車に乗り込む。
 助手席にバッグを置くとゆっくりと運転の準備に入った。
 先ほどまで着ていた白衣はバッグの中にしまってある。
 そもそも、たかが仕事着なのに、こんなので彼女は喜ぶのか?
疑問を感じつつも約束を違えるわけにはいかない。
 この白衣とは、もう暫くしたらお別れだ。
 俺は、4月から新しい白衣を纏うことになる。
ルームミラーの位置を調節している時、
 ふと、助手席のサイドポケットを開いてみた……。
 まさかずっとここにあっただなんて。
 去年の5月、沙矢と再会した時に、
 本屋で買った本が袋に入ったままの状態でそこにあった。
 今更だが渡しておくべきか。
 彼女の荷物に同じ本はなかったからすっかり忘れているのだろう。
 自らの失態が情けなくなり、慌てて本を袋ごと取り出すと、
 ハンドルを握り締め、アクセルを踏んだ。
 ギアを切り替える。
 重荷を背負わせることの懸念で、
 ぎりぎりまで話さずにいたのはよかったのか。
 一度も責めずに、受け入れてくれた沙矢に、報いる生き方をしたい。
   結婚してもそのまま暫くはマンションで二人で暮らすことと引き換えに
 飲んだ条件の一つは、休日に、藤城家に顔を出すこと。
 少しだけでも、沙矢の負担を減らしてやれれば。
 まだ引っ越して間もないし、俺自身も二人の時間を過ごしたいというのもある。
 実家に戻るのだとしても、売り払わずに残すつもりではあったのだが。
 知らず、ため息が漏れる。
 父が院長を勤める藤城総合病院に戻れば、
患者を診察し治療する臨床医として、ずっと生きていくことになる。 
 今よりも時間的余裕がなくなるし色々な制約ができてしまうが、
 このまま、わがままを貫き通すほど愚かでもない。
 何もかも同時だとさすがに、沙矢が戸惑うだろう。
 まだまだお互いに歩み寄らなければならない部分もある。
 彼女の優しさに甘えるばかりでは駄目だ。
 結婚は決して遅れたとは思っていない。
 出逢ってから、一年と少しで結婚するだとは、信じられないくらいだ。
 深く濃い日々を過ごしていたから、長く共にいた気がするだけで。
 付き合ってからの時間よりも結婚してからの時間は長くなるだろう。
(すぐに、落ち着けないくらい賑やかな日々が始まってしまうな)
 忙しなく慌だたしい日々への不安や懸念は、
大切な人と共にいられる希望が消してくれる。
 流れ映る景色の中、脳裏に流れる思考は、今までになく賑やかだった。
 一気に加速し、走り出す。
 携帯には、先ほど沙矢からメールが届いていた。
 早く帰ってきてね、と初めて言われて思わず笑みが浮かぶ。
 車窓から見える東京の夜景は、まばゆいくらいに美しかった。


「よっし、準備はOKね」
 仕事帰りに立ち寄ったスーパーで、夕食の買出しをした。
 一人で行くのは久々だった。
 青に告げたら、一緒に行けなくて悪いと言われてしまった。
 テーブルの上は、私の好きな料理を並べた。
 ホワイトデイだから、自由にしていいと言ってくれたのだ。
 本当なら外でディナーをしたかったらしいが、
 青の仕事の都合でできないことを彼は申し訳なさそうにしていた。
 十分贅沢をさせてもらってる。
 彼と過ごせるだけで贅沢な気分なんだもの。
 今日のあの人は謝りすぎだわ。もっとふんぞり返っていいのよ!
「でも、期待してろよって言葉は真に受けたからね」
 ふふっ、と一人で笑う姿は気持ち悪いかもしれない。
 こんこん、と響く音に、焦って玄関に向かう。
 先に帰っていたら、鍵を開けて出迎えるのが、
いつの間にか当たり前になっていた。
 二ヶ月と少しの間で、ここでの暮らしは私の日常になっている。
「お帰りなさい」
「ただいま、沙矢」
 彼がバッグを床に置いたのを見計らい、遠慮なく抱きついた。
 彼のスーツからは、ほんの少し煙草の匂いがする。
 めいっぱい吸い込んで、鼻をすり寄せる。
「どうした? 」
「青の匂いが大好きなの」
 ぎゅっ、と腕を回ししがみつく私を彼は、強く抱きしめ返してくれた。
「そんなことされると、襲い掛かってしまいそうになる」
 腕の中で、彼を見上げたら、悪戯っぽく笑っていた。
「もう、性質が悪い冗談はやめてね」
「まんざら冗談でもないが……今はやめとくか」
「ご、ご飯にしましょう」
彼が、床に置いたビジネスバッグから、ごそごそと袋を取り出し、
 凄まじい速さで、バッグを閉じた。
「これ、お前がいつか買おうとしてた本だろ」
 少し厚めの単行本を彼は、真顔で差し出してきた。
 よく見覚えがある。給料日で自分へのご褒美で買おうとしていた本だ。
 そんなに高い本ではないが、小さな贅沢のつもりだった。
「……う、うん、そうみたい」
 本屋で青とふいうちで再会した時に、高い場所から取ってもらったのだ。
 背伸びして取ろうとしていたが、彼はその長い足を生かし悠々と取ってくれた。
 もしかして、買ってくれていて渡しそびれていたのかしら。
 何で今頃と戸惑うが、青がわずかに不安そうなので、にこっと笑って見せた。
「買っておいてくれたなんて……。ありがとう」
「いや……、忘れていてすまない」
「そんなに気にしないでいいわ。私も忘れてたんだから……。
 あの、もしかして他にも何か忘れてない」
 きょとん、と首を傾げると彼は考える素振りを見せた。
 表情を変えることもなく頷いた姿に、何この不器用な人! と思った。
 もう、知らない顔をいっぱい見せてくれるんだから。
 さりげなく本を持ってくれた彼の腕を引いてダイニングキッチンへと伴う。
 積極的過ぎたかな。心臓はばくばくしていて、上手く顔を見られなくなった。
「顔が真っ赤だが、疲れで熱でも出たんじゃないだろうな」
 頬に、手が載せられて、ぶるぶると頭(かぶり)を振る。
「と、とんでもない」
「もっと強く掴んでも構わないぞ。抱きついてきておいて変な奴だな」
「やりすぎたかなって」
「いつぞやはアパートに来た早々にベッドに連れて行かれたが」
「思い出さないでほしいんだけど! 」
 お風呂上りにまとめていた髪を解いたのは誰だったか。
 惑わせたい。
 恥も何もかも捨てた行動は、彼の心に忘れられない何かを刻んだ。
 よくあんなことできたなと今でも思う。
「ああ、そうだ、ホワイトデイのプレゼントは、食後に披露してやるから」
「は、はい」
 いつもの俺様な彼にほっとする。
 わあ、なんだろう。もしかしたら例のあれなの!
