が濁った月の魔力のせいだとは、夫のシンは知らない。
 妻アリーシャは、何もかも知っていて黙している。
 秘め事として、毎日毎夜の儀式に身を委ねるようになった。


「アリーシャ、何してる」
 呼びかけるシンにアリーシャは気づかない。
 何度名を呼んでも。自分以外の者など存在していないといっているように
 彼女は、自分ひとりの世界で憂えていた。
 紺碧の夜空に一際目立つ月。血の色の赤。
 星一つない空に浮かぶ月にがどこか恐怖を感じた。
 呼びかけても応えない妻に、痺れを切らしたシンは歩み寄る。アリーシャの隣に。
 ふわりと光のベールを被ったアリーシャがこちらを見て笑った。
「シン、好き」
 赤い光が部屋に降り注ぐ。
 窓を閉めたいのに動けない。完全に囚われた。
「ああ、アリーシャ」
 シンの瞳に赤い光が、見えた。
 アリーシャの唇が赤々と輝いていた。
 闇に嵌る。
 あなたの海は私。
 お前の空は俺。
 壊れ往くままに他は見失った。
 月に魅入られた二人は、手を取り合い指を絡ませて誰も触れられない場所で求め合う。
 終わりを告げて欲しいのに、  終りたいのにその術を持たなかった。
 二人が愛し合っていなければすぐに終わることができたのかもしれない。
『死』というピリオドによって。
 だが、二人は愛し合いお互いを唯一と定めている。
 抜けられなくなるのは、道理。
 空に赤い月はなくても二人の空を赤い月が昏々と照らし続ける。




「シンって蠍座のアンタレスのことでしょう」
 闇しか映さない瞳は、狂気が滲んでいた。
   花びらが舞い上がる。ベッドサイドに飾られた花瓶から落ちた赤。
「そうだよ」
 一番輝いている一等星。
「強い毒を持ってるって知ってるだろ」
 妖しく笑うシンの瞳は翳りを帯びていた。
「ええ。私だって恐ろしい爪を持っていてよ」
 闇に溶け込む漆黒の髪がシーツの上でうねる。
「あなたの命の雫ちょうだい」
 シンの首筋を一筋の赤が流れた。
 ぴちゃぴちゃと音を立てて啜る音。
「好きなだけ持っていけ」
 艶然と笑うアリーシャは、肩口に噛み付いた。
 夫は妻の耳朶に歯を立てる。
 二人は牙がなくてもヴァンパイアだった。
 飢えを渇きを感じるのは、愛しさゆえ。


「もっと深く」
 虚ろに呟くアリーシャ。
 シンはアリーシャの一番奥を目指し突き上げた。
「あん……っ!」
 シンは耳朶を甘噛みしながら揺れる胸を揉みしだく。
 壁に体を押しつけて膝を抱えて、自身を押し付ける。
「ふぅんんっ……っ」
 口づけを重ねて喘ぐ声を閉じ込める。
「アリーシャ……ああっ」
 離さないといわんばかりにシン自身に襞が絡みつく。
 勢いをつけて腰を引いた。
 感じる声は媚薬。
 感じさせることができたなら、ああ、なんて心が満たされる。
「いやあああっん!!」
 ツツッ。シンの背筋に鋭い爪が走る。うっすらと赤が滲んだ。
「はあ……はあっ」
 荒い息が、どちらからともなく漏れる。
 悲鳴を上げるベッドに逆らい行為を続ける。
 惜しげもなく脚を伝うのは、白い雫。
「シン、シン!」
「アリーシャ!」
 再びベッドに縺れ合い、沈み込んだ。


 いつも二人は首まで覆う衣服を身に纏う。
 例えお互いがつけた傷であっても、明るい陽射しの下では
 見るのは辛くて、見えないように隠していた。
 シンは、この異常な傷痕を誰かに見られてしまうのは
死ぬよりも堪えられなくて、  用心深く首元を覆い隠し仕事へ出かける。
 自分達のやっている行為の異常さを認めるのは嫌だった。
 ……無性に消えてしまいたくなるから。
夜になると別人に成り果てる互いが、互いに悲しくて切なかった。
心のどこかでは、どうして!? と叫んでいるのに、
 未だ脱け出せなくて、アリーシャは、毎日一人で泣いた。
 夫の帰りを待つ間、声を殺してすすり泣いていた。


