ばしゃりと顔を洗いながら、彼を思い浮かべた。
あの夜は鮮明に今でも思い出すことができる。
後悔しても無駄だからしない。
誰に何と言われようが構わない。
自分で自分を罵るのは止められないけど。
だって、彼を本気で愛してしまった。
普通じゃ考えられないおかしな始まり。
あれは4月の終わり頃だった。
会えないこととは裏腹に、日に日に彼が心を占める割合が大きくなっている。
きっと二度と会えないかも知れない人なのに。
彼からしたら私なんてほんの子どもに過ぎなくて、
手に入れるのは赤子の手を捻るくらい簡単だったんだわ。
でも何でこんな子どもの私を彼は……。
あの人は女性の扱いにひどく慣れている。
一度きりの夜でそれを理解してしまった。
私の心に消えない面影を刻みつけて。
忘れようと思うほど想いは募るばかり。
だったらいっそのこと忘れずにいよう。
無理に考えまいとすると他に影響してしまう。
心の中に思い出として封じこめておくの。
もっとちゃんと恋をしたい。
あの人の影を消せる人はいるのだろうか……。
鏡に映った自分の顔。
やっぱり幼い感じがする。
化粧をするといささかましになるけれど。
バタンと部屋の扉を閉めて鍵をかけた。
走り出す。
ヒールのかかとを直して、バス停へ。
腕に嵌めた時計がカチカチと鳴っている。
時計を見ながら、バスを待つ。
この場所から乗るのは私しかいない。
頭の中に過ぎる彼のことを消そうと、空を見上げる。
暫くぼんやりと眺めやっていた。
すっきりと晴れている空もいつ雨に変わるか分からない。
バッグの中の折り畳み傘を確認して、ほっと息をつく。
バスがやって来る気配がした。
私が、手を上げるとバスが止まる。
乗こんだ車内の一番奥の席に座った。
走り出すバスに揺られてながら、窓の景色を見つめる
考えてはいけない事を掻き消そうと、小さく首を降った。
意地悪……。
早く私の世界からいなくなって。
お願い。
今日も無事一日を終えることができた。
伸びをして椅子から立ち上がると、
壁の時計は18時を指している。
ロッカールームへと立ち寄り、自分のロッカーから鞄を取り出す。
それを手に持つと会社を出た。
仕事が終った後。
バスが来るのは30分後なのでいつも本屋で時間を潰してバスを待っていた。
たくさんの人でごった返している店の中を奥の方へと歩いてゆく。
きょろきょろと視線を彷徨わせ、本を探す。
……あった。
買おうと思っていた本を見つけた。
あんな高い場所にあるなんて届かないわ……。
そんなに背小さい方でもないんだけどさすがにあれは。
店員さんに取ってもらおうか。
ちょっと恥ずかしいかな。
躊躇した私は、手を伸ばしてみた。
もしかしたら届くかもしれないじゃない。
必死に背伸びして本を掴もうとした。
くらり。
体が傾ぐ。
やっぱり届かない。
その時、ふいに横から手が伸びた。
すっと差し出されて戸惑う。
「これでいいのか? 」
この声!?
