その時、バイブにしていた携帯が着信を知らせた。
 会社の玄関に向かいながら、電話に出る。
 なんて、タイミングだろう。
「も、もしもし」
「もう外にいるから」
「は、はい! 」
 ばたばたと駆けると、目立つスポーツカーが一台止まっていた。
 少し背をかがめた姿で、運転席のドアに  体をもたれさせているのは青だ。
 さらさら、とした髪が風になびいている。
 朝見た姿のままのスーツ姿で、春の陽射しに照らされていた。
「お待たせ」
「どうやらタイミングよかったみたいだな」
 フッ、と笑う青に、笑い返す。
 髪に留めていたヘアピンの位置を直し、スカートを手早く整えた。
「行こうか」
「はーい」
 婚約した余裕からか、会社の真ん前に乗りつけていた車に、目立ちすぎなのではと思う。
 朝は、ちゃんと少し離れた場所で下ろしてくれて歩いたのだが。
 ああ、誰にも見られてませんように……っていまさらか。
 乗り込んで、シートベルトをすると、
 彼も運転の準備を整え目で合図をした。
 近場のカフェレストランへと向けて走りだす。
 車を降りて伸びをした私に、隣りからくすくすと笑い声が聞こえた。
「さすがに、眠いか。温かくなってきたしな」
「大丈夫よ。ご飯食べたあと眠気覚ましに飴を食べるもの。はい、青にも」
 バックから取り出したキャンディを彼に渡す。受け取った青は目を見張っていた。
「いちごミルク、好きだな。逆に喉乾かないか」
「もう、春は苺でしょう」
 彼は目を眇めて私を見つめていた。
 差し出される前に手を繋ぐ。
 些細な事をできるようになって、とても嬉しかった。
 店内を通り、中庭に出る。
 テーブル席につくと、メニューと水のグラスを持った店員が訪れて、
「ご注文が決まりましたら、お知らせください」
 と笑顔で会釈し去っていく。
 それぞれの席に置かれたグラスには並々と水が注がれている。
 テーブルの上にあるボタンを押すのは、私でいいかな。
 陽香と来る時は大体彼女が押していた。
 私がもたついちゃうのがいけないんだけど。
 外のテーブル席は少ないので、運良く座れてよかった。
 禁煙席じゃないから煙草は吸えないことに、彼は気づいているかしら。
 ポケットを探っていたから、じいっと見つめてしまった。
「癖かな。もう、以前ほど吸わなくなったんだよ。
 お前の唇があればいいから」
「ぐほっ……ちょ、ここ公衆の面前なんですけど! 」
「お前が興奮するから目立つんだろう? 」
 顔は笑っていないが、声が笑っている気がした。
 確かに彼の声は低音の美声で、空気に溶けるから
 聞こえている人もそんなにいないはずだ。
 他のお客さんもお互いの会話に夢中で、いちいち気にするはずない。
「近くにいるバカップルのことなんて誰も気にしてないわよね」
「だろうな」
 青は平然と言い、メニューを見て即断したのか、ひとつ頷いた。
 私は渡されたそれを食い入るように見つめ結局定番のメニューにした。
 恋では冒険しても、冒険できない。
「お、押してもいい? 」
 ぷるぷると声を震わせる私に何を思ったのか、彼は、
 こちらの手を握り、ボタンの上に誘導させた。
 大きな手が、自分の手の上に置かれ、胸が高鳴る。
 力を入れずとも軽く触れただけで、ボタンは鳴り響き、先ほどの店員さんがやってきた。
「ハンバーグランチで! 」
 勢い良く答えた私の後で、彼は、カルボナーラを注文していた。
「元気いいな。この分だと昼からも無事に乗り切れそうだな」
「……お褒め頂きありがとうございます」
 涼し気な様子に、急に恥ずかしくなった。
 食事が来るまで少しかかるので、思い切って午前中のできごとを彼に言ってみることにした。
「さっきね、部長がコーヒーを持ってきてくれて、もうびっくりしちゃった」
 心臓に悪いできごとだった。
 部下にコーヒーを運ぶ上司なんているだろうか。
「なるほど」
 彼が納得した様子なので、瞬きする。
「コーヒーは口実で、社員の仕事している様子を窺いに来ただけだろ」
「ま、まさか……」
「隙だらけだな、俺の沙矢は。考えなかったのか」
「考える余裕がなくて……でもそう考えたら私も納得したわ」
 先ほどの出来事を反芻していた私は、
 彼のさりげない甘い言葉を聞き逃すところだった。
 思い出して悶える様を笑いながら見つめられている気がする。
 とにかく、スキンシップが多い。
 結婚したら毅然とした理想の奥さんになりたい。
 私がいるから帰りたいと思われたい。そんな場所になれたらな。
 無意識で傷つけて、いらぬ痛みを感じさせて
 しまったから、もう、間違いたくない。 
「帰ったら、ちゃんと話そうね。ここではさすがに無理だけど」
「ああ」
 手のひらの上にまた手を重ねられる。
 そろそろ料理が運ばれてきそうな気配がしたので、
 強く握り返してから、お互いに離した。
 目の前に置かれたハンバーグランチに、お腹がぐるると小さく鳴った。
 いつも頼むメニューだからこその安心感は私を裏切らない。
 ハンバーグの横にはパスタが添えられ、サラダとスープもついている。
 彼から合図が送られ、小さな声で頂きますと言う。
 黙々と食事を進めたが、やはり外で食べた分時間に余裕はない。
 ここも会社から車でほんの僅かだし、イタリアンのお店もそういえば、この近くだった。
