without you


 あれから、七年か。
 彼女の想いを胸に抱いたまま抜け殻のように過ごしてきた数年間。
 未だ僕は誰かと結婚してもいない。
 子爵家を盛り立てて行くためには、結婚し跡継ぎをもうけることが最重要課題なのだけれど。
 老いていく母に心配ばかりかけてはいられないと
思いながらも  未だに振り切れない。
 このままじゃ、トリコロール家追放かななんて、空笑う。
 どうして、あの時別れなければならなかったのか。
 手を離してしまったことが、彼女を苦しめる要因になったはず。
 俺に彼女を守ってやれる力がなくて歯痒かった。
 王に見初められてしまう日が来ることは、
 薄々気づいていたはずだ。あれほど美しいセラが目に止まらぬはずもないのに。
 彼女は他の貴族の令嬢とはどこか一線を画していた。
 美しいだけなら良かったのだけれど。  気高いのだが、尊大な振る舞いはしない。
 凛々しくてクールで大人びていて、脆さも合わせ持っていて。
 幼い日から夢見ていた。
 彼女と過ごす未来。
 突然奪われてしまった夢も何もかも。
 彼女は、泣ける場所を見つけられただろうか。
 今となってはそれが気がかりだ。
 トリコロール子爵家にも王家から、晩餐会の招待状が届いていた。
 遠目でいい、今の彼女の姿を見たい。
 お城で開かれる晩餐会になど今まで行く気になれなかったが、
 彼女に会いたい。唐突に湧き上った想い。
 もう触れることも叶わぬ国の王妃となったセラその人に。 
 遠めにでも彼女のことを確認できれば、忘れられるような気がした。
 いや、忘れるなんて強がりに過ぎない。
 二度と思い出さないだろう。
 美しい想い出に蓋をして。


 ジャック・トリコロール子爵は、すらすらと記帳した。
 王家主催の公式な場では、出席者名簿に名を記すことになっている。
 落ちつかない気分で、そわそわとホールへと歩いていく。
貴族らしいそつなく優雅な身のこなし。
 外から見れば彼の心情など図れるはずもない。
 初恋の人。
 ジャックは初めて愛したたった一人の女性に会いに来た。
 決して手の届かない至上の位置の女性。
 自分の立てる靴音ががやけにうるさい。
 耳を塞ぎたい気分だとジャックは思う。
 こんな風に城内を歩いているなんてね。
 自嘲にも似た笑みがジャックに浮かんだ。
 目立たない隅の席に腰を落ち着けた。
 飲み物を運んでいるメイドから、ワインを受け取る。
 ホール内には貴族たちが溢れかえっていた。
 きらびやかな衣装を身に纏い、装飾品を見栄を競うように飾り立てている。
 こんなに大勢の人々がいるのだ。 
 まさかジャックが来ているなんてセラ王妃は思いもしないだろう。
 かつてのフィアンセだった男性が、彼女の姿を見に来ているなんて。
 グラスを傾けながら斜に構える。
 さりげなく視線を滑らせれば、一番奥の段差を越えた先にセラ王妃はいた。
 結い上げた金髪に輝くティアラ、サファイヤのような青い瞳。
 あの場所にいるのは彼女以外に間違いなかった。
 距離のせいで表情までは窺い知ることができない。
 もっと近くで見たい。
 ジャックの中で生まれた欲求。
 王と王妃には必要以上近づくことはできないが、せめて  表情が分かる位置までいけたら。
 ジャックは半ば、セラ王妃に気づかれるのを覚悟で
 席を移動した。人の波に紛れれば大丈夫だと言い聞かせながら。
公式に招待されているのだから、見つかっても問題はない。
 幼なじみのセラとジャックではなく、
そこにいるのはトリコロール子爵と  セラ王妃なのだから。
 あの日手を離した女性が、そこにいる。
 ジャックは遂にセラの姿を視界に捉えた。
 完璧で隙のない微笑み。
 けれど、瞳の奥に少し翳りを感じるのは気のせいだろうか。
 瞼を微かに伏せて、王と、側に座った女の子と談笑しているセラ。
 あれが、リシェラ王女。
 髪は金髪ではなく赤茶色で、王とも色合いが違うけれど
 顔立ちはセラの幼い頃にそっくりだった。
 今年で6歳になるはずだ。
 将来結婚できたら、こんな子を持つことができたのだろうか。
 セラが王に見初められて城へと嫁したのは結婚まで三月を控えていた折だった。
 ジャックは、王と王妃への挨拶をすべく、列に並んだ。
 ジャックとしてではなく、トリコロール子爵としてこの場に来ているのだから。
 王・王妃夫妻は、にこやかに一人一人と握手を交わしている。
 ほんの短い間の邂逅だけれどこういう機会でもなければお目通りは適わない。
 ご機嫌伺いのためだけに城へ赴く決意などジャックにはできなかった。
 セラの前で平静を保てる自信がなかった。 
 もう彼女を名前で呼ぶこともできなくなった。
 ジャックは国王陛下に深々と頭を下げて名を告げ、一言二言言葉を交わすと、
 セラ王妃陛下の前に跪いた。
 本来なら無礼に当たる行為。
 傍から見ても奇妙な行動だった。
 きっと俺のことを王はご存知だ。
 彼女とどういう関係だったのかを。
 なら、これくらい大目に見てくれてもいいだろう。 
 開き直りジャックは、愛した女性の前に膝をつく。
 セラがすすとテーブルの前に進み出て手を差し伸べる。
 瞳が一瞬揺れた。
 立って、あなたにそんな風にされたくはないわ。
 とかつて愛した女性の声が聞こえてくる気がした。
 実際は何も言わない。セラは澄んだ微笑を浮べているのみ。
 ジャックは差し伸べられた手にそっと触れて立ち上がる。
 指先が震えたことに、セラは気づいただろうか。
 ほんの数秒、視線が絡み合う。
(ああ、君はやっぱりセラだ。変わらないね。
 だから切ないのかもしれない)
 僅かな時間だったけれどジャックは幸せだった。
 セラは、変わらないままにそこにいた。
 自惚れでも良い。
 彼女が、俺を愛した記憶を大切にしてくれているのなら
 生きていける。
 俺も君の記憶を胸に抱きしめて。
 一礼をしてその場を辞した。
 彼女の姿が遠ざかる。
 もう、君の事は二度と思い出すまい。
 愛したことまで忘れるつもりはないけれど
 ジャックは屋敷に帰ると、部屋でグラスに赤いワインを注いだ。
 城では一切酒を口にしなかったのだ。
 楽しく酒を飲めるとは思わなかったから。
 ジャックはワイングラスを置いてベッドに横たわった。
 空になったボトルがテーブルの上で倒れている。
 ジャックがセラへの想いを永遠に封じると決めたその夜セラも彼のことを
 考えていたことなど知る由もなかった。


