激しい恋
眼鏡をかけていても隠せない甘い顔だち。
隙を見せない鋭い眼差し。
忠誠を誓ってくれた執事はただひとりの愛する人。
優しいけれど容赦のない態度は常に本音で接している証拠だ。
私の心は消えない炎というものを
抱いてしまった。
危うく燃え盛る炎を。
「ジュリアさま、今日はスチュアートさまはお戻りになりません」
イアンの声にジュリアは息を飲みこんだ。
動揺を表に出さないのが、精一杯だった。
表情にも声にも滲んでいないのに媚びを感じとってしまう。
意識せずにはいられない。
イアンは男性として女のジュリアを求めていること。
いつの間にか、彼女はイアンを愛してしまったから。
思いが強ければ強い程、刹那的な気持ちも湧き上がる。
この時がすべて。
未来のことなんてわからないのだから、自分の感じるままに行動してもいいはずだ。
ふっ、と微笑み、見つめ返したジュリアは頷いた。
それだけで充分だった。
胸にそっと手のひらを押し当てる。
少女みたいに胸が高鳴っていて自分自身に呆れる。
初で何も知らないあの頃の私はもうとうにいないのに。
頬を朱に染めて誰かを見つめる日が来ようとは思いもしなかった。
心は彼一人に捧げよう。
差し出された手に手を重ねる。震える指先はきつく繋がれた。
口端を上げて笑う彼は恐ろしく魅力的だった。
透明度の高い澄んだ水に手を浸す。
一年中同じ温度に保たれているからいつ来てもほんのり温かい。
スチュアートの持つ領地の中にこの湖がある。
ジュリアが初めて来て以来一番のお気に入りになった場所。
隣に座るイアンがジュリアの肩に触れた。
あまりにも自然で、ジュリアも安堵して身を任せた。
緩やかに回された腕の強さが増す。
予感が胸に嵐を巻き起こす。
もう無傷じゃ終われない。
「ジュリアさま……」
熱い吐息が頬を撫でる。
唇が微かに触れただけで体から力が抜けそうになる。
愛ゆえの衝動だと信じている。
スチュアートの自分本位な愛情よりイアンの表す情愛は確かで神聖だ。
イアンは決してジュリアの意に添わぬことはしないのだ。
これから先も変わらないだろう。
体が何故だか熱い。火照った体を冷まさなければ。
「泳いでくるわ」
ジュリアはイアンが見ている前でワンピースを脱ぎ捨てて、湖に飛びこんだ。
「大胆なのも考えものだな」
イアンが独りごちたのにもジュリアは気づかない。
見事な肢体をくねらせて泳ぎ続けている。
跳ねるしぶき。
響く水音。
勢いよい水音とともにジュリアが姿を見せた。
あらわになる白い裸身にイアンは目を奪われる。
水に濡れた肌が艶めかしさを際立たせている。
「イ……アン」
水の中から、力強く抱き上げられ、唇が重なった。
肌同士が直に触れあったのは、まさに今が初めてだった。
とくん。
心臓の音が混ざり合う。
吐息を奪い尽くそうとする激しいキスにめまいがした。
ジュリアはしっかりと抱えこまれて、動けない。
もしかしたら自分がイアンを刺激してしまったのだろうか。
今更ながらジュリアは羞恥にかあっと血が上った。
けれど、考えごとをする余裕などかけらもない。
繰り返されるキスが、背中を辿る指が、ジュリアを翻弄する。
荒い吐息さえ、雰囲気を盛り上げるスパイス。
潤んだ眼差しでイアンを見上げる。
首筋をこぼれる雫は、すでに水から汗に変わっていた。
「風邪をひいてしまいますね」
クス、と笑ったイアンにジュリアも笑い返す。
歯止めをかけられなければ、流されてしまいそうだったから、冷静なイアンに感謝した。
タオルと衣服が差し出される。
さりげなく姿を消したイアンは不作法を詫びているのだろう。
タオルで体を拭い、素早くワンピースを纏うと森の中へと歩き始める。
イアンが空を見上げていた。
木陰に隠れて、陽光なんて届かないはずだが、片手を差しのべて瞳を閉じている。
彼の方も執事の衣服を身につけていて、さきほど見せた情熱まで胸にしまいこんだかのようだ。
憂いを帯びた横顔にどきりとする。
ジュリアは何故だかすがりつきたくなり、背中に手のひらをおいた。
そのまま広い背中から腕を巻きつける。
すぐに悟られて、手が握られた。
頬を寄せた肩から熱が伝わるといい。
痩身なのにジュリアをすっぽり包みこめるたくましさを持っている。
背中から感じるイアンの存在にジュリアは、ただ陶然としていた。
ため息をこぼしてしまうほどぼうっと時に身を委ねていた。
いつまでそうしていたのだろう。
イアンが呼ぶ声にはっと我に返った。
イアンの手を強く握り返し先を歩き始めた。
ぴったりと寄り添いついてくるイアンの足音を耳に感じ取りながら。
馬車の扉が開かれる。
