第12章




 いよいよ学校に通う日が来た。
 リシェラはそわそわして、昨夜は遂に一睡もできなかった。
 目元にできた大きなクマを隠すため、メイが呼ばれていた。
「さあ、これで大丈夫ですよ」
「ええ」
 リシェラは鏡台で自分の顔を確認し頷いた。
 肌の色と同化して、まったく分からない。
「こすったりしないで下さいね。取れたら大変ですから」
「分かってるわよ、メイ」
 一瞬手が目元にいきかけたリシェラはバツが悪そうだ。
 眠い時擦ってしまう癖が出てしまった。
 メイが会釈をし部屋から出て行き、リシェラは髪にリボンを乗せた。
 しゅると細身の白いリボンで髪の一筋をまとめて準備は終了した。
 服装はシンプルかつ上品なワンピースを纏っている。
「ディアン、入ってきていいわよ、そこにいるんでしょう」
 確信しているリシェラは小鳥が囀るように笑いながら、鏡の方を向いたままに従者を呼んだ。
「はい」
 ディアンがそっと扉を開け、部屋の入り口で会釈をした。
 リシェラはちらと振り返り、それを確認して座っていた椅子から立ち上がる。
 お互いに、歩み寄っていった。
「素敵、見違えたわ」
「馬子にも衣装ですか? 」
「皮肉? 何か初々しくていいなあって思ったのよ」
 ディアンはジャケットを羽織りドレスシャツにネクタイ姿。
 立ち姿はとても凛々しいが、こういう格好に
 慣れていない様子が、初々しいのだ。
「ぷっ。リシェラ様、その台詞何か違う気がするんですが」
「あら、そう?」
「リシェラ様こそ今日は特別な感じですね」
「今日が初日なんだもの。気合だって入るわ。
 ディアンだってそうでしょう」
「いつもと同じでいいと思いますよ」
「言ってる割にぎこちないの気づいていて?
 強がって見せなくてもいいじゃない。
 かっこつけていい格好してもすぐぼろが出るんだから」
 リシェラはまっすぐで気が強く、辛辣な物言いをする。
 痛い時もあるが、見ていて清々しいから嫌な気分はしない。
「そうですね」
 ディアンは一瞬、苦笑いを浮かべる。
 リシェラは差し出された手の平に指を重ね合わせて部屋の扉を明けた。
 ディアンも同じ場所で食事を取るように
命じられているので  内心は渋々ながらついていく。
 リシェラが言い出したことで王も王妃もあっさり了承した。
 普通ならありえない待遇であり恐れ多いことだ。
「こんなこと位で引け目を感じていたら学校でドロップアウトしちゃうわよ。
 周りは貴族の子息達ばかりなんだからね」
 要は慣れろと言う事なんだろうか。
 いや、これはまた違うだろう。
 何故一介の臣下に過ぎない自分がロイヤルファミリーと
 食事を共にしなければならないんだろう。足元から震えがきそうだ。
 リシェラはディアンの考えることなんて露知らず、軽やかな足取りで
 扉を開く。王家の面々が食事をする食堂の扉を。
 ディアンは扉に入る前に、僅かに深呼吸した。
「おはよう、リシェラ」
 王の声が聞こえる。
「ディアン、さあお座りなさい」
 王妃も優しく微笑んで席を勧める。
 王、王妃、リシェラと座り、ディアンはリシェラの向かい側に座ることになった。
「そんなに緊張しなくて大丈夫よ」
「は、はい」
 リシェラはディアンの緊張を拭えればと思っていた。
 どうにかナプキンを膝に乗せた時、ふうと吐息をついたディアンである。
 並んでいる料理が意外に質素だったので驚いた。
 というか、臣下に与えられるものと同じようなものだ。
 大きめの皿の中に目玉焼きとサラダ、ソーセージを茹でたものが載っており、
 他はひよこ豆のスープとミルク。
 王の合図でそれぞれ食べ始める。
 金属が皿に触れる音を感じ、ディアンも食べ始めた。
「今日からリシェラをよろしく頼むよ」
「はい。ですが、リシェラ様はしっかりされてますから、
 私の手など必要としないかもしれません」
「ううん、ディアンが一緒だと心強いわ」
「リシェラ様」
リシェラとディアンは微笑み合っている。
 国王夫妻も二人につられ笑みを零す。
 食卓に和やかな空気が流れた。
「ディアンも頑張ってね。貴族の学校で
 やり辛いこともあるでしょうけどあなたなら大丈夫だと思うから」
