抱かない理由



 君に触れたい。
 触れられたい。
 何よりも君が欲しい。
 この境界線を越えれば、戻れなくなる。
 引き返せないとわかって踏み出せない。
 君を、僕の世界に縛ってしまうのが恐ろしくて  また途方に暮れる。
 君を守れる術が欲しい。
 脆弱な精神しか持たない僕は希い続ける。


 付き合ってもう1年と少し経つかもしれない。
 大きな波風が立つこともなく、順風満帆に付き合ってきた。
 結婚とかの話が出るわけじゃない。
 側にいれば何となく心地よいだけ。
 でも何かが足りない。
 心の中の微かな隙間を埋める術を知っているはずなのに、
 私たちは知らない振りをして、満たされないのに気づかない振りをしてる。
 何故、触れることに臆病になるのだろう。
 短いようで長い時を一緒にいても、躊躇いを捨てきれない。
 心を見せることに躊躇っているのね、私たち。
 触れるだけのキスしか交わしたことがない。
 これ以上近づくのを故意に避けている。
「……怖いの? 」
「そうかもしれないね」
 自嘲気味に笑うあなたは、妙に幼くてとても年上とは思えない。
「そんなにお硬くないんだけど」
「知ってる」
 即答に少しムッとした。
「私はそんな簡単に壊れないし、変らないわよ。
 守らなきゃいけない部分はちゃんと守るもの」
「……翠」
「真面目な男ね」
 陽は黙り込んだ。
 彼はこれ以上近づくのを恐れているのか。
 それとも本当は、触れたいと思うほど愛されていないのか。
 暗い気持ちが胸を覆ってゆく。
 らしくもないのに、瞳を伏せてしまった。
 真面目すぎる男はつまらないっていつも言ってるでしょう
「優しすぎるわ」
「どうしても欲しいって思うなら奪ってみせてよ」
 唇を噛むと滲んだ。
 こちらから言うのはさすがに躊躇している。
 はっきりと口にして陽に、軽蔑されるとは思わない。
 今更恥らうつもりもないし。
 女として、時には強引さも欲しいだけだ。
「何かそこまで言わせて俺って情けないよな」
 自嘲する陽を見て改めて彼の誠実さを知る。
 行き過ぎたかもしれないと、少しだけ反省した。
「翠、俺だって翠が欲しくて仕方ないんだよ。
 今すぐにでも抱いて、証を刻んで、自分だけのものにしたいさ。
 だけど譲れないよこれだけは」
「何を? 」
「20歳の誕生日までは手を出さない」
「あはは……何それ」
 気が抜けた。
 陽の言葉の力強さが伝わってきたのだ。
「今から計画立てとくから楽しみにな」
 口の端を吊り上げた陽が男っぽくてぞくっとした。
「二人で波の音聞くのよ」
「ああ」
 指を絡めて歩き出す秋の歩道。
 赤く色づいた落ち葉が鮮やかだった。



