嵐の夜



ここは、シェンダ王国王都の外れにある静寂に満ちた森の奥。
 大魔術師ヒショウの屋敷では、魔術の屋内授業が行われていた。
 絵巻物を広げ、魔術についてのうんちくをたれる。
 羽ペンを口にくわえてもてあそぶ少女は、机に座ってのお勉強よりも、
 外で行う実践授業のほうが大好きだった。 
 修行という響きがたまらなく好きで言葉を聞くだけでうきうきする。

 ユリは、机の上に置いている砂時計を凝視した後、にんまりと笑った。
 もう、夕刻で授業も終わるころだ。
 ちゃんと言っておかなければ、わけのわからない理由をつけて
 いつまで経っても授業が終わらない。
 今日だけはどうしても、早く帰らなければ。
 あの人は優しいから何でも許してくれるけど甘えてばかりは駄目だから。


「せんせー、今日はもうそろそろ終わりですよね。ね? 」
「ああ!? 」
挙手したユリに、ヒショウはこめかみをひきつらせた。
   授業をずるずる引き延ばし、終わるのを遅らせた上、
 外出の時間が短くなるよう仕向けている師の意図は未だ分からなかった。
 住み込みで、魔術を学んでいるユリには門限がある。
 遅くとも日付が変る三時間前には自室で床についておかねばならなかった。
 朝は日の出と共に起床。
 師匠より早く起きて朝食の支度など色々やるべきことがある。
 ちゃんと告げておけば夕食は自由だ。
 恋人ができてからも羽目を外して門限に遅れたことなど一度もなかった。
 勝手に授業時間を延長されても文句を言わず付き合っていたし、
 こんなに出来のいい弟子はそうそういないと思う。
 シブキと付き合いだしてからも修行に手を抜かなかったし、止めたいと思ったこともない。
 ヒショウの弟子になり5年。
 ようやく努力が報われ卒業試験の日を迎えることになった。
 毎日頑張れたのは、あの人の励ましがあったからだ。
 不機嫌を隠そうとしない師を無視し、帰り支度を始めた。
 笑い声が聞こえたので後ろを振り返ればトーヤ・アカネが、一人吹き出していた。
 ヒショウ先生の更にその先生という何ともややこしい関係である。
  「アッシュちゃん、今まで色々ありがとう」
 アッシュは、銀髪に黒が混じった色合いの髪を見て、初対面のトーヤにつけた愛称だ。
 片眼鏡をくるくると弄ったトーヤはユリに向き直った。
「どうしたの。どっか行くの」
「めでたく卒業できたら、旅に出ようと思うの。
 面倒で大変だと思いますが、ヒショウ先生のことをよろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げたユリにトーヤはきょとんと目を瞠る。
「勿論だよ。ヒショウは僕の最愛の弟子にして、
 最高のおもちゃだからね」
「誰がおもちゃだ。変態鬼畜の師匠が」
「君は、その変態鬼畜な僕の弟子だけどね」
 言葉につまるヒショウを醒めた目で
見やった後  ユリは、その場を後にした。
 心が躍っているのか駆け足で去っていく。
 時折スキップも入っているのはよほど心が弾んでいるのだろう。
 ヒショウは、面白くなかったが、早くユリ離れしようと
 できもしないことを心に誓っていた。


