「もしかして、俺以外の口から聞いたのか……」
「青、天然なの? 私は知らなかったけど、そんなに有名なら
 あなたの苗字聞いたら誰だって気づくんじゃない? 」
「お前に天然と言われたらおしまいだが、その通りだな」
「え、天然って認めるの? 」
 にこにこ笑いながら、彼に顔を近づけたら、いきなり顎から首筋を長い指が掴んだ。
 細長い骨ばった指が皮膚に触れて、何故かぞくりとする。
「なわけないだろうが?
いっぱいいっぱいで何も見えなくなってたことを認めただけだ」
 顔の目の前で喋られた挙句、そのまま体を引き寄せられた。
 どくどく、と心臓が鳴る。
 微かな煙草の香りより強く彼自身の匂いが私を包む。
 斜めに傾いた体が長い腕に包まれている。
 顔が近づく。唇が触れそうな気配に目を閉じたら、くっ、と笑われた。
「期待してたんだ。へえ」
「……うん」
 顔が真っ赤になっているけれど、本心だ。
 私の頬の上を舌が滑った。
「俺にちゃんと話をできたら、望むだけのキスをしてやるよ」
 ふいに離されて、助手席に戻る。
 悪戯な眼差しが、一瞬で元に戻った。
 くっ。小憎らしい。
 車が走り出し、心地よい揺れに身を任せる。
 上手く話せるといいな。
 さっきはどうにかなったけれど、あの女の人のことを思い出すのが憂鬱だ。

 お風呂を済ませてリビングへ行くと青が、テーブルに肘をついていた。
 じいっとこちらを見られている。
 静かな表情に、彼が何かを考えているのを知った。
「青、お茶入れようか」
「いや、俺が入れよう」
 待っていてくれた上に用意してもらうのは申し訳ない。
 ぎゅ、と彼のシャツの袖を掴む。
「おねだりされているみたいで悪くない」
「……、何もねだってないわ」
 彼がカップを選びお湯で温めてくれたので私がお茶の葉を入れる。
 一緒にお茶を入れるのってはじめてだわ。
 お湯が注がれると、ハーブティーの香りが鼻をくすぐった。
 寝る前に飲むのにいいお茶だ。
 生乾きの髪をドライヤーで乾かし忘れていることに気づきはっとする。
 滴が、青にかからないようにさっと離れようとしたが、
 今度は彼が私のパジャマの裾を掴んでいた。
 ただし、私とは違い、思いきり強い力で指が食い込んでいる。
「青のお返しって何倍返しなの? 」
 こんな風ってやりとりって楽しい。
 青は目元を緩めて、私も頬を膨らませてみたり。
「乾かしてやるから」
 腕を引かれて、歩いていく。
 もう一度洗面スペースを訪れ鏡の前で椅子に座る。
 後ろに立った青がドライヤーのスイッチを入れた。
 適温に調整された熱風が、髪をふわりと揺らす。
 少し、眠気に誘われてうとうとしてしまう。
「……お前を離すつもりはないんだから、さっさと覚悟を決めるべきだったよ」
 ぽつり、独白するように青の言葉が響く。
 カールブラシに毛先を巻きつけてゆく。
 彼は何でも手馴れているなあと感心する。
 彼の声音と仕草に身をゆだねていた。
「大げさなんだから」
「沙矢にも俺の事情に巻き込まれる覚悟をしてもらわければいけないってことだぞ」
「馬鹿ね。そんなのとっくに覚悟しているわ。
 あなたを好きになって、どうしても憎めなくて側にいたいって願ったときから」
 だから、一人で背負い込まなくていいのよ。
 私は鏡の中から彼に伝えた。瞼を伏せて口元を緩め、息をつく。
「そうだな。俺は馬鹿だ」
 ドライヤーが止まり、彼が肩に覆い被さってくる。
 頬が、触れる。生地越しでもすべらかなのが分かる。
 肩の上にある手のひらに、そっと自分の手を重ねる。
 しっとりと汗ばんでいるのは、緊張している証拠。
 青は繊細だ。強いけれど、弱い。
「青? 」
 急に彼の重みが消えたかと思ったら、跪いて、私を見上げている。
 とくん、心臓が熱い。早鳴り始めてる。
 私の小さな手は大きな手で包み込まれている。
