微熱
「37度2分か」
沙矢が頬を上気させているのを見て俺はおかしいと思った。
温度計を渡し熱を測らせたら案の定だ。
「馬鹿か。俺が迎えに行けない日に限って傘を忘れるなんて」
きつい口調になってしまうのは仕方が無い。
俺が遅くなる日は、沙矢はバスで帰るのだが、そんな日に限って妙な失態を侵すのだ。
俺が迎えに行ける日は傘など持たずとも、会社の真ん前に車をつけるから、問題は無いのだが。
「ごめんなさい」
しゅんとなった顔。きつかったかな。
沙矢の額に自分の額を当てて調べると、明らかに熱いのが分かる。
「お前が忘れ物をするなんて珍しいよな」
「……そうかも」
タオルで自分の髪を拭きながら、恥ずかしそうに笑う。
前髪から垂れた滴。濡れた髪は何故か色香を感じる。
沙矢は何一つそういうボケはしない。
忘れ物無いかと毎朝俺に尋ねるくらいだ。
「バス停に屋根が無いのも問題か……」
よく考えれば多くの人が利用するバス停に、雨を防ぐ為の屋根となるべき
ものがないのはおかしい。普通ベンチの上についてるだろ。
どこの貧乏バス会社だ。
「青、大げさだって。単なる微熱じゃ……くしゅん」
沙矢は可愛らしいくしゃみをした。ちゃんと両手で顔を覆っている。
「お前な、安易に考えるなよ。風邪は大病の元なんだから」
「あはは、青ってお父さんみたい」
誰がお父さんだ。
笑う沙矢に幾分呆れながら、
「さっさと風呂入って来い」
「は、はい!」
まるで子供のような元気な返事と共に沙矢は浴室へと走っていった。
シャワーの音が聞こえ始めたのを確認して、俺は浴室前の籠の中に着替えとタオルと置いた。
「ゆっくり温まれよ」
「うん」
釘を刺して、リビングに戻った。
ポケットの中の煙草に手を伸ばしかけて止める。
数本残った煙草の箱をゴミ箱へと投げ入れた。
代わりにテーブルの上のグラスに入っている飴玉の包みを開く。
沙矢が好きな苺ミルク味のキャンディー。
「甘い……」
三角形型のキャンディーを口の中に入れると甘さが広がった。
彼女は苺ミルクキャンディーが好きで、常に買い置きがテーブルの上にあった。
何となく洒落た感じがするからと、ワイングラスの中に入れておくのを提案したのは俺だ。
「のど飴より食べやすいかもな」
独りごちて口の中で転がした。
「青、熱い……の」
「な、お前!」
口調が荒くなってしまった。バスローブ姿で沙矢がリビングに現れたからだ。
「バスローブは体の湿気を取る機能があるからな、今は着てればいいんだが」
「……うん」
「ちゃんと後で着替えろよ」
目に毒だ。こんな風邪の時に邪な感情が騒ぎ出してはいけない。
もう既に大分やばいんだぞ。
風呂上りで、仄かに肌が色づいてるのだから。
「それより熱いって、お前大丈夫か?」
こつんと音がしたかもしれない。顔を近づけ有無を言わさず額をくっつけた。
「風呂なんて入らせるんじゃなかった」
熱が上がっているではないか。
「……お風呂上りで熱いだけよー」
にっこり微笑んでテーブルの椅子につく沙矢。
熱でどうかしてしまったのかもしれない。
「氷は冷蔵庫にあったな」
「さ、寝るぞ。明日は会社休め」
ふわりと抱かかえて沙矢の私室へと運ぶ。
滅多に使われなくなったベッドに、沙矢の体を横たえると上目遣いで見つめてきた。
「……どうしてここなの」
「俺まで風邪引いたら誰がお前の看病するんだ?今日だけ我慢して一人で寝てくれ。」
クスっと笑って優しく髪を撫でた。
抱き合わない夜もほとんど、同じ寝室で手を繋いで眠っていたからな。
「分かった」
寂しそうな眼差しの沙矢の頭をそっと撫でる。
「氷枕作ってくるからな」
言い置いてダイニングへと向かう。
酒を飲む用に大量に作ってある氷をザクザク、ビニールピローの中に入れてゆく。
そのチャックを閉じると、抱えた。さっき沙矢が使って同じ場所に置きっぱなしに
なっていた体温計も持って歩き出す。