 王妃が優しく笑いかけるのに、ディアンは顔を真っ赤にして頷いた。
 赤面してしまうのはその美しさに目を奪われるから。
 決して邪な感情で見ているわけではなく
 思いを馳せるのはリシェラの将来の姿。
 意識せまいとすればするほど、逆に意識してしまう。
 兄が妹を思うような柔らかな慕情ではないことを、既に自覚しているディアンであった。
「頑張ります」
 ディアンは肩に力を入れて決意を込めた。
 察した王は、彼を気遣った。
「そう固く考えなくてもよい」
 王はそれだけしか言わなかったけれど。
 言葉がディアンの中で波紋のごとく広がったのは確かだった。
 目蓋を伏せることが返事の代わり。
 リシェラはディアンの手のひらを掴んで促す。
 ディアンは王と王妃に一礼し椅子を引いた。
 王と王妃に見送られるままに王女と従者の少年の二人は、食堂を後にした。
城門でメイドと兵士に見送られ(ディアンは、叱咤激励の嵐を受けていた)
 二人は城の外に出た。 
 風に頬を撫でられるのを感じる。
 緑が萌えている風景はどこまでも涼やかだ。
 ディアンは自分の手が薄っすらと汗ばんでいるのに気づき、さり気なく
 手を離そうとしたが、リシェラがそれを許すはずもなく。
 俯き加減の表情が飛び込んでくる。
「こうしてるとすごく元気が出るの」
 無邪気に微笑まれたら、何も言えやしない。
 分かってていてやっているのかもしれない。
 だとしたら、やはり小悪魔だ。
 ディアンは、手を握り返して歩き出す。
 リシェラのペースに合わせてゆっくりと街へと歩いていった。
 人もまばらだが、朝の街が動き出す気配に自然と笑顔になる。
 ちらちらと振り向いて噂をする人々もいるが二人は気にしないことにした。
 ディアンは王女と従者にしか見えないことは分かっていたし、
リシェラも又、こうなることは予想済みだった。
「おはようございます」
 立ち止まり街人に気軽に声をかけるリシェラを見習い
 ディアンも同じようにした。
 訳隔てない態度で接するリシェラが好感を持たれるのも頷けた。
 これが国の象徴である王族の在るべき姿。
 道を曲がると、学園への一本道だ。
 同じ方向へ進む姿が目につき始める。
 ちょうどリシェラやディアンと年頃も近い位の。

 一際高い建物には大きな鐘。
 聖堂だろう。
 一本道はふいに途切れ、校門が見えてきた。
 一人、また一人と生徒が中へと吸い込まれていく。
 リシェラは瞳を輝かせてディアンの手を引っ張り駆け出そうとした。
「ディアン、ほら」
「はい」
 くすっと笑むと一緒になって走り込んで敷地内に入る。
 城ほどではないが広大な敷地面積だ。 
 正面に校舎の建物、東に先ほど見えた聖堂。
 外観からも歴史を感じるのだから中へ入るともっとすごいのだろう。
 ゆっくり校舎内へと足を踏み入れる。
ディアンはともかくリシェラも校舎内に入ってからは一言も喋らず、
 視線だけを様々な場所に泳がせていた。
 普段は城内で暮らしていてその雰囲気に慣れているから、新鮮で物珍しいのだ。
 すれ違う生徒達がちらちらと振り返るのに気づくとリシェラは軽く右手を振った。
「リシェラ様、ここですよね」
「ええ」
 長机が隣同士寄せて並べてある教室内。
 事前にも聞いていたがどこに誰が座るとかは決まっておらず、
 早く来た者が好きな場所を取れるという事だった。
 リシェラは視線を一周させると、ディアンを誘導した。
 一番後ろの窓際の席。
 春の陽気も感じられる抜群の環境だ。
 始業開始までまだ余裕があるにも拘らず席はほとんど埋まっている状態で
 そんな好環境に恵まれたのは、幸運としか言いようがない。
「運がいいわね」
「は、はい」
 リシェラの耳打ちに思わず赤くなってしまったディアンの声は些か裏返っていた。
 意識してしまった自分をすぐさま恥じた。
 城内では何故か黙認されているが、ここは違う。
 同じ年頃の生徒達。
 しかも貴族の子息子女ばかり。
 変な噂を立てる品のない生徒がいないと信じたいが分からない。
リシェラは躊躇し立ち止まっているディアンをちらと横目で見た。
「何を気にしているのか知らないけれど」
「あんまり心配性すぎるとはげちゃうんだから!