 真摯な眼差しが、甘く優しくこちらを見つめていた。
 指が、びくびくと小刻みに震えたら、小さく撫でられて、瞳を閉じた。
「ずっと俺の側にいてほしい。
 もちろん、共に暮らすことを決意したのも軽い気持ちじゃなかった。
 お前に喜んでほしくて、この部屋を選んだんだぜ」
 この語尾たまにしか聞けないけど、男っぽくて、好き。
 青は熱っぽい眼差しで私をがんじがらめにした。
 思わず、目元が潤んできて手で擦ろうと腕を上げたら青の腕もついてきた。
 あ、腕とられてた。
「何やってるんだよ、まったく。可愛いな」
 かあっ、と頬が熱を持つ。
「だ、だって、青がいきなり……」
 ぼそぼそと口ごもると真面目な顔を返される。
「変らないお前が好きで、ずっと愛している」
 頬に触れる手のひら。擦るから、くすぐったくなってくる。
 ごくん。息を飲んだ。今までにないきらきら具合に眩暈がした。
 どこまでも人間くさい私だけの王子様だ。
 骨ばった手に軽く唇を落とすと目を瞠ったようだった。
「愛しているわ。大好き」  
 青がとても嬉しげに笑う。
 それにつられて、ふふっと笑ったら、強く腕を引かれ次の瞬間には胸の中にいた。
 小鳥のさえずりみたいなキスが繰り返される。
 啄ばむ音にまた照れる私に彼が頬をすり寄せる。
「ただ一人と決めた女じゃないと何もかも委ねられないみたいだ」
 嬉しくなって首に腕を絡める。
「結婚しよう」
「はい! 」
「元気いい返事だが、もっと考えて決めなくていいのか? 」
 こんな時でも彼は意地悪な顔で笑うんだから。
「一緒に暮らし始める前から、私だってあなたしかいないって思ってたわ。
 やっぱり重いかな」
「いや」
「それに、早く返事しないと青の気が変ったら困るもの」
「ありえない。
 俺は結婚という紙と指輪からなる契約で沙矢を永遠に側に置くことを決めた。
 一度イエスと答えを出したんだ。お前こそ気が変ったなんて許さないぞ」
 びく、と身を震わせたら、彼の顔が迫ってくる。
 強気に唇を奪われて、吐息が宙に溶けた。
 ぼうっとしてしまいかけたけれど、どうにか持ちこたえる。
「聞いておかなければいけないことがあるの」
「今このタイミングかよ」
 あからさまに不満を態度に出した青に、こくりと頷く。
 聞いてくれないはずはないのだ。
彼はどんなに些細な言葉も受け止めてくれるのだから。
「春日……佐緒里さんって知ってる? 」
 一瞬考えている風情を見せたが、さらりと口を開いた。
「いや……誰だ? どっかで聞いたことある苗字だな」
「春日部長の妹よ」
 どうでもいいと顔に書いてある。
 感情を顔に出すタイプではないのに、気持ちを顔に出すんだから!
 なまじ顔が無敵に整っているだけに、物凄く悪い顔に見える。
 性質が悪い男の人の典型は彼!と胸を張って言えるわ、うん。
「知らないな。どんな人物だ」
「ちょっとアイメイクがきついかな。美人だと思うわ」
「写真とかないのか」
「ないわ。今日初めて会ったんだけど色々印象的な人で」
「俺が覚えてないんだから、気にすることないから」
「それは、関係のあった人が多すぎて? 」
「覚えていないんじゃなくて、忘れるんだ。
 相手への礼儀だろ」
 そっちならなと意味深に呟く。
 青なら、無自覚で色んな女性をとりこにしていそうだ。
「向こうが知っていてもこっちは知らないってこともある」
「青を疑っているわけじゃないから」
「分かってる。大方得体の知らない不安に襲われたんだろう。
 お前が他の女……いや沙矢以外は女じゃないが。
 まあ、いい。わざわざ名前を出してくるのはよほどだからな。
 しかも、プロポーズした時に」
 少し、佐緒里さんという人が気の毒になった。
 青は邪魔をされたくらいにしか思っていない。
「何言われた。ちゃんと言うって約束したな?