ガチャリ。扉を開くと熱に浮かれた表情で宙を仰ぐ沙矢の姿があった。
「もう一回熱測ってみろ」
差し出すとゆらりと手が伸びてくる。
俺が目の前にいるのも構わず、沙矢はバスローブの襟を寛げて、温度計を脇の下に挟んだ。
はらり。肌蹴たバスローブから白い肌が露になる。
彼女が体を起こしているうちに氷枕を置いた。
見ていると、抑制が聞かなくなる自分を知っているから、沙矢に背を向けて扉を出てゆく。
「着替えろよ。それぐらい自分でできるだろ」
吐き捨てた言葉は、我ながら情けない響きを宿していた。
「また後で、来るから」
氷が溶けてしまう頃に。
「……うん。ありがとうね青」
それでも笑う健気な沙矢。
またくしゅんとくしゃみの音がした。
今日、どうして迎えに行ってやれなかったのかと悔やんでも始まりはしない。
早く治って欲しい。それが一番の願いだ。
「青……」
辛らつな言葉には深い愛情が含まれていて私は、今更ながら彼の優しさに感謝した。
遅くなるまで待っても迎えに来てもらえばよかったかな。
1、2時間くらい大したことない。
考えても時間は戻らない。
ピピピっと音が鳴って、温度計を脇の下から取り出すと、38度ジャストが表示されていた。
青の言った通り熱が上がっている。お風呂に入ったからだ。
「明日はゆっくり休もう」
頭の下に置かれた氷枕は冷たくて心地よい。
長い髪には微かに汗が貼り付いていた。
「着替えなきゃ」
ふらふらと立ち上がって、バスローブを床に脱ぎ捨てる。
クローゼットの引き出しから、パジャマを取り出す。
「何であんなに怒ってたの」
怒っているというよりかは戸惑っていたのか青は、バスローブ姿を見咎めて声を荒らげた。
クールな仮面の下の激しさを振りかざしていた。
「大体私のバスローブ姿なんて見飽きてるでしょうに」
何故か笑いが込み上げた。
パジャマを着終ると、ベッドに潜った。
一人で部屋にいることがどうしようもなく心細い。
すぐ近くに青はいるのに。
「青、青……っ」
頬の火照りとともに気持ちが燃え上がるように。
彼の名を、掠れ気味の声で呼んだ。
ピクりと体が反応する。
沙矢の私室から声が聞こえた。
慌てて走っていき、扉を開ける。
「沙矢」
火照った顔で乱れた息を紡ぎだす沙矢の姿がそこにはあった。
「ちゃんと着替えたみたいだな」
「ん。青、怖いし」
無理して笑顔を作る姿が痛々しい。
「何で俺の名を呼んだんだ?」
分かっているのに、問いかけるのは意地悪かな。
「……心細かった。あなたが側にいないのが寂しくて」
「ああ、もう分かったから。俺はここにいるから寝ろ」
言い聞かせて布団を掛け直す。
「青、もっと近くに来て」
掌を持ち上げて指先を宙で動かす。
熱があるためか掠れがちな声は妙に甘く艶めかしい。
「ここにいるじゃないか」
ベッドのすぐ側の床に跪いているのだ。
不安そうな沙矢の宙に伸ばされた指先を捕らえ、握り締める。
「もっと近くに……」
うわごとかと思ったが、意識ははっきりしている。
「これ以上近くにいけないだろ」
「こうやって」
ふわり。黒髪が、顔に触れた。
沙矢が首に腕を巻きつけて、その唇で俺の口を塞いだ。
「っ……」
不意打ちの行動すぎて言葉にならない。
「温かいでしょ」
「熱があるからだ」
今度は舌を絡めてくる。熱があるから余計高い温度を感じる。
俺は自らの舌も絡めて沙矢に応えた。
だが一瞬で離す。驚いた顔で、俺を見つめる沙矢。
「ねえ……一緒に寝て」
「妙に甘えてくるんだな」
クスクス。笑って、沙矢の体を横たえて、隣に寄り添って寝転がる。
ぎゅっと背を抱いてやると、身を捩った。
「そんなんじゃ物足りないわ」
瞬間、時が止まる。何言ってるんだ、沙矢。
「どうすればいい?」
沙矢の耳元で問いかける。本当に何を考えているのだろうか。
「どうして分かってくれないの」
強請る声に体が震えた気がした。
