静かだった。
 潮騒と、海鳥の鳴き声、それらを聞きながら、まどろんでいた。
 揺り椅子の上は心地よくて眠りを誘う。
 海辺に建つ小さな家での暮らしは以前と比べればとても質素で、
 ささやかだったけれど、ずっと穏やかで、温かい。
 まるで、真綿にくるまれているかのようで。
 そんな幸せの中に自分がいるなんて想像したことは、なかった。
 すべてが生まれ変わるあの日までは。


 目の前で頭を床にこすりつけて平伏している男はいったい誰だろう。
 独善的で傲慢で、自分以外の他など鼻にもかけなかったあの、男だろうか。
 矜持が高く、子供じみた支配欲で縛りつけた元夫の姿を冷めた目で見下ろす。
 彼が許しを乞う姿はあまりにも似合わなくて、滑稽だった。
 凍りついた心も、体も溶かしたのはあなたではない。
 今更、何を許せというのだろう。断罪の意味など分からなかった。
 妊娠中に無体を敷いたあげくに子を失い、
二度と身籠ることができなくなったことへの謝罪か。
 ようやく傷の癒えかけた私を言葉と体の暴力で攻め続けたことはなかったことにできるものか。
 疲れ、絶望でふさいでいた私に、ゆっくりと愛することを教えてくれたのはあの人だ。
 泣きつくし枯れた涙を、あの人は温めてくれた。
 慈しみ、ゆっくりと愛してくれたから、同じくらい愛した。
 望めないものを望んでしまうほどに。
 その彼が、迎えに来る前に終わりの幕を下ろす。
 それが、この屋敷での最後の役目だった。
 
 指が食い込む。生あたたかく湿った手だ。
「離して」
 毅然と言い放ち、手を振り払う。
 見上げてくる男の瞳は、後悔に彩られていた。
 遅すぎて、終わりを迎えるまで気づかなかった悔い。
「ジュリア……愛しているんだ」
 こぶしを握り締める。
 踏みにじり罵倒することでしか、自分の存在を示せなかった男を
 どうして、愛せるのだろう。
 この男に、人並みの優しさを求めた過去等とうに忘れた。
「出逢ったころに仰ってくださればよかったのに」
 お飾りで身に着けていたリングを外し、床に落とす。
からん、と軽い音がした。
 高価な代物は、ずっと紛い物(フェイク)にすぎなかったのだ。
 この男と私を繋ぐものなど、何もない。最初からなかった。
「私を買ってくださってありがとうございました」
 あの日、貧乏暮しに飽いた実の両親に成金の貴族に売り渡されなければ、
 こんな屋敷で暮らすことはなかったのだ。
 呆れたことに相手は両親と同じ年代だった。
 今にして思えばここに来なければ、運命と出会うこともなかったのだから、
 最後に、感謝くらいはしてもいいと思ったのだけれども。
 背中を向けて、部屋から出る。追いかけてくる気配はなかった。
 螺旋階段を駆け下りる。
 心が急いて、踊りだす。
まばゆく輝くシャンデリアよりも  もっと、煌めく姿を瞬時に捉えた。
 玄関先にたたずむその人に、飛びつくように抱きつく。
 子供っぽくても、自分を止められない。
 イアンの前では、恥も外聞も関係なくなる。
 長身の彼に抱きついたら踵が浮いてしまい不安定になるが、
 優しい彼は、さりげなく抱きとめてくれるのだ。
 頬を両手で挟んでこちらを見つめる。
「愛しい……ジュリア」
 万感がこもったささやきに涙がこぼれる。
 ー行こうー
 呟きとともに10年ほど暮らした場所を後にした。
 「慰謝料代わりにもらいました。もちろん、ご本人からですよ」
 夫の持ち物だった豪奢な馬車に私を乗せながら、イアンは笑った。
「許してくれたというの」
「あなたに見せた態度と同じなんじゃないですかね。
 少なくとも、かつてのあの男は私の目の前にいませんでした」
 仕えていた屋敷の主人でもある男を、あの男呼ばわりしている。
 忍び笑ってしまう。いや、彼がかなりの毒吐きなのは前からか。
 乗り込んだ御者席から、涼やかな声が聞こえてくる。
「愚かですよ。どんな高価な宝石よりも
 価値があるあなたを大事に慈しまなかったのだから。
 時間は有限なのだと、気づけただけでもよかったんじゃないですか」
10年という月日は長すぎた。何もなかったことにはできない。
「……もう、よしましょう。あなたとのことだけ考えていたいの」
「そうですね」
 勢いよく馬車が走り出す。
 二人の新しい場所を目指して。


「……お目覚めですか? 」
 ハッ、と目を覚ませば、恋しい面影に覗きこまれていた。
 知らず頬が熱くなる。
 彼の前では穢れを知らぬ乙女に戻ってしまう。
 否、彼がもどしてくれる。何も知らない少女へと。
「そんなに長く寝ていたかしら」
「あなたの寝顔をじっくり見られるくらいには」
 イアンは気障なセリフを平気な顔で言う。こちらの困惑など気にもしないのだ。
 肩にかけられた毛布に、頬をすり寄せて微笑む。
「あなたはまた、そんな可愛いことをなさる。
 嫉妬してしまうでしょう」
「あなたが、掛けてくれたものだわ」
 にこり、瞳を緩めれば、頬にキスが降る。
「こんな所で寝て風邪をひかれたら……」
 続きは耳元に直接降り注がれる。
「……ふふ」
 抱えられて、二人の寝室へと向かう。
 優しい揺らぎの中、何度もキスを受けた。
 頬をかすめて、唇の上を啄ばむ。私たちは微笑みあうばかりだ。
 ベッドの上に、横たえられて、彼の動向を見つめる。
 眼鏡をはずし、ジャケットを脱ぎ捨てる。タイをはずす。
 ゆったりとしていながらも、どこか性急で、艶っぽかった。
 顔が近づいてきたから、自然と彼の首に腕をからめた。
「愛しています」
「ええ、私も。愛しているわ」
 私の全部を抱きしめていてほしい。
 過去も包んでくれて、光に満ちた未来をくれた。
 ファム・ファタール。
 かつては、執事であった男性は、永遠の伴侶となった。
 甘い抱擁に意識が、混濁して夢の中でも手を繋いで寄り添う。


 私たちの未来は終幕(フィナーレ)から始まったのだろう。
    

 

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