 ギブソンだって髪は白いけどふさふさなのよ。若はげのディアンなんて絶対見たくないわ。
 そうなったら即刻城から出ていってね」
 リシェラは無駄に緊張感を醸し出しているディアンを和まそうとしているのか
 茶目っ気たっぷりに言った。
「くっ……は、はい」
 喉から込み上げてくる笑いを堪える。
「分かったらさっさと座りなさい」
「はい」
 席へ着いて暫くすると鐘が鳴った。
 余裕があると思っていたが、意外に早く時が過ぎたらしい。
 静まり返った教室内に颯爽と教師が入ってくる。
 初老の男性教師だ。
「編入生を紹介する。リシェラ・グリンフィルド、ディアン前へ」
 席を立ち前に向かう。
 教師が前を避けて二人を通す。
 リシェラとディアンは隣同士に立ち、正面を見据えた。
 クラスメイトの視線が突き刺さってくる。
「リシェラ・グリンフィルドです。
 よろしくお願いします」
 リシェラが笑顔で会釈すると拍手が巻き起こる。
 ディアンが前に進み出て、
「ディアンです。よろしくお願いします」
 自己紹介すれば、黄色い声が上がった。 
 リシェラは満足気に微笑み、ディアンは怪訝な顔で席へと戻った。
「リシェラさま、このクラス賑やかですね」
「楽しくて良いじゃない」
リシェラは、このクラスで仲良くやっていけそうな気がしていた。
 破天荒な王女さまだ。とはディアンの内心の呟きである。
 授業の合い間の休憩時間、リシェラの周りには男女問わず人だかりが絶えなかった。
 ディアンの周りにも数人の女性とが集まっていて、
 勢いに少し引きながらもディアンは、やり過ごした。
 昼休み、校内の食堂へと向かう途中でリシェラはディアンの顔を覗きこむ。
「疲れてる? 」

「いやちょっと……」
 ふとリシェラが意地悪な顔になった。
「ディアンって人気者よねえ」
「からかわないで下さい。リシェラ様こそ」
「皆が私の側に来るのは王女だからよ。そういう視線がありありと感じられたわ。
 ディアンのことも聞かれたし。
 ……まあ最初はこんなものかもしれないわね。物珍しいでしょうし。
 その内立場関係なく親しくなってみせるわ」
「リシェラさまならできますよ」
「ディアンに負けてられないわ」
 ディアンは目を瞠るが、リシェラは真剣そのものだ。
「ああ、私だけのディアンじゃなくなるのか」
リシェラのことだから他意はないのだろう。
 分かっているはずのディアンだが心臓がうるさいのを自覚していた。
 従者としてリシェラに必要だと思われていることが感じられたから。
 ざわめきを避けるように隅の席に座る。
 リシェラはメニューを手に取り、
「結構豪華なのね」
 にっこり笑った。嬉々とした声の響きだ。
 ディアンもメニューを手に取り、適当に選ぶ。
 テーブルに備えつけられたベルを鳴らすと係員がやってきた。
「リシェラさまは決められました? 」
「うん。あ、これでお願いします」
「これを」
「かしこまりました」
 会釈をし係員が下がる。
 ディアンは係員の姿が見えなくなったのを確認して口を開いた。
「レストランっぽいですね」
「違う所はお金を支払わない所ね」
 学費の中にすべて含まれているからだ。
 その代わり学費も貴族の学校相応に高い。
 王家の後見があるから通えているが、本来ならディアンが通えるはずもない場所。
 重々承知しているが、ディアンの肩肘が張ってしまうのも仕方がなかった。
 恵まれすぎていて怖い。
 料理が運ばれてくるとリシェラとディアンは黙々と食事をした。
 そして午後の授業も終えると、学園を後にした。
帰り道も好奇の視線に晒されたが、ディアンが庇うようにリシェラ
 の隣りにいたので、何も起きることはなかった。
 王女という存在をよく思わないものもいる。
それに、自分が従者であること以前にリシェラを一人にさせておくと何かと不安だった。
 ディアンは気を抜かないようにしようと思った。


 城に戻りリシェラの部屋でお茶を飲みながら今日一日を振り返っていた。
温度の加減も心得ているディアンお手製の紅茶と
 甘いお菓子がテーブルには並べられている。
 城に戻ってきた報告は既に済ませた後だ。
「楽しかったー!」
「俺も行ってよかったです」
「お城で毎日同じ教師の顔見るよりもずっといいわ。
 お友達もできたし」
「幸先いいスタートですね」
「うん。それに学園にはザイスがいないもの!
