導かれたあの日から、
 私の世界は闇へと染まった。
 手を伸ばしても、
 空を切るばかりで何にも届かない。

 アントニアは硝子の割れる高い音にびくりと背筋を反らせた。
 持っていた水差しが落ちて、割れてしまったのだ。
 慌てて手を伸ばすも冷ややかな視線に見下ろされて動きを止める。
 すっと、背をかがめて、硝子を拾ったオズワルトが近付いてきた。
 恐怖で引き攣る心を誤魔化したくて、心の中で十字を切ったが、
 想像とは反対に何も起こらなかった。
 硝子を手にしたまま、アントニアの背を抱いてオズワルトが微笑む。
「……お兄様」
「何だ、アントニア」
 首を振った。
 硝子は手のひらに食い込んでますます血をあふれさせている。
 アントニアの背中に真紅が伝わる。
 握りしめた硝子を無理やり引きはがしたアントニアは、
 澄んだ笑みを浮かべた。直接硝子に触れても痛みはさほど感じなかった。
 痛みに慣れすぎて限界を超えてしまっているのだ。
 オズワルトの氷の瞳が熱く燃える度、  アントニアの傷は増えた。
 突然、唇が重なる。
入り込んだ熱の息吹に身をよじる。
「ん……」
 罪は、とうに犯してしまっていて、だから何度重ねても
 同じことだと、オズワルトは思っているのかもしれない。
 満たされず、失うばかりで、苛立ちは募る。
 唇からこぼれる真紅の雫をなめとり、オズワルトは壊れるままに嗤う。
 アントニアの赤く染まった手のひらを啜ると、彼女は吐息を洩らす。
 アントニアもまた傷ついたオズワルトの手のひらに恭しく口づけた。
 気味が悪いほどに美しい光景だった。
 オズワルトは、乱暴にアントニアを抱き上げた。
 胸だけ張り出している痩せぎすの体は、逆に妖しかった。
 望まないまま女になってしまった彼女。
(抱かれるのはきっと嫌いではない。
 愛だと錯覚して酔っていられるから。
 すべて終わった後、憎しみが噴き出して、堪えきれなくなるだけ。
 それだけだ。私には何もできない。逃げることも……何も。
 考えることをやめてから、随分楽になった気がするの)
 オズワルトは、アントニアのドレスのボタンを引きちぎるように外した。
 顔を埋めて、肌に鬱血を散らせる。
 アントニアが、彼を殺す機会ならいくらでもあったけれど、
 行動に移さなかったのは、奇妙な情ゆえ。
 憎悪と共に愛情までもが身を蝕んで、身動きできなくなったのだ。
 首を振るアントニアの頭を押さえつけて強引に口づける。
 息が詰まるほどに、激しく。
「あなたを下さい」
 漏れた声音にオズワルトはにやりと笑う。
 白い肌を、思うがままに蹂躙して堪能する。
 衝撃が訪れるたびに、アントニアはシーツを握りしめた。
 零れる涙を、オズワルトは舌先でなぞった。
 そのまま、やわらかく抱きしめた。
 せめてもの懺悔なのだろうか。
 変わってしまった兄から、妹に対する。
 透けて見える弱い心。
 必死で縋る愚かしさ。
 アントニアはオズワルトの背中に手を伸ばすけれど、
 意志とは反し、滑り落ちる。
 オズワルトは、かまわず攻め続ける。
 愛撫する指が、唇が、震えているのを感じて
 アントニアは、知らず涙を流した。
(せめてこの報われない生に早く終焉を。
 お互いにもう苦しむことがないように)
 胸に両の手を重ねて祈りを捧げた。