Touch and go
女性だ。何故かちょっと、ドキドキしてきた。
低くもなければ高くもなくちょうどいいバランス。
まさしく女性って雰囲気の声。
青は無表情で、再び受話器を耳元に当てた。
「いや、別に。用もないのなら掛けて来ないでくれないか。
番号は……義兄さんにでも聞いたのか」
「まあね。彼が教えてくれないわけないでしょ」
「先日は留守中にお邪魔しました。
特に用はなかったのですぐにお暇しましたのでご安心を」
しれっと青は言う。親しげなのによそよそしい変な話し方だ。
「久しぶりに会って慇懃無礼な態度を目の前で見たかったわよ。
何で待っててくれなかったのよ」
青が聞いてもいいと側に呼ぶので、罪悪感を覚えて、首を振ったが
お前にも関係ある相手だよ? と意味深に笑うので興味がわいた。
おにいさんって出てきたから想像が確かなら。
青はしょうがないなと頬をつねった。
どうやら、私は喜色満面の顔をしていたらしい。
だって、青に対して物凄い毒舌なんだもの。
「空いた時間に寄らせてもらっただけだ。
用があるなら事前に連絡しといてくれれば、考えるが」
「大学病院の居心地がいいのも分かるけど……、
約束は忘れてないんでしょうね。
お父様も、陽も青に期待しているのよ」
青が息を吸い込んで吐いた。
表情は変らないけれど、少し緊張している風にも見える。
親しい目上の女性。
青に対してこんな風に口が聞ける人は限られるだろう。
「ちゃんと覚えているよ」
「私も信じてるけど、音沙汰ないから心配なんじゃない」
「ああ……、近々顔を出すよ」
「分かったわ。またね」
通話を終了した後、青は私の腕を掴んで引き寄せた。
彼の腕の中に閉じ込められ頭を抱かれる。
膝の上に乗せられて間近で見つめ合う。
とくん、とくんと鳴り響く鼓動は少し早くて、さっきの私みたいだ。
20センチあまり身長差があるから、胸元に頭がことんと収まる。
ふ、と頭を持ち上げて見上げたけれど、青の表情から気持ちは読めなかった。
肩に回された腕。窮屈な椅子の上に二人でいる。
こんなことができるのも今だから。
そっと頭を撫でてみる。
時折深く考え込むけど、こんな風に甘える彼を見るのは初めてだった。
不安も全部包んであげたい。消し去る事はできなくても側にいるから。
私を優しく苛める彼の方がよほどいい。
椅子が軋んで、ぎしりと鳴った。
「……話せなかったらいいんだけど」
逡巡を飲み込んで、ようやくそれだけ口に出せた。
「自由を選ぶには、責任が伴うらしい」
顔を上げた彼は、自嘲の笑みを刻んでいた。
「大丈夫だ。ありがとう。お前がいてくれるから
俺は俺でいられるよ」
自然と唇が重なる。
甘い余韻を残すキスに瞳が潤んだ。
分かりやすい態度を見せてくれることが、
私がどんなに嬉しがっているかあなたは知らないでしょう。
きゅ、と抱きついて見上げて小さく笑ったら彼は笑い返してくれた。
ぽん、と頭に手を置いて囁く。
「誕生日のお祝い何がいい? 」
「だから、それは……」
何度も言えない。
直に抱かれて、感じあいたい。それだけ。
耳たぶをぺろりと舐められて、もうと彼の胸を叩く。
「お前の口からもう一回はっきり聞かせろよ」
挑戦的に口の端を歪める姿に怯む。
瞬時に復活した彼は、容赦がない。
意地悪な方がいいだなんて、私がおかしいのよ。
頬を掠める息に、降参の白旗をあげる。
「生身のままに抱いて、もっと近くで感じさせて?
それが、私にとって最上級のプレゼントなの」
「検査の結果が出てからだ。
直じゃなくてもお前を愛していることに変わりはない」
恥ずかしいから、俯く。目を伏せて頭を振る。
彼は微笑みを返してくれるばかりだ。
繋いだ手の温かさが心地よくて、何気ないことが幸せに繋がるんだと思った。
「他にはいらないの。ずっと夢だったんだもの」
両手を彼の頬に寄せる。
掠める程度のキスを頬に落として、はにかんだ。
「今日仕事が終わったらデートしようか」
こくん、と頷いたら、いきなり青は私を抱えたまま立ち上がった。
部屋へ送り届けてくれた。甘やかしすぎ!