 あの人年がディアンよりも上だから学園に通うのは確実に無理ね。
 教師にしては若すぎるし万が一にも会う可能性もないわ」
 リシェラはかなり嬉しそうだ。
 そこまで考えていたのかとディアンはある意味感心した。
「よほど嫌いなんですね」
「当たり前じゃない。なあに? ディアンはまさか好きなの? 」
「悪い人ではない気がするので嫌いではないですね。
 会うのは月一くらいで充分ですが」
 ディアンはきっぱりと言い切った。いっそ清々しい。
「ディアンって心広いんだ」
「そんなこともないと思いますよ」
 事実、ディアンは嫌いなものは極端に敬遠する性質だ。 
「失礼するよ」
 聞き慣れた声。否、慣らされてしまっただけ。
「げっ」
 噂をすれば何とやらだ。
 リシェラはあからさますぎる反応を示した。
「リシェラさま、お言葉遣いが……」
 ひそひそと小声で話すも効果はなく。
「聞こえていますよ。先ほど私の噂でもされていたのでしょうか。
 大きなくしゃみをしてしまって、使用人の方を驚かせてしまいました」
 了承も得ずにずかずかと部屋に入り込んできたザイスは、
 ディアンを押しのけてリシェラの隣りの席に我が物顔で座った。
(ますますエスカレートしたか? まったく厭きさせない人だ)
 ディアンは不快感を感じるよりも面白がっていたが、
 リシェラは仏頂面になっていて、不機嫌であることを表に出している。
「ザイスさまは嫌われていると理解している上で、もっと嫌われることをなさっている。
 楽しいからだとしたら性質が悪いですね」
「君に言われたくはないねえ」
 ディアンはぐっと詰まりそうになっている。
 誤魔化す器用さは持ち合わせていないという損な性格だ。
「ディアン……」
 リシェラが、じと目になった。
「いや、あのですね」
「要するにディアンは私に協力してくれる気満々ってことです。
 心強い味方がいて嬉しいなあ」
 勝手に決め付けたザイスにディアンは、
「はあ? 自分の都合のいい風に解釈しないで下さいよ。
 誰が協力するなんて言いましたか」
 即座に反論した。
「だったら追い払うなりすればいいじゃないか。
 いざとなったら身分なんて気にしないだろう。
 リシェラさまに心酔しているディアン君は。
 私を追い払わないのは、君も状況を楽しんでるって事だろう」
「確かに。あなたが度を過ぎた振る舞いをすれば、
 俺は容赦しませんけどね。今はまだ大丈夫だと思ってますから」
「その大丈夫は何の根拠に基づくんだろうね」
 閉口するしかなかったディアンである。
 リシェラは口を挟みたい気持ちは充分あったが、ディアンとザイスの醸し出す
 ただものならぬ雰囲気に気圧されて状況を見守るのが精一杯だった。
(ザイスが来て面白くはなかったけど、でも今の空気って……)
「そろそろ本気になろうかな」
 ザイスを包む雰囲気が一変したとディアンは思った。
「だってつまらないからねえ。
 私は一ライバルとしてディアンを認めているのに素直にならないんだから」
 どうやら臣下のディアンを軽んじてはいないらしいが。
 別の意味で戸惑うばかりだ。心がざわついてたまらない。
「リシェラさまも」
 ザイスはちらとリシェラに視線を向ける。
 ディアンの呼吸が乱れていた。
(何を言わせようとしているのだこの人は)
 ザイスはリシェラの髪を掬い取り耳元で囁く。
 吐息を吹きかけるように。
「私とディアン、どちらを選ぶかあなたの決断次第で
 決着はつくんですよ」
 望みがないと分かったら、潔く引き下がりますから。
 そう後に聞こえた。
 とくん。リシェラの胸が高く鳴った。
「では私はこれで。紅茶ご馳走様でした」
 失礼しますと、ザイスが部屋を出て行った。
 ディアンがごくりと息を飲み込み口を開いた。
「すごく胸が熱いんです。ザイスさまがリシェラさまに触れた時
 胸に炎が生まれたのを感じて……。触れてみたら分かるでしょう」
 ディアンは、気持ちに突き動かされるままリシェラの手を自分の胸に導いた。
「本当だ、熱い。私と同じ」
 リシェラは瞳を揺らした。
 切ない眼差しで見上げられ、ディアンは、焦燥に煽られた。
 触れたくなり、触れてほしくなって必死でそんな自分に抗おうとする。
 もう既に遅かったのだけれど。
 リシェラはディアンの手を取り頬を寄せると、
 彼の胸に飛び込んだ。
「リシェラさま! 」
 叫ぶと迷わず華奢な背中に腕を回した。
 ディアンは自分と彼女がどういう関係かなんて頭から吹き飛んでいた。
 今この時が至上の瞬間で相違なかったのだ。
「ディアン……」
 リシェラもディアンの背中に腕を回して抱擁した。
 触れたら戻れなくなると知っていたのに。
 後から悔やむ事になると分かりきっていたのに。
 気持ちが溢れだして止まらなかった。    


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