第8章



 ディアンは重い口を開いた。
 「隣国と戦争が始まるという話はご存知でしょうか?」
「ええ……。先日、お父様が仰っていたわ。隣国の王が、領土を広げようと
 兵を動かしてグリンフィルドに攻めて来ようとしてるんでしょう」
 リシェラが話を聞いたのは三日前のこと。
 この国の平和が侵される。
 貴族と平民によって貧富の差があるが、着るもの食べるものに困るほど貧しい
 生活を送っているものは、いない。少なくともリシェラの認識では。
 それぞれの生活の中で日々精一杯生きている。
 そんな静かな平穏が突然乱されるかもしれない。
 国が存続している限りいつどんなことが起きるか分からない。
 父の言葉は、重く胸に響いたのだった。
 私の代で戦争が起きる事になるとは。国を動かす度量が足りなかったのか。
 自嘲した父をリシェラは歯痒い思いで見ていた。
 お父様のお力になれたらいいのに私には何の力もない……。
 リシェラは憂いを含んだ眼差しで立ち尽くしていた。
 ディアンの話の続きを聞くのが怖い。
 胸がざわざわと騒いでいた。
 彼の口からわざわざその事が出るとは、他に何かあるのだ。
「リシェラ様」
 ぎゅっと手のひらを強く握られて、不安に揺れる瞳で見上げる。
 ディアンの瞳の奥が翳った……気がした。
「この国の兵は皆、とても強く、数も多い。王城を守るだけなら
 現状の半分の人数でも充分でしょう」
 どくん。リシェラはワンピースの胸元を掴んだ。
「先ほどリシェラ様をお待ちしている間、実はライアン様に声をかけられました。
 そして彼は重々しい口調で、言ったのです。
 『私は、王から軍の総指揮を命じられた。
 兵を率いて軍を結成してほしい、そなたの元になら皆喜んで付き従うだろう。
 と、最近の情勢を見ていて覚悟していたが、結構難儀なお役目だ。
 勿論、名誉なことだがな。これはくれぐれも内密にしてくれよ、ディアン。
 それと、お前にも、王から命が下る。臣の中でも特別目をかけられているからな。
 自分の力を生かせるいいチャンスじゃないか。もっとも、王女づきの臣下に過ぎない
 お前にしてみれば、苦渋の選択だろう。俺も内心は行かせたくない気持ちもあるが、
 お前がいれば心強いという思いも強い。勝手なこと言ってすまないな。
 王から正式に勅命が下るまで悩め。王の命は絶対だが、お前は兵士じゃない。
 決定権はディアン……お前に委ねられる』
 と彼は苦笑していました。
 ライアン様が私を頼りにしてくださっていることは正直とても嬉しいです。
 だけど俺はリシェラ様の側にいたい」
 リシェラの肩に彼の頭が下りてくる。凭れられ、戸惑う。
 正直言って、何もかも急すぎた。
 戦争が行われていてもそれはお城の外で、自分は安全なのだと
 身勝手で甘えともとれる子供っぽい考えが頭の中にあった。
 王女としても人としても決して許されないことだ。
 ここ数ヶ月近くにいすぎて側にいるのが当たり前になっていた。
    離れてと言えばすぐに離れるだろうに、リシェラはそうしない。
 居心地が良すぎるのだ。甘えて我儘を言ってしまう。
 年が近い者など近くにいなかったから余計に親近感もある。
 真上にある震える肩をぽんぽんと叩いた。
 覆い被さっている頭が持ち上がりディアンの顔が見えた。
 迷いに満ちて苦しそうな表情が。
「ディアン、あなたはとっても強いわ。剣の扱いだってあっという間に覚えて
 使いこなしてる。お父様にもライアンにも期待されてるのよ。
 私はあなたを臣下に持てて幸せだわ……。
 その腕がちゃんと認められる場所に行かなければ勿体無いわよ。
 行きなさい、ディアン」
 自分でも不思議なほどすらすらと言葉が出てきたことにリシェラは
 自嘲の笑みを浮かべた。
「リシェラ様はそれでいいんですか。俺は側であなたを守りたいのに!」
「そうよ、王女としてあなたに命令するわ」
 激しい口調にリシェラは怯むこともない。
「っ」