嘘……どうして。
こんな所で会ってしまうなんて。
あの印象的な声を忘れるはずもない。
「……やっぱりいいです。取って頂いたのにごめんなさい」
俯き加減になりながら、彼に本を強引に押し返す。
彼は無表情でただこちらの様子を伺っていた。
端正すぎる顔だから余計冷たく見える。
動揺してしまう。
思い出から脱出したあの人がそこにいたのだ。
私は駆け出した。
早くこの場から立ち去りたかった。
走って店から出て行く客なんて怪しまれたに違いないけど。
冷静に考える余裕なんてなかった。
ここから逃げること以外頭になかった。
走って本屋から出た私は見知らぬ道へと迷い込んでいた。
どこをどう来たのかさえ分からない。
どうしよう。夢中だったから……。
私は途方に暮れた。
とぼとぼと歩き出す。
もう走る気になれなかった。
ぼうっと歩いていると、軽い誘いが耳を掠める。
無理矢理腕を引かれたりした。
怖い……。
「や……やめてください」
何とか手を振り払う。
また走り出す。
ヒールで走ると余計足が痛かった。
いちいち動揺して逃げたからこんなことになったのだ。
バカな自分を恨めしく思う。
涙なんて出てもないけれど妙な虚しさが心に降り積もる。
逃げたりしなければ……。
どうしようもない気持ちになりながら、何とか明るい場所まで
出た私は、とぼとぼとバス停へと向かった。
乗るはずのバスは出てしまい、次を待たなければ
帰ることが出来ない。
振り返ると時計は、7時30分を差していた。
手のひらに滴が落ちてきて、次は肩を濡らした。
「……雨」
慌ててバッグから取り出した折り畳み傘を開いた。
こんな暗い雨の中、ベンチに座っているのは私一人だったが、
他にも立ったまま数人バスを待っている人がいて何だかホッとする。
本買えなかったな。
また明日の帰りに買えばいいけど。
バッグを抱えて座り込む。
座ってバスを待つ人は他にはいなくて、一人座っている
私が何だか目立ってるみたい。
何故か笑ってしまう。
他の人から見ても疲れきっているのが分かるだろう。
湿気のせいで蒸し暑く余計にだるかった。
早く帰りたい。
肘をついて、車の流れを見つめる。
クラクションが高い音を鳴らして、止まった。
私の目の前で。
誰かを迎えに来たのかな。
ぼうっとそんなことを考える。
「乗れよ」
低い声と共に助手席のドアが開いた。
白々しかったがあたりを見回す。
誰も関係ないのか、こちらに反応している人はいなかった。
「え……」
彼は煙草を咥え、ハンドルを握っている。
戸惑った。
乗っていいわけがない。
これは罠に決まってる。
極上すぎる罠なのは身に染みている。
けれどこんな様子でいたらおかしい。
周囲の視線が次第に集まってきているのだ。
それに……。
「ありがとう」
私は片道しかない切符を手に彼の車に乗り込んだ。
どうなっても私には何も言えない。
カタカタと震える体を抱きしめる。
怖くはないけどでも……。
「何か疲れ切ってる感じだった。それに雨も降り出してきたしな。
実は本屋で気付いてたんだが、声をかける前に走っていったから」
逃げなければって思ったのよ。
捕まっちゃうもの。
「……あの日からあなたの事を一度も忘れたことなんてない」
口が苦味を帯びる。
ルームミラー越しに彼がわたしを見た。
「馬鹿だな」
「忘れられるわけ……ないじゃない」
声が震え途切れ途切れになる。
涙がじわりと瞳に溜まってゆく。
「どうしてあんなことしたの! 」
泣き叫ぶ。
「あなたにとっては簡単なことなんでしょ。
こんな世間知らずな子供を手に入れるくらい」
自分で言っていてみじめになった。
「私なんかのどこが良かったの? 私なんかじゃなくても
大人で綺麗な女の人なんてたくさんいるでしょ」
あなたなら手に入れられるでしょう。
私はどんな言葉が欲しいの?