手を引かれて乗りこんだジュリアは、頭を振って白いレースの手袋をはめた自分の手を握りしめていた。
馬車が軽やかに屋敷への道を急ぐ。
イアンが来るまで、馬車で出かけるのは嫌いだったが
彼が馬車を駆るようになってから、馬車に揺られて移動するのが楽しくなった。
そういう些細な部分から、好きになっていったのだ。
泣いているのを見られてしまった時は恋愛感情はなかった気がする。
誰に向けるでもない強い信頼を感じ、好意もあったかもしれないが。
認めたくないだけか。
屋敷に到着し、門が開かれる。
出迎えたメイドの一人、アンナにショールを預けて部屋へと向かう。
イアンとは一旦別れた。
約束のときが待ち遠しい。
夕食時、イアンはグラスにワインを注いで立ち去っていった。
二人にしかわからない合図を交わした後で。
グラスにワインを注ぐ時ジュリアが自分の指先でイアンの手をかすめる。
数秒にも満たない短い時。
立った時くらりとめまいを感じた。
酔ってはいない。
普段より少しペースが速かったせいだ。
自らに言い聞かせながらメイドの肩を借りて歩いた。
邪魔な理性をほんの少し遠ざけたかった。
心はイアンに向かっていても、頭はモラルを守ろうとしていたからだ。
「……ありがとう、アンナ。 こんな醜態を晒してしまって恥ずかしいわ」
部屋まで送ってくれた親しいメイドに緩く微笑む。
顔の火照りは幾分冷めてきた。
「たまには肩の力を抜いていいんです」
にっこり。穏やかに笑うアンナにおどけて手を振って開けられた部屋の中に入った。
みっともない姿を見せてもいい数少ない存在だ。
着替えなど身の回りのことはなるべく自分でするようにしている。
生まれ育った環境のせいか、人を使うのは未だに慣れなくて緊張するのだ。
スチュアートの側では、ボロを出さないように努めている。
無意味に髪を指に絡ませては戻す。
静かな部屋に柱時計の独特の音のみ聞こえている。
寝室に続く小部屋で鏡を見ながら髪を直していた。
「残念。私がほどいて差し上げたかったのに」
気配をさせずに部屋に忍びこんだイアンに背中を向けたまま、鏡の中から彼を見つめた。
感情を含んだ強い眼差し。
ジュリアの中で何かが目覚めた瞬間だった。
「約束の時はまだよ」
「待ちきれなかったものですから無様にも姿を見せてしまいました。
気分を害されましたか?」
「……いいえ。待っていたわ」
心にもないことをわざわざ口端にのぼらせるイアンは食えない男だ。
だが、言葉の駆け引きをしていることはお互い承知の上だ。
髪に触れて唇を押し当てている鏡の中に映るイアンの姿。
胸をよぎる期待とときめきは計り知れなかった。
梳られ艶がますブロンド。
「私の髪好き?」
「ええ、あなたの好きな部分のひとつです。今日は、花の香りですね」
髪をひとすくいし、匂いを吸いこむ。
気障な仕草も台詞もイアンは、自然だから感心する。
「あら、他が気になるわ。教えてもらえるかしら?」
「唇、首筋、肌、あなた自身」
「順位は?」
「決められません……といいたいところですが、一番はあなた自身に決まっています」
望んでいた答えをくれたことに満足する。
きっと嬉しさが顔に滲み出しているだろう。
鏡越しに邪笑を見せつけるイアンは背をかがめてジュリアの肩を抱いている。
「月が顔を隠してしまった。どうやら罪を見咎めるのが恐ろしいらしい」
開け放たれたカーテンから月の光は届かない。
低音が響き、息が直に触れては離れる。
イアンはゆっくりジュリアを煽り、逃げ場を失わせる。
迷いを振り切らせたいのだ。
最早、覚悟を決めているというのに。
躊躇いなんてない。
すう、と一度深呼吸してイアンに向き直る。
手の甲にきつくくちづけを受ける。
イアンを映す視界はきらきらと星が瞬く。
「いつもは美しいのに今日はかわいらしいですね」
「あなたを愛しているからよ」
だからそう見えるのでしょう。
腕をぐいと引かれ、抱きつく格好になる。
「……この上ない幸せだ。私もその想いに応えましょう」
胸に顔をうずめると腕の下にイアンのそれが差しこまれ、ジュリアはふわり、横抱きにされた。
扉を開閉する音。
広い、広い部屋の中、真ん中に鎮座するベッドに静かに下ろされる。
王子が姫に対するように、大切に横たえられたジュリアは今まで味わったことのない気持ちを感じた。
天蓋が淫靡な雰囲気を醸し出す。
薄明かりの中イアンの顔がはっきりと見えた。
リングが、外されて、ベッドの隅に置かれる。
戒めの証を彼に外させたことをジュリアは苦々しく思った。
手を伸ばしイアンの頬から首、肩へと触れる。
「どうしたんですか?」
怪訝に問いかけてくる声に、
「あなただと確認しておきたかったの」