気づかないわけないだろう。俺だって堪えるのに必死だったのに、
お前はその努力を水泡に帰すつもりか。
「風邪引いてるんだぞ」
「いいの。あなたが欲しいの」
漏れる囁きを理性が咎める。
「沙矢……」
「あなたに抱かれないと眠れないわ」
「何でそんな俺を急き立てる事ばっかり言うんだ」
沙矢の体を反転させ、仰向けにした。
「嫌。私が熱を与えてあげるんだから」
火照って赤くなった表情の沙矢が起き上がり、俺の足の間に足を絡めた。
一瞬何が起きたか理解できず、動きが止まってしまう。
瞬きしていると、沙矢が俺の衣服のボタンを外していた。
俺は仕返しとばかりに沙矢のパジャマを脱がせる。
下着を付けていなかった体は、すぐに生まれたままの姿になった。
心なしか汗ばんだ肌。濡れた様子を見ていられない。
「いいから」
俺のシャツを肌蹴させて、もどかしい仕草で、次はズボンに手を掛けようとしていた沙矢の腕を掴んだ。
沙矢はびくっと反応した。
「……ごめん」
明かりがつけっぱなしなのだ。
「やはりここじゃ駄目だな」
告げて立ち上がる。
部屋の入り口にあるスイッチをオフにする。
「沙矢」
名を呼んで抱き上げると潤んだ眼差しとぶつかった。
俺は一糸纏わぬ姿の沙矢を自分のシャツで包んで部屋を抜け出す。
廊下を突っ切って寝室の扉を開ける。
「ここでなければ自由に愛し合えないだろう?」
二人で眠るにも充分スペースがあるベッド。
愛し合って眠るにはぴったりだ。
明かりをつけなくても全ての物の配置を記憶している部屋。
ベッドサイドのライトもつけない。
「ん」
目を細めて沙矢はこくりと頷いた。
優しくシーツの中へ沙矢を横たえ、覆い被さった。
沙矢の手を握り締め、見下ろす。
「お前に攻められるのも嫌いじゃないけど、お前を攻める方がより好きなんだよ」
悪戯っぽく笑い、頬にキスを落す。やはり熱い。
「青らしいわ」
甘い声は俺を侵してゆく。
「だろう?」
「んん……っ」
強引に唇を割って舌をねじ込む。溶けそうなほど熱い舌に触れた。
「お前の熱なら分けてほしいからな」
本気か戯言か漏れてしまった言葉は喉の奥へは戻らない。
もう既に熱に浮かされているのかもしれないな。
口づけを交わす淫靡な音が部屋中に響き渡っている。
何度と無く舌を交差させて、唇を合わせた後、途方も無い時間啄ばむだけの口づけを交わす。
糸を引いた唾液を舐め取って、耳朶に舌を這わせた。
耳朶を甘噛みすると声にならない声が沙矢から上がる。びくんと大きく体が跳ねた。
汗ばんで肌に貼り付いた髪を避けて指先で首筋を撫でる。
指は首から鎖骨へと滑り落ちてゆく。
今ここにいる沙矢を確かめるように、高く音を立てる場所に触れた。
「あぁっ……ん」
耳の中に舌を差し込むと、沙矢は大きく反応を返した。
舌の先で耳の奥を突付いて、指は膨らみの頂点を弾く。
頂は既に硬く尖っていた。
指の腹で擦り上げ、掌で膨らみを揉みしだく。
耳から、鎖骨へと下りた唇がきつく痕を刻みだす。
熱のほてりとは別の赤い模様が花開いてゆく。
「はぁ……ん」
聳える頂を口に含み、舌で転がす。
舐め上げれば、頤を仰け反らせた。
指先は下降して行く。
わき腹の辺りを何度も往復し、すらりと伸びた足をゆっくりと撫でる。
両足にも口づけを啄ばむ。
足の先まで全部キスを落として、足を開く。
柔らかくなっている体に、腰を割り込ませる。
腕を伸ばして秘所に触れると、溢れんばかりに潤っていた。
頬に額に、唇に軽く口づけを啄ばんでは唇を離す。
シーツに腕をつくと、沙矢は背中に腕を回してきた。
視線を交わすと沙矢は頬を緩めた。
俺は沙矢に深い口づけを送りながら素早く自身の準備を終える。
「愛してるわ」
「愛してる」
吐息混じりの言葉は、確認を含んでいた。
ゆっくりと彼女の中へと身を沈ませる。
「……ああっ……青」
沙矢は俺の背筋に爪を立てて、啼き声を上げた。
きつく締まる沙矢の中で動く。
