『もう1度』  


 彼女は、天使ではなく堕天使だ。
 抱きしめる度、震える華奢な体。
 背中にキスをすれば、涙を流す。
「イアン……ずっと側にいてね。何もいらないから」
「ジュリア」
 狂おしい気分で頬を撫で、唇を寄せる。
 ささやかな願い。彼女は決して多くを望まなかった。
 ここ以外に往くことなど無理だと最初から諦めている。
 横暴な夫の目を盗んだ一時の逢瀬。
 この時間だけは俺だけのジュリアになる。
「あなたが好きだ。俺はあなたが幸せならそれでいい」
 髪をなで梳かす。月の光に溶けそうな金髪はやわらかな感触を伝えてくる。
「だから……もう一度」
「っ……嫌。もう一度だなんて言わないで」
 縋るような感情の乱れに、愛しさがこみ上げる。
 強く抱き上げると、美しい髪がふわりと浮いた。
 小さなわがまま。彼女の自己主張を悦びの中受け入れることにした。
「俺……も同じ気持ちです」
「イアン……っ」
 すがりつく腕。
 膝を抱えながら、彼女の中に熱を伝える。 
 二人の意識はここちよく、混ざり合う。
 溶けてしまいそうなくらいに、熱く火照る体は、覚めはしないのだろう。
「愛しているよ」
 唇を深くかわせば、熱の滴がこぼれ、首筋を濡らす。
 柔らかく触れ合いながら、彼女を探る。
 キスで、より深い奥で確かめる。
 わがままなほどに、自由に貪り、貪られる。
 俺自身さえ、喜んで愛撫してくれる。
 淫らなのに愛らしい表情で、俺の名前を呼ぶジュリアを
 見ると、欲望は簡単に弾けそうになる。
 頭を押さえ、とどめた後、また背後から、忍び入る。
「……あああっ」
「もっと啼いて……声を聴かせてください」
 耳朶(みみたぶ)に息を吹きつけ、唇を寄せる。
 びくん、と体が反応し、追いつめられる。
「もう一度じゃ足りないの……。
 あなたとひとつのまま、消えてなくなりたい」
 吐息と涙が混ざった声で、訴える甘い声。
「もう一度と願う度俺達はわがままになっていくね」
 顎を上向けた瞳は濡れていた。
 海の底の青が、ランプに照らされ鮮やかに輝いていた。
「……イアン、わがままでも許しあえているわよね」
「もちろんです」
 体を反転させ、再び上になる。
 華奢な腕が首に絡み、俺を促す。
 欲望に駆られるまま、ジュリアの内に沈めば、小さな唇から悲鳴があがる。
 絡まり合う四肢が、お互いを呪縛するようだった。


「お帰りなさいませ」
 夫は出迎えにメイドではなく妻を望む。
 四十を越えても尚秀麗な美貌は衰えることがない彼は、
 横暴で、安らぎを与えてくれたことがない。
 貧しい生家から売られるように嫁ぎ多くは望まないつもりで嫁いできたけれど、
 実質得られたのは何不自由のない暮らしだけだった。
 成り上がりの貴族。
 爵位を金で買っただの伝統ある貴族の人々には罵られ、
 好かれてはいないが、本人は気にもとめていない。
 むしろ、開き直っているフシさえあった。
 ここ数年、夫に抱かれておらず、
 私に食指が動かなくなったのだと、安堵さえ覚える。
 イアン以外に触れられたくはない。彼の指と体以外欲しくはない。
 もはや求められることもないのだろう。
 子供も成せない、私のような欠陥品は。
 外に愛人でも作ってくれたほうがいっそ安心できると思った。
 ふいに見つめられたため、完璧な笑みを返して応じる。
 側に控えているメイドにバッグとコートを渡しながら、夫は廊下の奥に進む。
 後ろを歩く私は、声をかけられ、足をすくめた。
「ジュリア、今宵は共に飲め」
「はい」
 断ることを想定していない言い方に、内心苦々しい思いを抱く。
 アルコールは苦手で、弱い酒を少量でも吐き気をもよおしてしまう。
 影でメイドに介抱されているのを知りもしないのだ。
 自分のすることが全て正しいと信じている人に、言うことはできなかった。
 反論され罵られるに違いない。
 子供ができない体になったことを医師に告げられた時のように。
 食事の席でグラスを合わせ笑みを作る。
「私が留守でもイアンがいれば、寂しくないだろう? 」
「お忙しい合間に気にかけてくださいますから」
 ひらり、躱(かわ)す。夫の眼の奥は笑っていない気がした。
「明日は、一緒に仕事についてきてもらおうと思っている。
 メイドもいるし、構わないな? 」
「お帰りをお待ちしています」
 わざわざ、訪ねてくる辺り奇妙だ。
 露見しないよう上手くやってきたから、気づかれてはいないはず。
 内心、焦りを覚えるけれど、どうにか動揺を抑え、夫を見つめ返した。
 ワインの匂いが立ち込めるダイニングで、味のしない食事を続けることはとても苦痛だった。
 もう一度と願うイアンとの時間。
 彼は自分に与えられた部屋で書記仕事に勤しんでいるのだろう。
「あなた? 」
 ふいに立ち上がった夫がこちらに向かってくる。
 唖然としている内に唇を奪われ、ワインを流し込まれた。
 顎をつたい落ちる雫は、夫が舌でなぞる。
「んんっ……」
「いつの間にやら、感じやすくなったんだな? 」
 荒々しく舌が出入りする。
 ドレスの上から膨らみを掴んだ手が、無造作に動いて息をつめた。
 乱れた吐息は、夫が感じさせたものだと、背筋にしがみつく。
 イアンに愛されて変貌したことを気取られたら終わりだ。
 潤んだ視界の中、卑猥ないたずらを仕掛けた男はあっさりとダイニングを去っていく。
 口元に残るワインと、夫の残した熱。
 馴染みのメイドを呼ぶと水を持ってきてくれた。
「ありがとう」
 火照った頬に首筋、潤んだ目元に何が起きたのか察していても
 表情を使えず、平静で主に接する完璧なメイドだ。
 別のメイドは、初(うぶ)で眩しいくらいだが彼女は、熟練のメイドらしく隙もない。
「少し風に当たりたいのだけど」
「上着をお持ちしますが、早めに中へお入りになられますよう」
「わかってるわ」
 椅子から立ち上がるとふう、と息をつく。
 数分もしない内に戻ってきたメイドが、ふわりと肩にショールを掛けて去っていく。
 ダイニングから中庭へとつながる扉を開けて、歩みを進める。
 ガーデンテーブルに座ると、夜露に濡れる花を愛でる人影を見つけた。
 心が急き立てる。傍に行きたい。
 足をもつれさせながら走った先で、力強い腕に抱きとめられた時涙をこぼしていた。
「駄目ですよ……、見つかったら不味いでしょう」
「……大丈夫よ。あの人はもう寝ているわ」
「唇の色が、取れかかってますよ。また熱を差し上げますから」
 上唇を指が滑る。
「んっ……」
 駄目とか言っておいて、大胆に口づけてくる。
 色を失った唇は燃えるような赤に染まった。
 キスも、愛撫もあなた以外では、私に火を灯さない。
 夜闇に紛れ、月の光のないことに感謝した私は、長身の背中に腕を回した。
 もう一度じゃ、とどまれない欲をたきつけたひと。
 願わくば最期の瞬間を共にできますように。    





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