「どうかされましたか、陛下」
「さっきから何を考えている」
「私だって何かを憂うことはありますわ」
 考えていないなんて嘘はつけなかった。
 隠せる自信はあったけれど空しくなるだけだ。
 強い眼差しは何も悟らせないようなそんな印象を受ける。
 ギウスはそっと彼女から視線を外して口を開く。
「……悪かった」
 ぽつり。漏れた一言にセラは虚を突かれた。
「何がですの?」
 わざと惚けた風を装う。
 聞くのは自分も辛いが、少しは罪悪の気持ちを
 持っているのなら言わせようと、意地悪にも思った。
 それぐらい許されるはず。 
 私は彼の事を忘れなければならなかったのよ。
 権力で、私の人生を手に入れたあなたを永久に愛せない。
 幾ら年月を過ごしても家族愛のような情しか持てないだろう。
 セラの眼差しは揺るがず、ギウスを捉え続ける。
 王の前で、どんな態度をとろうが、許されると自覚していた。
 もちろん、弁えてはいるが。
 愛されていることを利用してきた。
 ずる賢さだけは一人前の罪深い女。
 そうしなければ、この城で生きては来られなかった。
 汚れていくばかりで、あの頃の私はもう
 どこにもいないというのに、ジャックはあの時と同じ瞳で見つめていた。 
 あの人の傍にいたら綺麗なままの自分でいられた。
 セラは、忘れていた想いがぶり返してきて戸惑う。
 表面に出ないように被る仮面。
 強くなんてないから、笑うしかないのよ。
 微笑んでいればいつだって切り抜けられたもの。
「おやすみなさいませ」
 背を向けて囁けば、ギウスは、文句も言わずに出て行く。
別々に私室で休むことになるだろう。
 こんな夜は一人でいたかった。
 セラは、両手で顔を覆う。
 これが最後だと覚悟して、彼は会いに来てくれた。
 来たくもないだろう城に足を踏み入れて。
 正式に爵位を継いだ彼は立派に家を盛り立てていくことだろう。
 今宵だけは離れた場所で、お互いを想うことを許してください。
「――あなたなしで生きていくわ」
 今までもそうだったように、これからも。
 会いに来てくれてありがとう。
 誰にとも呟いたセラの瞳には一粒の涙が浮かんでいた。
 彼に会えてよかった。変わらぬ想いを感じられて幸せだったわ。
 これが今生最後の出会いとなったセラとジャック。
 9年後ジャックが、貴族として子爵より上の地位に昇りつめたことをセラは実家に帰った折耳にする。
 何故それが果たされたのかは、セラは知らない。


戻る。