「まるで別人ね。変われば変わるものだわ」
 シーツにうつ伏せて隣りに横たわる陽を横目で見た。
 あの頃が懐かしい。お互いに初だったものだ。
 そう考える自分もおかしくてまた笑いが込み上げる。
「二十歳になるまで手を出さないか」
 あまりにも生真面目すぎて吹き出しそうだ。
「笑いすぎじゃないか」
「声に出してないからいいじゃない」
 顔全体では笑ってるけれど。
「本当はどうして抱かなかったの? 」
「もう分かったろ」
 陽の意味深な表情に、悔しくなって考える。
 二十歳まで手を出さないと決めて我慢していただけならよほど
 自制心が強い人だろう。だが結婚して思い知った。
 陽は自制心が強くもなんともなかった。
 それは自分もだが。
 考えている合間にも愛撫する指は背中を辿り腰を撫でる。
「……っ……どういうこと」
「分からないって君が言うから教えてあげてるんだろ」
 悪びれもせずに陽は言った。
 何となく分かった気がしたが、このまま身を任すのも悪くない。
 陽もわざと煽っている。
 こちらの真意を全部読み取った上で。
 なんて食えない者同士だろう。
 微妙に触れるか触れないところで、手を止めたりしながら
こちらを見る陽は、口元だけで笑っている。
「翠、俺は自分が変ったとは思わないよ。
 変ったんじゃなくて本性表したという方が正しいな」
「自己分析のつもり? いけしゃあしゃあと憎らしい」
 声が上擦るのは否めない。耳元を愛撫しながら喋るのは卑怯よ。
 吐息が触れた瞬間ゾクリと肌が粟立った。
「抱かないんじゃなくて抱けなかったんだ」
 唇が触れそうな距離で喋ったかと思ったらすぐに重なった。
 吐息が奪われる。
 意識が溶け出しそうになる。
 無我夢中でシーツを彷徨う指を陽が掴み自分のそれを絡めた。
「最初から結婚を前提とした付き合いのつもりだったからさ……」
 一旦言葉を切る陽にすかさず返す。
「へえ、私は俗にいう運命感じてたわ。あなたらしい真面目な言い分ね」
「いずれ結婚するまでしないように頑張ってたんだ」
「うわ、古くさっ。って、本気で言ってるの!? 」
「まあそんな考えもあったけど途中から翠が二十歳になるまで我慢しように変ったな」
「ご苦労様」
 皮肉を言ってやりたくなった。
「どういたしまして」
 唇で首筋をなぞられて体が震えた。
「悔しいから言ってやらないわ」
 あくまで強気な口調で応じる。
 とっくに波にのまれているけれど。
「言いなさい? 私にどうしようもなく溺れている、あ・な・た」
 忍び笑いをしても相手には効果がない。
 逆の立場でも同じだったりしる。
「翠、可愛すぎだよ、あーあ」
「あら、ありがと」
 お互いを試すのが始まってしまったら、いつ終るかもしれなくて。
 とめどなく続く言葉遊びはキリがなくなる。
「でも、結婚するまでは大人しかっただろう」
「まあね」
 20の誕生日から半年後に結婚したのだが、その間に重ねた夜は3度。
 あの時は、今ほど熱く滾ってはなかった。
 立場とか色々頭にあったから。
「一度抱いてしまったら、自制利かなくなるって分かってたから
 一線を越えることを躊躇っていたんだよきっと」
 今納得したの!?
 つっこもうかとおもったが、大人気ないので止めておいた。
「現状を見ろ。自制も何も無いじゃないか」
「良いじゃない、らぶらぶってことで」
 首に腕を絡めれば抱き返される。
「そうだな」
 衝動が、体を揺さぶる。
「少女の翠を壊すのは忍びなかったよ」
「馬鹿ね」
「決意を変えさせたのは君が魅力的過ぎたせいだ」
 軋むベッド。
 次第に意識があやふやになってゆく。
「俺、何で我慢したんだろうな。勿体無いことを」
「がらがら崩れる音がしたわ」
 誠実な人という築き上げられたイメージが。
「俺がこんな姿を見せるのは翠だけだよ。君もだろ」
「当たり前よ」
 甘い抱擁が、体の芯に熱を灯す。
 汗で湿った体に、そろそろ終止符を打とうかと思った。
「陽、シャワー浴びましょう」
「浴びる意味がなくなるぞ」
「深読みしないでいいから」
 笑い合った後、陽が私の体を抱えて立ち上がる。
 乱れたシーツが、取り残された。



 髪をかき上げてシャワーの飛沫に打たれる。
 陽も隣でシャワーを浴びている。
 この家はとてもではないが医者のひよこの陽に建てられるような家じゃない。
 私が資産相続権を永久放棄した代わりに、父がプレゼントしてくれたのだ。
 恵まれているなと思いながらも思い切って甘えることにした。
 陽と結婚することが条件で建ててくれた家。
 交際1年が過ぎた頃、この家は建築が始まった。
 丁度私が、欲求不満をぶつけて陽に迫った時期だ。
「笑っちゃうわねえ。どれだけ性欲に満ちた女なのよ私」
 必死で堪えてた陽とは違って感情剥き出しだったあの時。
「気にするなよ。俺もだ」
「そう言ってくれるあなただから好きよ」
 陽は薄く微笑んだ。
「このままキスして」
 シャワーヘッドを壁に固定した。
 水圧は強いままだからどんどんお湯が向かってくる。
 まるで滝の中にいる気分になって浮かれた。
 瞳を閉じると、静かに重なる唇。
 角度を変えながら深くなるキスに、甘い声を漏らすのみ。
 お湯のシャワーよりも体の方がもっと熱かった。
「明日のことなんでどうでもよくなるくらい乱してね」
 陽は、口づけで応えてくれた。
 お互いに欲情するのは、目の前にいる相手だけ。
 今までもこれからも。
 抱かない理由なんて二度と必要ない。


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