ハンター



大きなオーブンは何度見ても感動する。
 小さなオーブンレンジしか持ってなかったから、憧れだった。
 ガスオーブンなんて、テレビでしか見たことなかったもの。
 ヴァレンタイン当日までにチョコを買ってきて準備も万端だ。
 チョコをまずレンジにかけて溶かす。
 とかしたチョコを固めて、そのまま渡すのでは芸がないかなと 思い、ケーキの生地にした。
 チョコレートに甘みがあるので砂糖は入れない。
 青も甘すぎるのは苦手だろうし。
 ヴァレンタインの時期まで一緒にいるなんて思いもよらなかった。
 しかも現在は同棲している。
 どんなのが喜んでもらえるかなと考えた結果、シンプルなチョコレートケーキにした。
 いっぱいもらってきたんだろうなとふと考えてぶるぶる首を振った。
(慣れてるのはしょうがないのよ) 
 一つ一つの作業を丁寧に進めていく。
 べたかもしれないが、ハートの型で焼いた。
「……よし」
 焼けた生地の粗熱が取れたら冷蔵庫で冷やして完成だ。
 今、青は愛車を手入れしている。
 もうすぐお別れということで、丹念に磨き上げているようだ。
 一人でこっそり作っているからばれていないだろう。
 一人にしてほしいと部屋から追い出したことで
 変に思われたかもしれないけど。
   

 愛車を手入れしながら、さっきの沙矢を思い出していた。
 何故あんなに可愛らしいのだろう。
 はにかみながら、
『やりたいことがあるから一人にさせてほしいの』
 だなんて、分かりやす過ぎる。
 俺は目元を緩ませて頷いていた。
 楽しそうにリビングから駈けて行った彼女に期待を抱いた。
 本当は、何か物が欲しいわけじゃない。
 二人で過ごせれば十分だと思っていたが、
 彼女が、特別の日に演出してくれるのが嬉しくないはずがない。
 同棲を始めて一ケ月あまり。
 毎日彼女と会い、眠ることができる幸せをかみしめていた。
(もちろん、眠るだけじゃない日もある)
 思い描く度にかき消していた日々がここにある。
 真実の想いを告げてそのまま共に暮らし始めたことで、
 見えなかったものが徐々に見え始めている。
 共に暮らさずに付き合っていくという選択肢は端からなかった。
 心だけじゃなく現実的な距離も失くしてしまうことをお互いに望んでいたはずだ。
 明るい笑顔を見ると気を張っていたんだなと、胸が痛む。
 大人びているように感じていたが無邪気な様子はやはり年相応に見える。
 沙矢は先日、ようやく20歳を迎えたばかり。
     初めて抱いたあの日はまだ19歳だった。
     彼女が俺の前で素を見せられるようになってきたのは喜ばしいことだ。
     きっとそれは自分自身が変われたから。
 嫌うはずもなかったのに、俺の態度ゆえに分からなかったのだろう。
 これからは、もっと自由に振舞う姿を見たい。
 磨き切った車のボンネットを撫でる。
(この車とももう少ししたらお別れだ。
 気づけば沙矢との想い出ばかり多くなっていた。
 新しい車は数ヵ月後には納車される。色は赤と指定した。
 念願の車を手に入れる。少し狭いだろうか)
 邪な想像をした。
 狭いことを気にするなら、スポーツカーなんて選ぶべきではないが、好きなのだからしょうがない。
 エレベーターで自分の家の階に上がると、チャイムを鳴らした。
 階下にもチャイムがあるが、どうせすぐ着く為、
 まどろっこしいのでいつも部屋の前で鳴らしている。
 