 肩を落したディアンは、そのまま床にぺたりとひざまづく。
 たてられた膝の上で拳を握り床をどんと叩いた。
 感情が暴走したディアンは、目の前にいるのが王女であることなど関係なくなっていた。
「……我が主のお心のままに」
 何の感情も籠もっていない言葉。
 リシェラは真っ直ぐディアンを見ていることができなかった。
 ディアンの首筋にかけられているペンダントのチェーンに触れる。
 大事そうに五芳星を撫でながら呟く。
「ディアンを守ってね」
「リシェラ様」
 リシェラは、いつの間にか固まった強い眼差しに変っているディアンに
 淡く微笑んだ。瞳がじんと疼いて涙が今にも零れそうだけれど、
 何とか堪える。ディアンの頬に指先を伸ばし手のひらで包み込むと
「いってらっしゃい」
 頬に小さく口づけた。
 王女から臣下に捧げられたあまりに神聖なキス。
「必ず、あなたの所に戻ってきます」
 強い眼差しはそれを信じさせる何かがあった。
 リシェラは頷いた後、表情を変え、
「ピクニック行きましょう、明日!」
 先ほどまでの重い雰囲気を吹き飛ばそうと、明るい口調で話す。
 ディアンは、ふっと笑った。
「行きましょうか、俺が作りますよ」
「あなた、作れるの?私が作るわよ」
 リシェラは、ディアンを疑いの眼差しで見つめていた所思わぬ反撃を受けた。
「こう見えても料理は得意なんです。リシェラ様こそちゃんとした物が作れるんですか」
 思いきり楽しそうなディアンにリシェラはむきになる。
「言ったわね。私は料理長や食事係の者達が食事の準備するの
 いつもこっそり見てるのよ。料理のやり方くらい分かるんだから」
 つまりは何を作っているのか気になって厨房を覗いているだけだが。
「見てるだけで作れるようになるんですか」
 クスクスとディアンは笑う。
 リシェラはむっとしたが次の瞬間にはぽんと手を打って、
「じゃあ一緒に作りましょうよ!そうよ、それがいいわ!
 ディアンがちゃんと料理ができるか確認できるしね」
 意気込むリシェラにディアンは救われる想いがしていた。

 時は遡り七日前、王はぎりぎりの決断を下していた。
 その姿を見た王妃はかつての憎しみが薄れていくのを感じていた。
「勿論、どんな非難も受ける覚悟だ。
 だが、リシェラを意に染まぬ相手に嫁がせたくはないのだ。
 相手の望むままにリシェラを差し出せば同じことを繰り返すことになる。
 かつて、私がセラを権力を傘にし妻に娶ったように」
「リシェラには一番好きな人と共になってほしい……私もその気持ちは
 同じです。それが誰であろうとも関係なくあの娘が選んだ相手を
 認めて祝福してあげたい。あの娘の人生ですもの。
 本来ならこんなことは決して許されないこと。
 第一王女を貢物として、贈れば開戦は止める。
 厭な要求を突きつけられたものです」
 セラは、ギウスから過去の断罪の言葉を聞く事になるとは夢にも思わなかった。
 自らの行いへの悔いがあるから余計に、リシェラを政治の道具として
 扱いたくはないと感じている。
セラのことを抜きにしてもギウスは娘を溺愛しているから、  イエスを唱えることはなかったろうが。
 セラはそっとギウスに寄り添った。
 嫁いだあの日、王と共に歩く運命を選んだ。
 結婚してからもかつての愛した人が忘れられず、苦しんでる姿を
 ギウスは黙って見守ってくれた。
 彼も無情なだけの人間ではなかったのだ。
 激しい想いに身を焦がすことはなかったが、年月を経て心は変化した。
 穏やか過ぎる静かな愛であるけれど、私は確かにギウスを愛しているのだ。
 握り返された手のひらの強さに安堵している自分はきっと。
 セラはさらりと髪をかきあげた。
 30代半ばを迎えても彼女はまだまだ若々しく美しかった。
「リシェラとディアンは想い合っているのだろうか」
 ギウスはぽつりと呟いた。
「リシェラが心を許しているのは分かります。あの二人は見ていて微笑ましいばかりですわ」
 セラは、突然出た話題に瞳を揺らしたが、すぐに表情を変えた。