自分だって拒まなかったのに、彼を責める権利なんて。
寂しくて寂しくて、誰かに側にいて欲しい気持ちと、
退屈な現実から引きずり出してほしい気持ちが
あったのではなかったか。
何て身勝手で子供っぽい。
自嘲的な気分になる。
「欲しいと思った」
「無性にお前が欲しかったんだ。
階下で目が合ったあの時、俺の心はかき乱された。
瞬時にがんじがらめにされたんだ。」
「……嘘よ」
「誰でも良かったんでしょ? 」
「お前だから欲しいと思った。信じてくれなくてもいいが」
最後が投げやりに聞こえたが、声音が真摯だった。
信じてしまいそう。
「……本当? 」
「ああ」
涙が後から後から零れ落ちる。
胸が熱くて仕方ない。
まだ信じちゃいけない段階なのに……酔わされる。
甘い言葉を簡単に信じてしまう。
彼だからなのかもしれない。
堕ちていく。
加速する心と同時に、車がスピードを上げる。
強がりなんて何の歯止めにもならないことが分かった。
「怖かったの」
今、私は彼が定宿にしているホテルの部屋にいる。
家へ帰らなければいけないと、言ったのだが、
聞き入れてもらえず連れて来られてしまった。
心配してくれたのもあるのだろう。
元々私も車に乗ってしまったのだけれど。
私は何を不安に思っているのか。
嫌ではない。
こうなってよかったと思っている。
引き返せなくなることが分かって怖いだけ。
私は彼に本屋を出た後のことについてぽつぽつと語った。
肩を震わせて泣き出した私を見て、『慰めて欲しい』
勝手に彼はそう解釈したのだろう。
気分よくなるからと備え付けの冷蔵庫から、お茶を取り出し、グラスに注いでくれる。
優しいんだ。
これじゃあ簡単に懐柔されてしまう。
「それもこれも俺が原因か」
彼は煙草を口に咥え、火をつける。
「ごめんなさい、そんなつもりじゃ」
いくらなんでも彼を見て逃げたなんて私は
酷いことを。やっぱり子供だ。
「冗談だよ。辛かったな」
彼は頭を撫でてくれた。
柔らかい仕草に安心する。
「今夜は側にいてやるよ」
そのつもりで連れて来てくれたんでしょ?
「お風呂入ってもいい? 汗で気持ち悪くて」
隣に座る彼を見つめる。
「ゆっくり入れよ」
彼は淡く微笑んで、口づけを落とした。
「うん」
お風呂を使わせてもらった。
大胆なこと言っちゃったかな。
湯船に浸かり、明日どうしようかと考える。
送ってくれるかしら。
温かいお湯に疲れが癒されてゆくのを感じながら、
ああ明日が休みでよかったと単純に思った。
カチャリ。
彼が用意してくれたのか、バスタオルがさりげなく置いてあった。
髪を拭くための物と2枚。
髪を拭いていると、鏡に自分の姿が映る。
赤い痕の消えた白い体。
顔とアンバランスだと友達にも言われるけれど、
……どういう意味?
そっか。もしかしなくても彼はこれが欲しいんだ。
ははは。よかった彼に気に入ってもらえるもの
持ってるじゃない……。
乾いた笑いを浮かべる。
髪を拭き終えたら、体にタオルを巻きつけ部屋へと戻った。
「あなたは? 」
「今朝入ったからな。いいんだ」
煙草の匂いに混じったコロンの香り。
あれ、さっきは気づかなかったのに。
甘くて苦い香りに惑わされてしまう。
色っぽくこちらを見つめる彼と見つめ合う。
刺激という渦の中に吸い込まれる。
彼に誘われ、私の世界が色を失くす。
優しく重ねられた口づけ。
それきり、瞳を閉じた。
床に落ちたバスタオルの音。
折り重なるようにベッドの中へと沈む。
エアコンが効いた室内に別の熱気が籠もるのはすぐだろう。
窓をたたく雨音が、微かに耳に届いた。
私は彼の肩に腕を回し、啼く。
寂しさを埋めてくれる彼。
瞳から零れ落ちる涙が止まらない。
体全部が熱い……。
どこまでも彼を感じている。
お互い求めているものが別であったとしても、いいの。
こうして寂しさを重ね合わせることができることが、
何よりも幸せなことだから。
時計の音がやけにリアルに響く。
今だけ、聞こえなくなればいい。
粉々に砕いても時間の理がなくなることはない。
手で耳を塞げない代わりに首を振る。
怪訝な顔で彼が、私を凝視した。
どうかしたのかとでも言いたげな顔。
「時計の音を聞きたくないの」
彼はくすりと笑い、
「俺だけ感じていればそれでいい」
傲慢に告げた。
私は答えの代わりに微笑んだ。
愛情で私を包んでくれてるわけはないのに、
どうしてこんなに温かいの?