「俺以外ここにいるはずがない」
「そうね」
ここにいるのが彼でよかった。
何もかも違うイアン。
だから愛した。
「綺麗な手だ。爪も整えられていて」
指先のひとつずつを敬いくちづけていく。
時々強く吸い上げるから、ジュリアは身震いするしかない。
「人は愚かだ。結局行き着く先はひとつしかないのだから」
「そうね……けれどあなたは続けるのでしょう」
「こんな機会を逃すはずがない。せっかくあなたがその気になってくれたのに」
「雰囲気を壊さないで」
「それは申し訳ないことをしました。
けれど、あなたも目の前で素肌を晒しておいてよくいいますね」
「……先に見せちゃってもったいないことしたかしら」
「いいえ、真実のあなたはこれから暴くのですから」
「……やっぱりあの時」
「私を煽っておいて、どうしようもない。
あのまま抱いてしまいたかったがあんな場所では、
あなたの体にかかる負担も大きいからかろうじて理性で抑えましたけどね」
「これからは気をつけるわ……」
「そうしていただきたいものですね。毎回理性を保てるとは限らないから」
頷くと新たな言葉が降りてくる。
「覚悟しておいてください。手加減はできない」
激しい口調の宣言で、イアンが本気なのだと思い知らされる。
キスの甘さに酔う。
やがて吐息混じりのものに変わっていく。
首に腕を回して、何度もキスをせがむ。
キスは顔中に降り耳朶に降り注ぐ。
熱い。シーツを掴む。
衣擦れの音。
素肌が外気に触れたが、燃え上がる体のせいで気にならなかった。
薄明かりさえ闇に閉ざされる。
「俺はあなたがどんな顔をしているか知っている。
愛を知って目覚める前の女の顔だ」
指で唇をなぞる。ルージュなんてなくても赤く色づいている唇。
「イアン……お願いがあるわ」
「何でしょうか、ジュリアさま」
「愛しあっている時はジュリアとよんで」
「望むままに……ジュリア」
「もう一回」
「ジュリア、あなたが請うなら何度でも」
完全に舞い上がっている。
名前を呼ばれることが、これほど特別だとは思わなかった。
「嬉しい」
満面の笑みに気づいてくれただろうか。
首と鎖骨は避けて、肌に唇がすべる。
瞳を閉じて身を任せていてもイアンの唇と指がどこを辿っているかはつぶさにわかった。
胸の奥が疼く。
熱を受けた耳からじわりと官能が広がる。
イアンはジュリア自身も知らなかった場所を探し当てていく。
彼女自身がまったく知り得なかったことを知られて気恥ずかしいのだか、喜びが勝っている。
解き放ってほしい、地獄の日々から。
ひとときでいい天国へと手を引いて導いて。
願いながら涙を一粒落とす。
しがみついて啼き声を上げる。
体は心地よさが支配していて痛みなどかけらもない。
あるとすれば胸に感じる甘い痛み。
痛みと不快感しか知らなかったから驚くばかりだ。
「ジュリア様……」
「ジュリアよ、イアン」
「ジュリア」
ひとつになったことを実感してまた涙が零れる。
顔を手で覆うけれど、イアンが腕を捕らえて、頬の涙をすすった。
「泣いた顔も見たい。俺が泣かせたならなおさら」
「欲張りね。どこまで独占欲が強いの」
「愛しい女性の全部が欲しいのは男として当然の欲求ですからね」
悪びれもしないのが、らしいと思った。
決して傲慢には聞こえないのだけれど。
「なぜあなたは俺の言いたかったことを先回りして言うのだろう……
お礼を言いたいのはこちらですよ。
何にも代え難い宝物をくれた」
「……そんな大層なものあげてないでしょう。
とっくの昔に穢れてる私を慈しみをこめて接してくれたのはイアンだわ」
ジュリアは苦い笑みを浮かべた。
喜びが募るほどに悲しい事実が胸を塞ぐ。
「何もわかっていらっしゃらないのですね、ジュリア。
あなたは綺麗なまま崇高な心を失ってない。
本当にあんな男の妻なのが惜しい」
ジュリアは引き寄せられイアンの腕の中に閉じこめられた。
汗と混じった香水の匂いが鼻をくすぐる。
好ましいと思った。
眼鏡を外したイアンの碧眼がジュリアを射る。
強く抱きしめられて、ほうと息を吐き出した。
この人の腕の中なら甘えることも許されるだろうか。
「……宝物なんてくすぐったいわ」
照れて赤くなった頬に唇を寄せて、
「……まだ足りない。ジュリアを感じたいのです。俺を満たしてくれるのでしょう」
言葉が終わる前に性急な指が、ジュリアを求めてさまよい出していた。
「ええ」
言葉になっていたか自信がない。きっとかすれ声。
いたずらなイアンが悪いのだ。
くすくすと、笑ってしまうのは緊張感に欠けているかしら。
くちづけはとめどなく、情熱が身を焦がしている。
ジュリアとイアンが結ばれた最初の夜。
戻る。 凍える指