 ギウスは苦笑いする。
「もし二人が想い合うことになったとしても私は反対しない。
 ありのままの現実を受け入れようと思う。たとえ身分があろうとも
 中身が伴わない愚者はいる。身分など関係ないと私は考えている」
 自分に言い聞かせるようにギウスは言った。
 身分の高いものと一般の民など世間では認められていないことだから。
セラは深く頷いていた。
「私はあの娘からディアンを取り上げてしまうことになるな。
 彼には軍に加わってもらうことにした」
口調は淡々としていた。
 例え娘の笑顔を奪うことになろうとも、仕方がない。
 ディアンは、グリンフィルドの戦力に不可欠な人間だ。
 話し相手として世話係として平和に過ごしていた彼を戦場へと引きずり出す。
 生きるか死ぬかの世界へと17の少年を巻き込もうとしている。 
 非常なようだが、これ以上は選べない。
 リシェラを守れても笑顔までは守ることはできない。 
 兵士団長のライアンもお墨付きの実力を備えている。
 この国が元の平穏を取り戻す為には、ディアンの力はきっと役に立つ
「ディアンも既にライアンから話を聞いている頃だろう
 彼の希望なのだ。軍を率いる際は、ディアンを加えてほしいと」
 私も何度かライアンとディアンの手合いを見たが、ライアンが実力を買っている
 のも頷けた。そして了承したのだ。後は、ディアン次第だ。いやリシェラかな」
「リシェラは聡明な子です。何もかも受け止めて
 彼を送り出すでしょう。冷静に言っている自分が嫌になるけれど」
「ディアンを王の間に呼ぶ際、セラもできれば彼と話をしてほしいのだが」
「言われなくても」
 セラはくすくすと笑った。
「ディアンとは前々から話をしてみたかったんですの。
 私も彼の事は気に入ってるのよ」
 おどけて笑うセラにギウスもつられて笑った。
 場の空気が和んだ瞬間だった。 


 リシェラとディアンはピクニックに来ていた。
 二人で作ったお弁当を携えて。
 空は目に痛いくらい青くて眩しい。
 見上げていると目蓋の奥が熱くなる。
 ディアンはリシェラに日傘を差していた。
 リシェラの白い肌が陽射しに焼かれるのは、耐えられなかった。
 リシェラ本人よりも、陽射しはお肌の大敵だなんだのとうるさく言ったのは
 ディアンの方で、むきになる彼をリシェラはけたたましく笑い飛ばしていた。
 お弁当の入ったバスケットもディアンが持とうとしたが、こちらは
 リシェラが、さっと手にしていた。傘よりも実は重いので、
 ディアンはバスケットを持ちたくて仕方がなかったりする。
 最初から傘の方を渡しておけばよかった。
 というより両方持つのが筋だ。
 自分の不甲斐なさを噛み締めているディアンだった。
「どうしたの、ディアン?」
「いえ」
 急に話しかけられたディアンは気まずかった。
 ディアンの返事を聞いていないのか独り言のようにリシェラは呟き始めた。
「雲ひとつなくて青い青い空……綺麗ね」
「時々ね、あの空に溶けちゃいたいって思うことがあるの。
 あの澄んだ色が何もかも洗い流してくれる気がして」
「…………」
 リシェラがあまりにも儚く目に映って、ディアンは泣きそうになった。
 何故そんな切ない瞳で空を見るんだ。
 自分で掴みきれていない何かが口から飛び出そうだ。
 城下へと下りて、街まで来た二人は、噴水のある場所まで来た。
 ベンチに腰掛けて、人の流れを見つめる。
 時折声をかけられたが、リシェラは街の人々とも普通に接している。
 王女だからと身分をひけらかすこともなく、奢った態度でもない。
 親しげに笑顔を振りまく。
「お弁当、食べよっか!」
 先ほどの切なげな様子とうって変わってリシェラは明るい声で言った。
 日傘をしまうようにディアンに促した後、バスケットを開ける。
 ふわっと広がる甘い匂い。
 結局、リシェラが甘いもの食べたくてフルーツサンドになった。
 色とりどりの季節の果物を挟んだサンドウィッチは、添えられた