熱いそこは俺を余計に昂ぶらせた。
胸の膨らみを押し上げるように捏ねて、耳朶を噛む。
激しい前後運動を繰り返す。
「あああああああっ!!」
一際高い声が上がった。
意識が弾け飛びそうだった。いつも以上に感じて顔を歪ませている沙矢。
赤い頬が妙に艶めかしくて、煽られるままに彼女の中を行き来する。
激しい行為と熱で、彼女は気を失いかけていた。
沙矢の汗で濡れた体の上に汗が散る。
はあはあと苦しそうな息を繰り返している姿は痛々しいけれど、
どうしてか
余計惹きつけられてしまう。
これ以上無理をさせてはいけないと思いながら、
沙矢の中にいたいと思い、奥を貫く。
「沙矢……」
「せ、い」
ぐったりとシーツの海に沈んだ沙矢が、俺の肩先を必死で掴む。
俺は沙矢の顔を見て頷くと、もう一度強く腰を動かした。
「これで俺もお前と同じだ」
汗に塗れて呟いて、そっと出てゆく。
隣に横たわり、髪を撫で、背を抱きしめると汗と肌の匂いが鼻をついた。
俺の額からも汗が流れ落ち、沙矢の肩に落ちていた。
「だ、大丈夫?」
「……平気だ」
昨夜、傘を忘れ雨に濡れて風邪を引いてしまい、青が看病してくれたのだが、
どうやら彼に風邪をうつしてしまったらしい。
目覚めた時気だるかったけれど、それは風邪ではない別の気だるさで。
額を触ってみるともう熱はなく、ひんやりとしていた。
「本当に熱をあげちゃったみたいね」
笑えない冗談だった。
元はといえば青がこうなってしまったのは私の責任だ。
氷枕は頭が痛くなるから嫌なんだと言い張る青の額には冷したタオルを置いている。
少し温くなってきているからすぐに取り替えなければならないだろう。
汗をかいていて苦しそうだったから、青の服のボタンを緩める。
「……ありがとう」
衣服の上に置かれた私の手を握って、青は小さく笑う。
「ううん」
抱かれたいとせがんでしまった。包み込んでいてほしかった。
後のことなんて頭になかった。
「あ、待ってて」
ダイニングに走ってゆく。
テーブルの上に常備されてるあれを持って来よう。
ワイングラスの中にある飴の包みをひとつ取り出して寝室に戻った。
「青、これ食べる?甘いから喉に優しいと思うわ」
「食べる」
青の言葉を聞いて、包みを開ける。
「口移しで食べさせてくれるんだろ」
ニヤリと笑みを刻んだような。
「青ったら」
しょうがないわね。
と飴を自分の口の中へ放り込み、青の唇まで運んだ。
青の唇は驚くくらい熱を持ってて、ドキドキしてしまう。
私ってば変。彼は風邪を引いて熱を出してるのに。
呆然としていると腕を引かれ、青の上に倒れこんでしまった。
「きゃ」
「責任とって一緒にいてくれよ」
うわ。今の、反則。目も合わせられない。
「うん。ただしいるだけよ」
「オーケー」
「普通に食べるよりお前の口から食べた方が美味しいな」
余計に甘くてさ。
「な……。熱あるのに口だけは元気ね」
青の髪に指を絡め、撫でた。
汗をかいていても、綺麗でしっとりとしている。
「青に風邪うつしちゃった」
声のトーンが下がる。
私の肩を抱きしめながら、青はこう言った。
「気にするな。俺はお前に看病してもらえるんだし。
それに……滅多に無い経験ができてよかったよ」
「熱に浮かされるってああいうことをいうのね」
「そうだな」
いつもにも増して低い声の青。
しゃがれた声も男っぽくていいかもなんて思ってしまった。
「側にいるから寝て」
「ああ」
青は瞳を閉じた。
自分の熱は下がったが彼の看病で結局、会社を休んでしまった。
青が遠慮しようとも私はついていてあげたいと思ったから。
寝息を立て始めた青を見つめて、私も瞳を閉じた。
「自業自得の二人にはつける薬はなさそうね」
寄り添い眠り目覚めた時は、青の熱が冷めて元気になっていますように。
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