 多分、いや恐らく俺と彼女は恋人同士だと思う。
 情けないが曖昧な表現をしてしまうのは2年も一緒にいるのに
 分かりやすい進展がないからだった。
 ない、というには語弊がある。
 手を繋いだし、抱きしめ合ったし、キス(事故に近かったが)もした。
 決して仲が悪いわけではない。仲はすこぶる良好だ。
 彼女は俺を大好きだと公言してはばからないし、
(雛鳥が親になついているようだと周囲には言われたが、
 俺自身は、彼女を恋愛対象としか見た事はない。
 3歳違うけれど、妹のように感じた事はない! )
 俺のことを男として意識していないのだろうか……。
 時折疑問に想い見つめ続けるのだけれど顔に、何かついていると聞かれる始末だ。
「シブキ」
 水色の髪、栗色の瞳の可憐な少女はにこにこ笑いながら手を振った。
 駄目だ、今日もめちゃくちゃかわいい。
 顔面に手のひらを押し付けながら赤くなった頬をなだめる。
 惚れたほうが負け。
 シブキは、自分がより強く相手を好きなのは間違いないと思った。
「待った? 」
 くるくると表情を変える少女に、うっ、と怯む。
「いや、今来たところだよ」
「よかったあ」
「あのさ……、」
 言いかけて黙ったシブキにユリは、きょとんと首を傾げた。
 暫しの沈黙の後、彼女から口を開いた時、シブキは耳を疑った。
「私ね、卒業したら旅に出ようと思うの」
 自分の仕事のこともあり、共に行けないというのもまた不安を掻き立てる。
 もはや、そういう運命なのか?
 何だかんだ自由が利く自分と違い彼女は、毎日せわしなく生活していた。
 へんてこな師匠(師匠の師匠までいる。これが更におかしな人物だ)
 の元で住み込みで魔術を学んでいる。
 俺はともかく彼女は熱心に魔術修行に励んでいる為、
 会う時間を作るのも大変だ。
 魔術と俺とどちらが大事なの?
という意地の悪い質問などしたこともない。
 歯がゆくて仕方がなくても。
 大好きでしょうがない。それだけだった。
「大丈夫。卒業試験に合格できたらの話だもの」
 何の慰めにもならなかった。
 ユリは、確実に受かる。
 あの偏屈な大魔術師も彼女の実力を認めているのだ。
 もう、僅かな時間しかない。
 一見天然のようでいて実は油断ならない少女。
 さすが魔術師の卵。いや雛である。
 彼女は無自覚に魔法をかけた。
 シブキに恋という魔法をかけた責任を取ってもらわねばならない。
「どうしても行くんだな」
 諦観を込めた小さなため息には別の意味もこもっていた。
「この街は、もう飽きちゃった」
 もしかして、それは俺にも飽きたということか。
「俺のこと、好き? 」
「大好き」
 無意味な問いかけだった。
シブキの心など知らず、
 即答するユリは嘘をついているようには思えない。
 衝動に駆られ、邪気のない笑みを浮かべる彼女の腕を引き寄せ
 抱きしめた。腕の中、華奢な体がみじろぎする。
 いつの間にか、恐ろしいほどに女っぽくなった。
 長い水色の髪もますます艶めいている。
 暫くそのまま抱きしめあっていた。
 時間なんてなければいい。
「シブキ、雨が来るわ」
 ふいに顔を上げたユリが、ぎゅっと衣服の裾をつかんだ。
「本当だ……」
 驚くべき速さで灰色の雲が白い雲を覆いつくそうとしていた。
 ごろごろと雷が轟いた瞬間、腕の中の存在がびくりと震えて、  強い力でしがみついた。
 激しい雨が勢いよく降り出した。
 腕の中に閉じ込めても彼女の服が濡れてしまう。
「行こう」
 腕を掴んで走り出す。
 シブキは雨にこじつけて、純真な彼女を浚おうとしている
 己のやましさを見てみない振りをした。
(もしかしたら、彼に殺されるかもしれないな)

 決して広くはない部屋は、いつも絵の具の匂いが満ちていた。
 駆け出しの画家であるシブキは、繊細な感性で、動物も植物も
 生き生きと描写する。まるで今すぐ動き出しそうな絵には惚れ惚れする。
 彼と彼の描く絵が好きだったが、モデルになってほしいと
 頼まれる度に、顔を真っ赤にして断っていた。
 要するに恥ずかしいからだ。
「ねえねえ、背が伸びたと思わない」
 くるりと一回転して、微笑んだユリに、シブキは笑った。
 髪から水滴がぽたぽたと落ちて、肩先を濡らしている。
「また差が縮まったね」
 ユリの師であるヒショウには及ばないが、シブキも背が高い方だった。
 出会った頃あった20センチの差は、2年で13センチに縮まった。
 越される事はないだろうが、もう少し伸びるのではないだろうか。
 背を比べして、満足したのかユリは、大きなキャンパスに視線を移した。
 ふいに話題が変わるのは付き合い始めた頃から変わらない。
「シブキ、絵が上手くなったね」
「……ありがとう」
 誉めると一瞬うろたえたシブキは、すぐに笑みを浮かべた。
 ユリの大好きな顔。
 孤独を隠す大いなる光をたたえている表情。
 窓枠を揺らすほど激しい勢いで雨が降っていて、
 ヒショウは今頃怒っているだろうかと思う。
天気が悪くなりそうだったのを知っていて出かけたのだ。
 シブキを何より信用していたし。
 約束も守れない弟子なんて、卒業する前に破門かなあ。
 堅い木枠のベッドに腰を下ろす。
「体拭きなよ」
「ありがとう」
 手渡された布で体を拭う。
 食い入るように見つめてくる彼に、
「大丈夫よ。風邪ひいてないし元気だから」
 にこっと笑ったら、いきなりシブキが腕を回してきた。
 清潔なシーツの上で抱きつかれ、そのままバランスを崩した。
 見上げれば見慣れた面立ちがある。
 少し潤んでいるように見えたので心配になる。
 何だか、彼の体も熱い気がした。
「だ、大丈夫! ゆっくり休んだほうがいいよ」
「ユリも一緒? 」
「二人分には狭いわよ」
「くっついていれば問題ない」
 シブキの腕の力が強くなる。
 その時耳元に何かささやきが落ちて、きょとんと首を傾げた。
「なあに、シブキ。聞こえないわ」
 彼は、顔を真っ赤にし慌てた様子で飛び退った。
 シブキが離れた開放感で、体に空白が出来た気がして寂しいような。
 手を伸ばしたら繋いでくれたけど、すぐに離され、彼はそのまま床でごろんと寝転がった。
 ユリは、年上なのに真っ赤になってかわいいんだからとくすくす笑った。
 風邪をひいているにしては、元気な様子だけれど、
 本当は無理しているのだろうか。
「先生にはちゃんと、雨が降ってきたから雨宿りさせてもらったって言うから」
 返事がなかったがユリは構わず続けた。
「朝帰りって言われちゃうかなあ」
 妙に浮かれたユリだったが、
 シブキが顔面を両手で覆い嘆いていたことなんて知る由もない。
 