 今更隠し事するなよ」
「藤城総合病院の御曹司に、あなたなんて似合わないのよ! 」
言われたままを口にした。少し躊躇ったけれど。
 唾を飲み込む。おそるおそる見上げたら、青は視線を傾けてきた。
 頬が大きな手に包まれる。
「ごめん……嫌な思いをさせたな。
 俺がもたもたしている内に他人に余計なことを言わせる結果になった。
 黙っていたこと本当に悪かった」
じいっと触れ合う距離で見つめられる。
青の瞳は不思議な色彩だと感じた。
「私の知らない謎がまだありそう」
「大きな瞳を潤ませて、頬まで火照らせて、お前はいつだって俺を誘惑するんだから」
 どうしようもない、と嘆息される。
「も、もうすぐ終わるけど今はアレだから! そのせいで火照ってるの」
 もじもじと手を擦り合わせると耳元で呟かれる。
「明後日か……楽しみにしておけよ」
「せ、セクハラ!」
「お前が、教えてくれたんだろうが」
 むうっ、と頬をふくらませるとつねられた。
「その女、お前の会社にいるのか」
 にこにこ笑いながらむにむにとほっぺたをいじらないでー。
「っ……うん。今日まで知らなかったんだけど、陽香によれば
 秘書課にいるらしいの」
「ふうん。分かった」
「わ、あの、大丈夫よ。滅多に会わないし」
「俺の気持ちの収まりがつかないんだよ。
 ちゃんとお前に害が及ばないように計らうから安心しろ」
 彼は、にやり、緩く口の端を吊り上げた。
「じゃあ、私もう寝るわね。おやすみなさい」
そそくさと自室に引き上げようと足を向けたら、不意に手を握られた。
「一緒に眠るだけじゃ物足りないから独り寝か」
「な、何言ってるの! 」
「沙矢が一緒にいたら安心して眠れるんだ。一緒に寝ろよ」
「は、はい」
 止めをさされ、手を繋いで二人の広い寝室へ向かった。
 照明を落とし、薄明かりに包まれたベッドが浮かび上がる。
 端っこにちょこんと座る私の腕を引いて、横たえた彼に胸の中に閉じ込められる。
「青、色んな女の人の恨みを買ってるの」
「いや、後腐れなく別れて来たが」
 しれっと言う彼を信用できないと思ったのは何故だろう。
「泣かせてきたんでしょ」
「ああ、啼かせてきたな」
 何だか違う風に聞こえた。
 胸元に顔を埋めながら何してるんだろう。油断も隙もない。
「っ……もう」
「この時期は張ってて更にボリュームが出てるな」
 変態発言をかまされるけれど、微妙なタッチで撫でるからくぐもった声がもれるばかりだ。
 青が言う通り痛いくらいに張っている。
 パジャマの中に手を潜り込ませようとする青の腕を掴むけれど
 効果はなく、下着の上からそっと揉みしだかれる。
「痛かったらかわいそうだから手加減してやろうか」
「か、かわいそうって」
 下着をしていても固くなってきたのを感じ取ってしまう。
 ほくそ笑んだ青が、ちゅ、と下着越しに歯を立てた。
 思わず、腰が浮いてしまう。
口元を押さえた私に気づかないはずはなく、
 代わりに唇が覆い被さってきた。
 深いキスなんて交わしていると余計に声は大きくなるばかりだった。
「いっぱいキスしてやる約束を守らなきゃな」
「……いいのに」
「されたくないのか」
「だってキスだけじゃ足りなくなるもの」
「やっぱり物足りないから、一人で過ごそうとしたんだろ」
 もはや、言い逃れはできそうもない。 

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