  
 モニターには青が映っていた。
「はーい」
 ドアを開けると、涼しげな顔で彼が入ってくる。
「お疲れさま」
 にこっと笑えば、いきなり手に触れられる。
 両手で包みこまれてどきりとした。
「寒かったの? 部屋温めてあるから」
「良いにおいだな」
「えっ……」
 手の甲をかがけて口づけると、ぼうっとしたままの私を置いて、青は中へ進む。
(まだ仕上げが残っているのよ)
 走って、青の前に回り込むと両腕を広げた。
「リビングで待っててね」
 興味深い目で見つめてくる彼の背中を押してソファに誘導し、早足でダイニングに戻ると、
 チョコレートケーキと、ホイップした生クリームを取りだし飾り付けた。
 切り分けず、ホールのままリビングに運んだ。
「あ、あのね……チョコレートケーキ作ったの」
 そろりと窺うように青を見た。
 フルーツのケーキは作ったことはあるが、チョコレートのケーキは初めてで、
 しかもヴァレンタインだから、より緊張する。
 紅潮する頬を押さえて、すーはーと深呼吸する。
 トレイから下ろしてテーブルの上にケーキの皿を置いた。
 ティーポットも隣りに置く。
「……食べていいか」
「ど、どうぞ」
 慌ててケーキ用のナイフで切ろうとしたが、手で制され、
「俺が切ろう」
 均等に切り分けてくれた。
 ひょっとしたら慌てているのに気づかれたのかもしれなかった。
「ちょっと大きかったかな」
「……夕食を控えめにした方がいいかもな」
 二切れずつ食べたらお腹も膨れてしまう。
「本当はこのまま鑑賞していたいくらいだけど」
「食べていいのよ?」
「じゃあお前が食べさせてくれ」
 瞳が嬉々と輝いている。
「青が望むなら」
 にっこりほほ笑んだのに、何故か青の瞳は魔性の輝きを宿し始めた。
「こちらの気も知らずに無邪気に惑わせやがって……」
 くくっと喉で笑われてびくっとする。
「……何か変なこと言った?」
「いや別に。本当にお前は可愛いなって」
 意味深に聞こえて首をかしげる。
「じゃあ食べさせてくれよ?」
 青が自分の持っているフォークを私に握らせた。
 こくりと頷いて、青の口へとケーキを運ぶ。
「……っ」
 フォークどころか指ごと食べられて、心臓が跳ねる。
 指からクリームの甘さが伝わってきた。
 最後にぺろりと舌で舐められ、背筋がぞくっとした。
「なにするの……」
「美味い」
 指まで食べて、ぺろりと唇を舐めた青の表情を見て心臓がばくばくしてしまった。
 いちいち妖しいんだから。
 ソファに腰を下ろすと、腕が触れてどきっとした。
 ささっとよけると、横から見つめられてしまう。
「ご、ごめん」
「むしろ、もっとぶつかってもいいくらいだが」
 さりげなく重ねられた腕。
「面白いこと言うのね、青って」
「お前の方が面白いだろ。色々と」
 気がつけば手のひらも繋ぎ合わせていた。
 軽々と青の膝の上に乗せられてしまう。
 何たる早業。
 これも長い腕のせいかしら。
 しっかりと腰を抱え込まれ、もぞもぞともがいてみたら、ますます腕の力が強くなった。
 痛みを感じない絶妙な力加減だ。
「これじゃ……甘えてるみたい」
「ご主人様の言うとおりにしないとお仕置きだ」
 頬が紅潮している。
 膝で抱っこされている状況が信じられない。
 愛情表現が激しくなったと実感する。
 今までの分もいっぱい大切にしてくれているのだろう。
 フォークで突き刺したケーキが口元まで運ばれ、あんぐりと口を開けた。
 咀嚼して飲み込む。
 さっき青にしてあげたから、お返しのつもりかな。
「重いでしょ」
「心地よい重みだ」
 満足そうな青に乗せられて、ぱくぱくとケーキを口に運ぶ。
 恥ずかしいけど、目線の高さが近くて嬉しくなる。
「ふふ……」
「やけに嬉しそうだな」
「だって、青がこんなに近いのよ」
「いつも側にいるだろ」
「そうじゃないの」
 青を見上げれば、納得した顔になっていた。
 頭を撫でられて、髪を梳かれる。
 髪に触られていると眠くなってくるのは何故だろう。
 瞼が半分閉じかけている。
(テーブルの上に残ったケーキを片付けなくちゃ。
 ……あれ、移動してる?)
 考えている内に、眠りの世界に囚われた。
 薄らと瞼を開く。
 瞬きをしている間に、視界がはっきりしてきた。
 二人で使っているキングサイズのベッドの上にいて、
 青はベッドの端に腰をかけているようだ。
「青、私寝ちゃってた?」
「ああ、ぐっすりとな」
「子供じゃないのに」
 真昼間に眠りこけるなんて、怠惰なことをしてしまった。
 がくんと落ち込む私の隣りでくすくすと笑う声がする。
「きゃあ」
 と思ったら肘をついて、覗きこまれていた。
 行動が早いんだから。絶対私の数万倍の速度で思考して動いているに違いないわ。
 逆にいえば私がとろすぎるんだけど。
「俺を置いて寝るなよ。手持無沙汰で寂しかったんだからな」
「うう……ごめん。ケーキの皿とティーポット片付けなきゃいけないよね」
「片付けておいた。お茶も美味しかったぞ」
「ありがとう……」
 大失態だ。
 もてなすはずの日なのに私ったら。
 一気に気分が沈んだ。
「そんなに落ち込むな。大したことじゃないだろ」
「だって、今日ヴァレンタインよ。せっかく内緒でケーキ作って 喜んでもらえたと思ったのに」
「喜んでるさ。俺の望みをかなえてくれる為にお前はここにいるんだから」
「連れてきたのは青じゃない……っん」
 いきなり唇が重なる。
 深く甘いキスに、鼻から息が抜けた。
「無防備に眠ってくれるということは、それだけ安心しているということだが」
 言われてみればそういうことだ。
 青のそばは安らげて居心地の良さに目眩がするようで、
 彼に心を許している自分を認めて、安堵する。
  


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