「いい度胸だな、朝帰りとは」
 ユリは、後じさりしそうになる。
 屋敷の外に仁王立ちする師の気配が恐ろしく流石に命の危険を感じたのだ。
 額には青筋、頬を引きつらせたヒショウの背には悪魔の羽、
 頭にはおどろおどろしい角が二本見えた。
「雨が激しかったから、うちで雨宿りしてました。
 保護者でもあるあなたに無断で勝手なことをして申し訳ありません」
 ヒショウがますます怒気を募らせたことにユリはまったく気づかない。
 隣では、怯えながらも精一杯虚勢を張るシブキがいた。
「ユリを保護してくれた旨、保護者として礼を言おう」
 保護を互いに強調する二人にユリは、
 子ども扱いされた気がして面白くなかった。
「もうっ! 私15なんだからねっ。大人なんだから」
 ぷんすか頬を膨らませ、どすどす地団太を踏む。
「「どこがだ!」」
 男たち二人の声がぴったり重なっていた。
「仲良しさんなのね」
「「違う! 」
 またも息ぴったりのヒショウとシブキに、吹き出して
 怒りをどこかへ忘れてしまったようだった。
 ユリはにこにこ笑い、シブキに手を振った。
「じゃあねー」
 シブキは脱力し手を振り返した。

「何もなかったんだろうな」
「あるわけないでしょう……」
 ため息をつくシブキにヒスイは内心喝采をあげた。
「そうか……ならいい。さっきは悪かったな」
 がしっと手をつかまれて、動揺するシブキにヒスイは微笑を浮かべる。
 ユリに言わせれば、黙っとけば乙女心をくすぐるかっこいい人だそうだ。
 銀髪に瑠璃色の瞳は夜の化身のようだとシブキも思う。
 師の話題が多いのもちょっぴりジェラシーを感じてしまう。
「は……はあ。あの、卒業したらユリは旅に出るそうですが」
「あいつは止められんからな。最後は俺のところに戻ってくるから心配してないが」
 ニヤつくヒショウ、疲れたような顔で背を向けるシブキ。
 二人ともかわいそうなのは間違いがなかった。
 屋敷の中では、ユリとトーヤが、パンケーキに食らいついていて
 楽しげに笑い声を上げていた。
「ねえ、アッシュちゃん。私とうとう朝帰りしちゃった」
 テヘっと舌を出したら、トーヤは口の端を吊り上げた。
「おめでとう。大人の女の仲間入り」
「照れちゃうわ」
 ぽっ、と頬を赤らめて手で押さえるユリは、夢見る表情をしていた。
 トーヤは窓の外に視線を向ける。
 敵と認識していたユリの恋人に、哀れみを覚えたのか、同志と見なしたのか。
 ヒショウは、去ろうとするシブキの肩を掴んで引き止めている。
(あんなに気に入られちゃって。あれは暫く逃げられないねえ。
 可哀想に。あいつに目をつけられたのが運のつきだよね)
 腹黒い笑みを浮かべるトーヤにユリは気づかず美味しそうに
 彼お手製のはちみつがけのパンケーキを頬張っている。
「美味しい? 」
「うん! 今度作り方教えてね」
「君は料理は出来るほうなのかな? 」
「ヒショウ先生には習うの遠慮したから!
 独学で頑張ってるから、上手いのよ……とは言いがたいけど」
「ヒショウに習わなかったのは賢明な判断だね。
 よし、お兄さんがみっちり教えてあげよう」
「わーい」
ひとしきり盛り上がった後、トーヤはひらひらと手を振り去っていった。
「アッシュちゃん、行っちゃった」
ふいに、背後に影が差した。
 振り向こうとした瞬間、ぱっかーんと小気味いい音が響いた。
 頭に星が散り瞳が潤む。
 真上から降り注ぐどすの効いた声にしゅんとなる。
「朝帰り、ごめんなさい」
 意気消沈しているユリにヒスイは、ぽかんとする。 
 初めてシブキを哀れだと思ったが、それは一瞬のことで、
 ヒショウは、心の中では笑い転げていた。
 うっかり声に出そうで咳払いする。
「トーヤが帰って残念そうだな」
「だってアッシュちゃんがいたら退屈しないし……
楽しい時間ほどあっという間に過ぎちゃうのね」
 こつん、と軽く小突かれる。
 それが本日の授業開始の合図だった。