「スカーフ、素敵ですね。ここにあるfrom.ariesyaって奥様からですか?」
 曖昧に笑う同僚にシンは澄んだ笑みを返す。
 いつ頃からか急に首を隠し始めたシンに何も言わない。
 おかしいと勘付いているのに素知らぬ振りをする。
 わけを知るのは空恐ろしいのだ。
 時々首筋に手を当てて薄い笑みを浮べるシンを気味悪いと思っているはずだ。
(……わざとらしくて笑えるな)
「ええ妻がくれたんですよ」
 血が凝固した傷痕を隠すのは純白のスカーフ。
 同じ物を互いに贈り合った。
 そう、独占の証として。
 アリーシャに贈った方にはfrom.sinと刺繍されている。
 シンは家庭の事は職場で一切口にしない。 
 だから、誰も彼のほんとうを知るはずもなかった。
 謎めいた雰囲気の美しさに惹かれる者は多々あれど。


「お帰りなさい」
「ただいま」
 夕闇が辺りを包み始めた頃、シンは帰宅した。
「シン」
「どうかしたのか?」
「ううん何でもないわ」
 首を横に振る。
 もう止めよう。私たちは人間なのだからと言いたいのに、
 アリーシャはシンの反応が怖くて口に出すことができない。
「食事にしましょう」
 テーブルに並べられたのは、ワインレッドのビーフシチュー。
 大きな肉が固まりのまま入っていてその上にスープがかかっている。
「今日は豪勢だな」
「そう?」
 アリーシャは、シンが食べる様子を見つめていた。
 皿からフォークとナイフを使い口に運んでいる時、口元から赤い液体が滴る。
 まるで血みたいだ。
 口元についた液体をぺろりと舐めるその姿が本物の吸血鬼に見えて、
 戦慄を覚えたアリーシャはナイフを取り落とす。
 床に落ちた金属の音が高く響いた。シンがぴくりと反応する。
「びっくりさせてごめんなさい」
 アリーシャは床に跪きながら、夫を見上げた。
「いや」
 シンは何も気にしていない様子で食事を再開した。
 アリーシャは、自分より闇に染まっている夫に愕然とする。
 以前なら、もっと別の反応をくれたであろうに。



 夜の帳に支配された時間、シンがベッドへと手招きする。
 アリーシャは、そっと彼の隣りに腰を降ろしシンを抱きしめた。
 首筋に歯を押し当てようとしたシンを制して微笑む。
 熱いものがどんどん溢れてくる。
 アリーシャは、あの夜より以前の彼女に戻っていた。
「シン」
 アリーシャの瞳は拭いきれないほどの涙が光っている。
「アリーシャ?」
「もう駄目、こんなこと止めましょう」
「何故」
 シンはわけが分からないという風に、首を振る。
 アリーシャは子供に言い聞かせる調子で言葉を続ける。
「赤い月は、人の心に魔を呼ぶんだって。
狂気に魅入られて自我を失ってしまうから  見ては駄目だって言われていたの。
子供の頃によく聞かされた話の  真実をずっと確かめたくて仕方なかった。
でも一人では月を見るのが怖くて  躊躇ったまま月日が流れたわ。
あなたと結婚して何が起きても一人じゃないから  大丈夫って思って…………。
 ごめんなさい。巻き込んだ私が悪いの」
 一気に捲くし立てると荒い息を整える。
 わあっと泣き崩れてアリーシャはシンに抱きついた。
 呆然としていたシンの瞳にゆっくりと明るい光が戻っていく。
 それは劇的な変化。
 魔物から人に戻っていくようであった。
 たどたどしい仕草でアリーシャの背中に腕を回した。
 指先を繋ぎ合わせられず背中で止まる。
「シン」
 アリーシャは回した腕に力を込めた。
「俺は、今まで」
「いっぱい傷つけてごめん」
「私も」
 涙がお互いの肩に落ちた。
 嗚咽を噛み殺せない……。
 涙の雫が熱かった。
「あの月の夜、アリーシャに見惚れていたんだ。あの時からか」
 シンは月の光を浴びて狂気を宿したのではなく、アリーシャの姿に
 意識を絡め取られたのだ。赤い月の下で、あまりにも美しい妻に魅せられて。
「シン、狂うほど愛し合えて幸せよ」
「それほど深い感情だったってことだ」
 頬を撫でる冷たい指先が、優しい。
 顔全体を包み込む掌が、温かい。
 何故こんなにも愛しいのだろう。
「シン」
「アリーシャ」
 二人はきつく抱きしめ合った。



   狂うほどにあなたを愛している。
 あなたを愛せるのなら我を失っても構わない。


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