次第に気分が高揚してきた。
「手を洗ってくる」
 そう言って、側を通り過ぎた彼に、きちんとしているなあと感心した。
 帰宅後に手洗い、うがいをする。
 それを欠かさないことを言い聞かせられていた。
 彼はバッグを空いている椅子に置いた。
 ちら、と視線を送ると、ふっ、と笑う。
「まずは食事だろ」
 こくん。頷いてお互いに席に着く。
 手を合わせて、いただきますと挨拶をしたらそれぞれ食べ始めた。
 小さく皿とスプーンがこすれあう音が聞こえる。
 咀嚼して飲み込む瞬間に目が合い、うっ、と喉につまりそうになった。
「けほけほ……」
 慌てて水を流しこむ私に彼は、しれっと笑うばかりだ。
「そういえば、いつかホテルで食事を取った時も
 やたら取り乱していたな」
「そ、それは緊張で」
 明るく会話を交わしてた頃ではないが、
 彼の雰囲気に飲まれまいと抗っているのは今と同じだ。
「何で今日は昔を引き合いに出して、からかうの。
 ご飯の味が分からなくなるじゃない」
「お前の知らない俺を見せるという恥を晒す緊張をほぐすためかな」
「あなたが緊張だなんて」
 食事中の会話はスローテンポで、眠気を誘う。
 ただでさえ、仕事で疲れているのだ。
(課長は容赦ないけど、口だけじゃないから尊敬している)
 食事が長引けば、お楽しみの時間にまともに意識を保っていられるか。
「入浴した後、カクテル作ってやろうか。今度はアルコール入りのやつ」
 最初にマンションに連れて行ってもらった日に
ノンアルコールのを作ってくれたのを思い出す。
 いや、結局口移しでカクテル飲まされたんだけど。
 お酒は20歳になる前に何度か飲んで
しまっているのだが、最近はあまり飲んだ記憶がない。
 何か、イケナイことばかりしてる……。
 煙草を吸ってみたのだって、彼が吸っていたからで、影響受けすぎだ。
「……お、お願いします。甘めので」
「そうだな」
 くくっと、笑い彼は食事を再開した。
 私も慌てて、料理を口に運ぶ。
 彼は美味しかったよと、言ってくれ、胸をなでおろす。
 横に首を振って、いつもさりげなさを忘れない彼に感謝した。
 食器を片付けて一息ついたところで彼が、
リビングから消えていることに気づいた。
 先ほどまで一緒に食器を洗ってたはずだが、
 一瞬の隙をついていなくなるなんてマジシャンみたいだ。
 ホテルで置いていかれた時は寂しくて怖かったけれど、
 今はほんの僅かの間姿が見えないだけ。
 小さな物音がして振り返ると、彼が佇んでいた。
 白衣を身にまとい、こちらを見ている。
「ええー! 」
 反応を間違えただろうか。
 彼は、微動だにしない。若干、表情が意地悪になった気もするけど。
「お前な……人が恥ずかしさを堪えて家でこんなの着てやってるのに」
「だ、だって、信じられないんだもの」
 口元を押さえて、ぺたんと座り込んでしまう。
 圧倒的な吸引力に、気が抜けた。
「か、かっこよすぎ! 」
 悠然と近づいてきた彼が呆れた風情になる。
 腕をそっとつかまれ、立ち上がらせてくれたと同時に引き寄せられた。
 少しだけ香る煙草の匂い。頭を抱かれて、息をつく。
「まさか、そんな反応されるとは」
 腕の中見上げれば、青は照れているようだった。
「今までちっとも見せてくれなかったから、余計感激しているの」
 頬を摺り寄せると頭をなでられた。
「別にただの仕事着だ」
「そうね……でも、ものすごく似合ってるわ」
「それは、どうもありがとう」
 何故か棒読みの青は、私の身体を離すとあっという間に白衣を脱いでしまった。
 代わりにふわりと私に着せ掛けられる。ボタンも丁寧に留められた。
「お前も可愛いぞ。何か妖しいし」
 大きすぎて床についてるし、引きずってしまった。
 不恰好なマントだ。
「明らかにサイズ合わないから」
 彼のぬくもりを感じられて嬉しいのは嬉しい。
「俺だけ辱めを受けたんだから、お前の可愛らしい姿も見せてもらわなければ」
 裾を踏んづけて前のめりになったところを長い腕が抱きとめる。





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