彼の温度は何故。
愛してくれてると希望持ってもいいのかな。
たとえこのひとときだけだとしても。
今はそんなことどうでもいい。
こんなにも満たされているんだもの。
首筋をたどる唇も、肌を辿る長い指にもときめいてしまう。
色んな女性を知っているであろう彼は、
慣れた仕草で私を翻弄する。
夢の中でまどろむ。
否、夢か現か分からなくなっていた。
私を現実に引き戻したのは、彼の呟き。
「……り」
掠れた小さな声だったから、ちゃんと聞き取れなかったけれど、
それで良かったと思った。
怖い……。
ぎゅっと彼にしがみ付いた。
こんなに温もりを感じていても、すごく辛い。
お願い。朝なんて来ないで!
甘い時間に酔わされていても、別のところで不安が巻き起こる。
しがみつくと抱き寄せられた。
青は、狂おしい表情で私を力強く抱く。
今だけ、酔いしれさせて。
朝が来るまででいいから
眩しい朝の光。
いつもと違うのは、誰かの腕の中だということ。
それに煙草の紫煙もぼやけた視界に映っている。
気だるい気分のままに、体を起こす。
痛みはないけれど力が出ない。
いたる所に無数に刻まれた赤い印がうっすらと浮かんでいて、
ゆうべの出来事をまざまざと思い出させる。
途端に顔が赤くなった。
「……はずかしい」
両手で頬を押さえる。
「何を今更」
冷たい一瞥が浴びせられた。
やはり、彼は起きていた。
「だって……」
「可愛かった」
「……! 」
ぼっと顔に火が灯る。
「嬉しいけどそんなこと言われると……」
ドキドキする。
「また会えるか? 」
「私は会いたいけど」
「俺は、ちょっと厄介な仕事をしてるから、
そんなにしょっちゅう暇なんてできない。
それでもよかったらまた会おう」
「会えるなら待つわ」
胸が微かな痛みを訴えた。
また彼の呟きを聞いてしまうのはとっても怖いけど、
……会えるんだからいい。
にっこりと彼に笑いかけた。
優しく髪を梳いてくれる手は、
まるで本当の恋人みたい。
ふと髪を梳いていた手が止まる。
がさごそと床に置かれた袋を探ろうと手を伸ばした。
私は彼をそっと見つめる。
彼は袋から箱を取り出す。
と思ったら、髪の毛を掻き分ける。
首筋にひんやりとした手が触れた。
「……青? 」
次の瞬間、耳たぶがチクリとした。
左右の耳交互に同じ感覚。
「似合ってる」
指先でピアスを揺らして彼は笑った。
「え……あ、ありがとう」
「いつか落としてしまったからな、そのお詫びも兼ねて」
至近距離にいる彼の吐息が頬を撫ぜる。
また胸が高鳴った。
真紅の石がついたピアス。
こんな大人っぽい物をくれたことに嬉しくなった。
「別に無理することないんじゃないか。そのままで充分だと思うぞ」
全て見抜かれていた。
「……でも」
「外見だけ取り繕ってもな」
彼は大人だ。
たとえどんな人だとしても。
「もう無理しない。そのままの私でいる」
「そうだな」
とろけるような微笑にうっとりとしてしまう。
「送っていってやるから準備しろ」
「わかった」
朝来ちゃったんだ。
ちょっと悲しいな。
甘えることは許されないから、このまま従うしかない。
いつか一言「帰りたくない」なんてわがままいってみたいな。
冷たく突き放されるかしら。
それでもいいから、言ってみたい。
ノーでもイエスでも彼の答えが聞ければ。
私は、肌に移った彼のコロンの香りを
確かめるように、自らを掻き抱いた。
髪をくすぐる煙草の苦い匂いと、肌から香る甘いコロン。
彼と一緒に過ごしたことを実感した。
名残惜しいけれど、急いで衣服を身に纏う。
耳元で揺れるピアスに指で触れる。
ドアの前で髪を掻き上げる彼。
私は衣服を整えて走ってゆく。
次の約束の日はいつだろう。
待ち遠しくてたまらない。
ちゃんと彼は避妊してくれるから、安心してゆだねられるけれど、
もっと彼を感じたいって思う。
体の先に見える心を、私はきっと求めている。
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