 彼が、テーブルに置かれた紙を手にして、立ち上がったのを確認し
 しまったとうなだれたが、時は遅く、彼の後ろで支払いを待つことになった。
(な、なんで、現金じゃないのっ)
 クレジッカードでスマートに支払った青に、慌ててついていく。
「きっちり払える分あったわよ? 」
「気にするな」
 余計気になったが、甘えておくのが正解みたいだ。
 車に乗り、再び会社に送ってもらう途中で彼は言った。
「わざわざ姑息な手段で様子を見に来るだなんて、
 社員を信頼していないんだな。
 未だ慣れていないからしょうがないのかもしれないが」
 部長のことだと、すぐにわかった。
「信じてくれてないわけじゃないと思うんだけど……
 まだまだぺいぺいで頼りないのかもしれないわ」
「三年目でぺいぺいじゃないだろ。  自信を持っていれば、じきによりよい関係が築けるんじゃないか」
「そうね……」
 会社のことでもこれくらいなら話しても大丈夫だと思う。
 私だってそれくらい弁えている。
 彼も話してもしかたのないことを言わなかっただけで
 自分の職業をわざと隠していたわけではないのだ。
「今日もご飯作って待ってるね」
 会社に着き、運転席の窓を開けてくれた彼に告げる。
「ああ。迎えに行けなくて悪い」
「ううん。青のほうがずっと忙しいんだもの」
 日が経つにつれ、一緒に帰れない日のほうが多くなってしまった。
 彼は、心配症だから、親友の陽香と途中まで一緒に帰ってもらえと、
 口が酸っぱくなるほど私に言い含めている。
 彼女も、快く了承してくれ、気兼ねない友達同士の時間が増えた。
 時には手をつないで帰ったり高校生みたいにはしゃいだりもする。
 青との時間は、おうちに帰ったらたっぷりあるのだ。
 それまでは、友人との時間を楽しんでいる。
 見送る余裕もなく、会社内に戻る。
 ほどなく午後の始業のベルが、鳴り響きはっ、と気を引き締めた。
 この会社での仕事は、大変故にやりがいがある。
 結婚しても、なるべくなら続けたいけど、
青と相談した上で、後悔しないように今後を見据えた決断をしたい。
 時折、画面に映る自分の顔は、青の側にいる時とは違うように思えた。
 お化粧のことだけじゃない。
 オンとオフでは、当たり前だけど、こんなに違うものなのか。
 向こうから歩いてくる陽香を確認する。
 どうやら、終業のベルの音を聞き逃していたようだ。
 本来ならとっくに終わっていなければならない時間だ。
  彼女に拝み手をして謝る。
「陽香……ごめんっ」
「ど、どうしたのよ、沙矢? 」
「まだ仕事が終わってなくて」
「残業としての仕事じゃないし、時間内に終わらないと駄目な所だけどね」
「私が悪いんだからしょうがないわ。
 でも、陽香と一緒に帰れないし、青を待っちゃ駄目だし」
 会社のロビーで一人佇み、彼を待つことは許してもらえなくなって久しい。
「持って帰ってやればいいんじゃないの? 自分の部屋あるわよね」
「パソコンを持ってないのよね」
「青さまのを使わせてもらえばいいんじゃないの。
 快く使わせてくれるでしょ」
「たぶん」
「課長に報告して来るね」
 ひらひらと、手を振り足早に歩いて行く。
 難なく許可をもらえたが、珍しいねと言われて苦笑いするしかない。
 待っていてくれた陽香の側で再びパソコンに向かい、 
 フラッシュメモリにデータを保存し、バッグの中にしまう。
 明日、提出することになった。
 もし持ち帰ってできていなければ早めに来なければならない。
「待っててくれてありがとね」
「何言ってんのよ」
 額を指で小突かれて笑う。
 会社を出た途端に、ぽつ、と頭を濡らすものがあって空を見上げた。
「30パーセントって、どっちかはっきりしてほしいわよね」
「こんな時の為の折りたたみ傘でしょ」 
 バッグから取り出し、お互いに差し掛けた。
 おそらく通り雨で、すぐ止むだろう。
 バス停までを共に歩き、陽香に声をかける。
「週末にでも、よかったらうちへどうぞ」
「うわ、いいの! 沙矢と青さまが棲む愛の巣にお邪魔しちゃっても」
 喜色満面の陽香に怯む。
愛の巣って、ふ、古いわよ?
「もちろん。青も前から、陽香に遊びに来て欲しいって言ってたもの」
「青さまは沙矢以外では何が好きなのかしら」
「はあっ!? 」
 にっこり笑う親友にどう返せばいいか悩む。
「食べ物よ、食べ物。お土産持って行くから」
「そ、そうね。お酒のつまみがいいかも? 」
「とりあえず、塩分ってことで」
 ざっくり返されたところで、はたと気づく。
「好きな食べ物に私をいれたでしょ」
「一番の好物でしょ」
 陽香、私を何だと思って……。
 ぶるぶると拳を震わせ、否をとなえた。
「違う……きっと」
「はいはい。いいなあ、青さまは。
 沙矢を毎日いじって遊べるんだものね。
 うわあ、羨ましいっ」
「変なことばっかり言わないでよ。もう」
 顔を真っ赤にして睨むも笑って返されるだけだった。
「じゃあねー」
「バイバーイ」
 手を振り別れを告げる。
 数分遅れでやって来たバスに乗り込み、二列目の窓際に座った。
 胸元に隠していたペンダントから、指輪を外して指にはめる。
 やはり指にはめたら目立つ気がした。それ程石が大きい。
 




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