今までとのギャップに、慣れない。
「さあ、支度して来いよ。パジャマ姿をずっと堪能していたいけどそうもいかない」
お互いの部屋で、着替えて廊下で対面する。
二人して玄関まで行きかけたところで、
「食器洗ってないわ」
はっと思い出した。
帰ってから、汚れた食器がそのまま残っていたら、余計に疲れる。
部屋が散らかったまま出かけるのも同じだ。
あの、うんざりした気分は何物にも例えられない。
「帰ってからでいいだろ」
「そういうのよくないの。車で待っててね」
「何考えてるか当ててやろうか? 」
告げると彼はあっさりと了承してくれ、ひらひらと軽く手を振った。
ダイニングキッチンに引き返す。
洗い物をしている時も上の空で、彼の抱えている事情や
電話の女性について考えていた。
あんな口を聞けるのだ。身内なのだろう。
近い内に彼が話してくれるまでは、気にしないようにしよう。
想像に蓋をする。
エレベーターに乗る。
車の前まで行くと青がドアを開けてくれた。
「お待たせ」
助手席に身を滑り込ませると、青も運転席に乗り込む。
発進する準備を整えて、車はゆっくりと走り出した。
「あの、前から聞こうと思ってたの! 」
ぐっ、と拳を握り締める。
「どうぞ」
「免許持っていない私が言うのもどうかと思うんだけど、
むかっとしたりしないで聞いてね」
「しないよ」
涼しい声に、ほっとする。
青はそれくらいで、嫌な気分になったりしないよね……。
「もしかしてルームミラーを私の顔がよく見えるように調節してない」
「ああ」
即答され、うっと詰まった。
「安全確認は、お前のことも含んでるんだ。
その為の絶妙な角度にしている」
もっともらしいことを言われ納得しかけたがおかしい気がする。
「そうなの……って、私大人しく車に乗ってるから。
間違えても窓から身を乗り出したりしないもの」
「どうだか」
「……くっ」
本格的な虐めに入ったのかしら。
膝に手を置いて、ちら、と横に目をやり窺えば、目元だけ笑っている彼氏様が。
真剣な表情で車を運転している青を邪魔してはいけない……でも。
その瞬間、窓から見えた風景に釘づけになった。
急いで窓を全開にする。
道が混んでいるので、車のスピードも緩やかだ。
「素敵! 」
窓から外を見たら、若いお父さんと男の子の親子連れが、
仲よさそうに手を繋いで歩いていた。
お父さんはスーツ姿で、男の子は幼稚園かばんを肩に掛け帽子を被っている。
微笑ましくて心がほかほか暖かくなる。
三回軽くブレーキを踏んだ後車が停止した。
信号は赤だ。
あろうことか、窓に体を寄せて手を振っている自分。
長い腕が腰に回されている。
青の綺麗な顔が間近にあって、心臓が大げさに飛び跳ねる。
ふいを突かれ心の準備が、できてなかった。
「……沙矢、お前何を見ていた? 」
普段よりも低い声にドキッとする。
「幼稚園くらいの男の子がお父さんと一緒に歩いてたの。
何だかいいなあって」
にっこり、笑む私の肩に腕が回されている。
窓が閉じられていく。運転席のドアにあるスイッチを押したのだ。
深く息をつく音がした。危機感を覚え顔を傾ける。
「んん……っふ」
いきなり唇をこじ開けられ、舌が口内で暴れた。
キスの応酬は信号が変わるまで続いた。
動き回る舌が、官能を刺激して、膨らみの頂点がしびれて固くなる。
「ぷ……は……ぁ」
ようやく解放されたときには、頭がぼんやりとし視界が潤んでいた。
くったりと崩れる体を長い腕がシートに横たえる。
ちゃんと、倒してくれている。すばらしいサービス精神だ。
「確認しておくが、俺以外の男を見ていないだろうな? 」
「へっ……私が見てたのはパパとちびっ子が一緒に歩いている光景よ」
「子供が、そんなに好きなのか? 」
「そうね。好きよ。可愛いもの」
子供も、動物も大好きだ。
「欲しいなら、作ってやろうか? 」
「な、何言ってるの!? 」
お料理じゃないんだから。
彼は私が赤面し、動揺する様を見て楽しんでいるみたいだ。
「お前との子供ならさぞかし可愛いんだろうな。
一緒に暮らし始めたんだから次は、籍を入れなければな」
「……気が早いわね」
「いずれ近い将来に訪れる出来事だよ。お前を側で守れる立場を得られる」
「う、うん」
ギアに置かれた手のひら。
薬指がそっと私の指に絡められて熱を帯びた。
会社にたどり着くと、椅子に座って今日の確認をする。
気を引き締めて、頑張ろう。
朝が長かった気もするが、起きてから青と過ごした時間は一時間と少しだ。
それだけ濃厚だったのだ。平日に相応しくなかったと反省する。
頬を叩いて、深呼吸する。
今日の業務が終えたら、ロビーで待ち合わせるのだ。
『お前が落ちて来た階段の下でもいいけど』
こんな冗談も交わせるようになったのが、おかしい。
まさか彼の隣りで過ごすのが当たり前になるなんて。
『ううん。目立つじゃない。ロビーにいるわよ』
車を降りる前に交わした会話は、普通の恋人同士そのものだった。
青を待つ。
いつかのような不安を伴わなくて、待つ時間も嫌いじゃないと感じていた。
携帯の着信の後、颯爽と彼が現れて、笑顔を向ける。
駆け足で、側に寄って一緒に、会社の玄関から外に出る。
家へ帰るまでの短い時間でも、どこかへ出かける高揚感は疲れを忘れさせてくれた。
青に連れられて、訪れたのはジュエリーショップだった。
エスコートされ扉をくぐると馴染みのお店なのか、
青の顔を見て店員さんがすっ飛んでくる。
「婚約指輪でもお探しでしょうか。おすすめは」
青は案内しようとした店員の男性をさりげなく制してにこやかに微笑んだ。
「近い内にそういう機会もあるかもしれませんが、
今日は予行演習といったところです」
予行演習なんだ。
腰を抱かれて店内を歩く。
公衆の面前でいちゃいちゃするのは、やはり恥ずかしい。
当の本人は、まったく気にしてない様子で、ちょっと恨めしい。
「誕生日のプレゼント、本当に何もいらないのか。
俺にはチョーカーくれただろ。お前ももらったけど」
最後の所小声でぼそっと言わないでください。
その時可愛らしい時計に目を奪われた。
ラインストーンがきらきらとしていて綺麗なのに、さりげない感じがした。
値段を見て、うわっと目をそらす。
こういうのは、身に着けた自分を想像して諦めるのだ。
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