 クリームがパンからはみ出していた。
 お弁当というよりはティータイムのお菓子だ。
 クリームをフルーツを添えたのはリシェラ。
 絞り袋から盛り付ける時の彼女は、楽しそうにはしゃいでいてディアンは驚いたものだ。
「美味しい」
 リシェラは口いっぱいに頬張った。
 ディアンが横目で見ると、案の定、頬に白いクリームがちょんとついてしまっていた。
   たまにはいいだろう。と彼は勝手に判断し、頬に唇を落とした。
 傍目にどう映っているのか気にしない振りをして。
「!!?」
 リシェラが過度に反応する。
 頬をりんごの如く真っ赤に染めて、口をぱくぱく動かした。
「昨日のお礼です」
 平然と言い切るディアンにリシェラは、
「びっくりしたんだから!!」
 声を荒らげた。
「怒ってはいらっしゃらないのですね」
「どうして? 怒ったりしないわよ」
 ディアンは口元に手を当てた。
 怒ってるわけではなくびっくりしただけ。
 それではまたしてもいいのだろうかと不埒な考えが浮かぶ。
 この可愛らしい王女様の反応を見るのが楽しいから。
「ディアン、ほら、あーんして」
「恥ずかしいじゃないですか」
「遠慮せずに、さあ」
 ディアンは観念して口を大きく開けた。
 一口大にちぎられたサンドウィッチが口の中に放り込まれる。
 咀嚼して飲み込んでは何度もそれを繰り返した。
「丸ごと放り込まれるかと思ってました」
「ディアンったら。そんな意地悪しないわよ」
 口元についてしまったクリームを手で乱暴に拭うとディアンは立ち上がる。
 すっかり空になったバスケットを手に持つと、空いている方の手をリシェラに差し出した。 
 差し伸べられた手を取り立ち上がるとリシェラは隣に並ぶ。
 ディアンが日傘をさすとリシェラは微笑んだ。
「帰りましょう」
 王女と臣下の二人は、同じ歩幅で城へと戻っていった。 
 その日、ディアンは王より正式な勅命を受けた。
 軍へと入隊し戦争へと赴くことを言い渡された。
 ディアンは澄み切った笑顔で、了承の意を示した。
 ディアンの迷いのない瞳に、セラは複雑な想いを抱きながら、
 王の間を去ろうとした彼を呼び止めた。 
「何でしょうか」
「ディアン、あなたは本当はこの城に残りたかったんでしょう。
 無理を強いている側が言えることではないけれど、どうか許して」
「勿体無いです。私などにそのようなお言葉をおかけいただいて」
「リシェラのことが好き? 咎めるつもりはないから、正直に答えて」 
  「あの方は何者にも替えられない方です。リシェラ様の
未来を守るために  行かなければならないとそう思いました。
 戦いに行こうとしているのに私情ばかりで不純かもしれないですが」
「いいえ、正直な気持ちを聞けて嬉しいわ」
 ディアンは照れたように笑った。
「私もそして王もリシェラとあなたの味方だから、安心してね」
「はい」
「旅立つ前にリシェラにお別れは済ませた?」
「いえ。まだですが、このまま行きます」
「そう。兵とあなたの無事を心より願っています。
 あの娘のところに帰ってきてあげてね」
「はい!」
 力強くディアンは言い、ライアン率いる軍へと入隊した。
 自分が役に立てるなら、精一杯力を尽くしたい。
 ディアンは固い決意を胸に抱いていた。


 ファンファーレが鳴り響く中、執り行われた軍の出発式。
 リシェラは涙ぐみながら窓越しに、ディアンを見守っていた。
 すすり泣き、激しく嗚咽を漏らす。
 ごめんなさい、ごめんなさい、ディアン。
 私が行けなんて言ったばかりに。
 良かれと思っての行動だったが今更後悔が沸き起こる。
 もしも彼の身に何かがあったら、自分の責任だ。
 彼への謝罪の気持ちと、同時に胸にあったのはどうしようもない寂しさ。
 リシェラは胸が潰れそうに痛い理由を知りたくて仕方がなかった。


第九章
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