空の陶磁器にスプーンで触れると、かちゃかちゃと特有の高い音が奏でられる。
 本来やってはならないこと。
 見咎められたらはしたないと言われてしまうだろう。
 テーブルマナーに反する無作法だ。
 けれど今は、そんな人はいない。
 この空間にいるのは心を許す第一の臣下だった。
 側にいて守ることを委ねた唯一の従者。
 メイド達はたくさんいるけど、男性で今一番近い場所にいるのは彼一人だ。
 家老であるギブソンは別として。
 彼は王家にとって特別な存在だった。
 王女自らが選んで認めた相手というのも大きいのかもしれない。
 彼を選んだ私の目は確かだったと自信を持てる。
 本当は、王女仕えの者などではなく、もっと大きなことができる人
 だって知っていながら、それでもディアンに側にいてほしいのだ。
 自分のわがままさ加減は自覚している。
 私の心中など知らないだろう彼は、くすくすと笑ってこちらを見ている。
「楽器みたいですね」
「かわいい音じゃない?」
「そうですね」
 カップを置いてスプーンも置くとディアンが立ち上がった。
 一度下がって戻ってきた彼は、そっとテーブルにカップを置いた。
 リシェラがぼんやりしている間に、ディアンはトレイを手に戻ってきた。
 当たり前にできなければいけないことかもしれないが、
 手際の良さには見ていて惚れ惚れする。
 ディアンが来る前はメイドたちの仕事だったけれど、今では彼が淹れてくれたもの以外は飲めない。
 彼が淹れてくれるものは何だって抜群に美味しい。
 何故だろう。淹れ方が上手いからだけではない気がする。
 最近はそんな風に思う。
「リシェラさま、何を考えていらっしゃいますか?」
 ディアンのいたずらな笑顔。
 笑うのが上手くなったって言ったらあなたは変に思うかしら?
 最初の頃のとげとげしさがいつしか消えていった。
 無礼だった面影は一切ない。その代わり私をからかう術を覚えたらしい。
 必要以上に不遜な態度は決して取らないのは知っているからそれを許している。
 コーヒーを半分ほど注いでミルクを上から注ぎいれる。
 シュガーポットから固形の砂糖を三つ落として、
「どうぞ」
 と微笑んだ。
 スプーンでかき混ぜれば、マーブル模様になる。
 コーヒーとミルクが混ざって溶ける。
 ふんわり甘い匂いが、立ち上って知らず笑みがこぼれる。
 じーっと正面からディアンが見つめているのに気づいて、きょとんとした。
「どうかしたの?」
「いえ、リシェラさまがあまりにも無邪気に幸せそうな顔をなさるので」
「お茶の時間ってほっとするんだもの。一番好きかも」
 カップを傾けつつディアンの顔を見る。
「王女さまとお茶を共にすることを許されているなんて、
 俺はなんて幸せものなんでしょう」
 王女……引っかかる響きに感じた。
 こんなに側にいるのに遥か遠くにいるみたい。
「ディアン」
 知らずきつく睨んでいた。
 ディアンの言葉に深い意味はないだろうけれど、ちくりと胸が痛んだのだ。
「名前で呼んでくれなきゃ嫌」
 ディアンは、はっとしたのか表情を引き締めてこちらに向き直った。
 怒りが伝わったのか、かなり申し訳なさそうな様子だ。
「申し訳ありません」
「ううん私も棘があったわ」
 心からの謝罪に彼の言葉には本当に他意はなかったのだと知る。
「私は王女であり、あなたは仕える身であるのは確かだもの。
 けれど、名前で呼んでくれたほうが嬉しいわ。
 普段から言っているように」
 恥ずかしくなって指で髪を弄ぶ。
 うつむいた私の顔はきっと真っ赤で熱を伴っている。
「俺も言葉を間違えてしまいました。
 リシェラ様とお茶の時間を過ごせることが嬉しくてたまらないと
 伝えたかったんです。王女ではなくあなただから」
 やさしい眼差しに吸い込まれそうになる。
 どきりと胸がひとつ鳴った。
「……ありがとう。私ったらおとな気なくて嫌だわ」
 本気で言ったのにディアンはぷっと吹き出した。
 口元に手を当てて、こぼれる笑いを必死でこらえているのを見て、むっとした。
「な、何で笑うのよ!」
「あまりにも不釣合いだったものでつい」
「失礼しちゃうわ」
 ぷいと横を向くと、ディアンが、謝意を示して膝をつく。
「本当に可愛らしくていらっしゃるんですから」
 差し伸べた手に手を重ねる。
「何だか釈然としないわ」
 悔しい。
「ね、目を閉じてて」
 素直に従うディアンに満足感を覚えた。
 息を飲み込む。
 長いまつげが伏せられてる。
 閉じられた瞼に微かに唇を触れさせて離れた。
 ディアンは凄まじい勢いで目を開けて、距離をとった。
 壁にもたれかかって口を魚みたいにぱくぱくさせている。
「リ、リシェラ様!?」
「光栄に思いなさい、私からあなたへ祝福をあげたのよ」
 にっこり笑ってやる。
「物凄く光栄のきわみです」
「ちゃんと自分の気持ちを言いなさい。照れても恥ずかしくても」
 自分のことは棚に上げておいて相手には平然と要求できる。
 だって社交辞令はいらないもの。
「心臓がどうにかなりそうです。驚かせないで下さい」
 掌を胸に押し当てているからおかしい。
「型破りなんですから、もう」
 ディアンは、顔を手で押さえている。
 最後の一言が低くて聞き取れなかった。
 多分聞き捨てならない一言なのは予想できる。
 裾を捌いて近づいていった。
「何かとんでもなく失礼千万なこと言わなかった?」
「手に負えない」
「えっ」
「あなたに仕えると毎日驚きの連続です」
 至極楽しそうに笑ったディアンに思わず赤くなった。
「素敵な贈り物をありがとうございます」
「喜んでもらえたならいいの」
 恥ずかしさって後からこみ上げるものなのね。
 ちゃっかりお茶の片づけを始めているディアンの背中をしばらく見つめていた。


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