君を探していた
妖麗な美貌の青年は、どこか憂いを帯びた風情で煙草を咥えている。
どこか、暗い影を纏い、彼は車のボンネットに背を凭(もた)れさせていた。
時折自嘲の笑みを浮かべて、紫煙を吐き出して夜の空を見上げる。
暫く空を見つめた後、歩き出す。
歩幅の大きさ。夜の闇が映し出す影は長く、相当な長身だというのが分かる。
停めてあった車に乗り込むとシガレットケースに、吸っていた煙草を押しつけ揉み消した。
さほど短くなっていない煙草は、ほとんど咥(くわ)えていただけだ。
携帯電話を取り出すと、彼はアドレス帳からある番号を呼び出した。
「もしもし……あら」
女性は、少し驚いた様子だった。
「砌の家庭教師の件だが、引き受けることにした」
「面倒くさいって断ったくせにどういう風の吹き回し?
なにか気を紛らわせたいことでもあるのかしら」
電話の相手は、彼の13歳離れた彼の実姉・葛井翠。
「どうでもいいだろう。引き受けてやるんだから余計なことは言うな」
「電話くれただけでも奇跡だし、引き受けてくれたんだから、
よしとするけれど、近況くらい少しは話してくれてもいいんじゃない、青。
しばらく直接会ってないもの。
そうね、お盆にお母様のお墓参りをした時以来かしら」
彼ー藤城青(とうじょう せい)ーは、姉に連絡をとったことを軽く後悔した。
簡単に電話を切らないのは、分かっていたものの正直うんざりしてしまう。
誰にでも話したくはない事情のひとつやふたつあるものなのだ。
「……今日は砌の家庭教師の件だけだ。それじゃあ日曜日にな」
「青はお金に困ってはないだろうけど、
けじめだから、家庭教師代は払うからね」
「そんなのいらない。姉弟(きょうだい)だろ」
姉が言うのに呆れ混じりの声を返し青は、電話を切った。
どっと、疲れが押し寄せてくる。
身内は無碍にできないのが、彼の甘いところだった。
息子(青にとっては甥にあたる)の勉強を見てくれないかと
随分前から姉に頼まれていたが、引き受けるつもりはなかった。
水無月沙矢(みなづき さや)と出逢ってから、会う日も会わない日も
彼女のことばかりが胸を占めていたし私生活(プライベート)は自由に過ごしたかった。
正直、彼女の存在は、どう説明すべきか分からない。
いずれ、紹介できる日がくればいいとは思うが。
出逢ったのは、4月。
7つ離れた少女を大人の道に引きずり込み、気づけば籠絡されていた。
魔法にかけられたように離れられなくなり、随分と経つ。
(なんだろうな……。最初の頃は悪ふざけで、セフレと口にしかけて、
沙矢が、瞬時に青ざめたのを見たが。今はそうとも言い切れない)
最近、煙草の量が増えていた。
それは、満たされない何かを埋めたいからなにか。
彼女の唇以上に、青を満たすものはないというのに。
甥の家庭教師を引き受けることにしたのは、単なる気まぐれ。
沙矢と会わない時間で考えたいこともあった。
姉一家には滅多に会うことはない。
もしかしたら、何らかの答えを出せるかもしれないという甘え。
あの夫妻は曲者だが、昔から青を知っているだけあって、
思わぬ考えを見いだせることもある。
車を走らせ、マンションに帰り着くと、まっすぐ浴室(バスルーム)に向かった。
この部屋を解約する。ふと、考えが浮かんだ。
そして、新たな住処には……。
青は、既に小さな答えを見出していた。
熱い飛沫を浴びながら、息をつく。
入浴を終えると、冷蔵庫を開けて食材を取り出す。
簡単だが、栄養価の高い料理を何品か作りテーブルに並べた。
夕食を終えるとベランダに出る。消えないビルの明かり達。
己も眠らない街の歯車に過ぎない。
葛井邸の車庫に車を停めると、ドアを叩く。
微かな声を聞きつけて、すぐに扉は開いた。
「いらっしゃい。今日はありがとう」
姉夫妻は、晴れやかな笑顔で、青を出迎えた。
「いや……別に」
リビングのソファで出されたカップに口をつけながら青は答えた。
「まさか、引き受けてくれるなんて。今ここにあなたがいるのも信じられないわ」
「幽霊にでも見えるのか」
「こんな鮮明な幽霊いないわよね」
翠はからからと笑う。青は、無言でカップを置いた。
「英語が駄目だなんて情けないから、教えてやろうと思っただけだ」
「立派なこと言うようになったわねー」
「どうせテスト期間だけだしな、みっちり教えてやる」
「よろしくお願いします、藤城先生」
「身内に呼ばれると嫌味にしか聞こえない」
翠の軽口に、気力をそがれかけた青はソファから立ち上がる。
リビングを出る時、
「お手柔らかにしなくていいわよ。びしばし言っちゃって」
そんな事は言われなくても重々承知していた。
2階への階段を上がると目的の部屋の扉を開けた。
部屋の中にたたずんでいた甥に、しれっと話しかける。
「……久しぶりだな」
「せい兄……、前から思ってたけど自分の家じゃないんだからノックくらいしろよ」
「いるの分かってるのにドア叩く必要があるのか」
「嫌な奴!」
青の甥である砌は、曲者の叔父に、怯みつつ不機嫌を顔に出した。
青は憮然とした表情で、机(デスク)の椅子に座った彼の後ろに回った。
彼は葛井砌。まだあどけなさが残る高2の少年で青の甥だ。
「……、嫌なら引き受けなくてよかったのに。面倒くさいだろ」
「別に面倒くさいなんて思っていない」
砌はじと目になった。
こいつは、なんでも顔に出すから面白いと青は思っていた。
幼少期に子守をした時も意外に楽しめたものだ。
未知なる生き物を相手にするのは新鮮だった。
身内に対して、口が悪くなるのはしょうがない。
「ぶつくさ言う前にありがとうだろ? 」
「……ありがとうございます」
砌はぼそっと言うのに、青は小さく鼻を鳴らした。
昔は10歳で甥を持ってしまったことに抵抗があったが、
腹を立てようが事実は事実。覆るはずも無く。
いつしか歳の違う兄弟のような関係に次第に馴れていった。
そう頻繁に顔を会わせる訳でもないのだけれど。
砌は幼少期から青をせいにぃと呼び、今でも変わらず
せい兄と呼んでいるのは、刷り込みに近いものがある。
姉に教えられて叔父さんと呼びかけた時、
無言で睨んだら、小さな甥は、大声で泣き出した。
その時見るに見かねた姉が提案したのだ。
『歳も10歳しか違わないし、お兄さんのようなものだから、
せいにぃと呼びなさい。叔父ちゃんより呼びやすいでしょ』と。
当時2歳だった砌は、その日からせいにぃと呼ぶようになった。
青が12歳の頃である。
せい兄(にい)と呼ばれるのが、少々不快になってきた現在は、
叔父貴と呼ばれても構わないとは思っているのだが、青は耐えていた。
「英語だけできないというのも、おかしな話だ」
「……できないわけじゃない」
「大学入試には、必須科目だからな。今からちゃんとやらなければ」
「分かってる」
砌は勉強ができないという事はなかった。
話に聞く限りだが、そこそこ良い成績を取っているようだ。
「せい兄、どうして来てくれたんだ? いっつも忙しそうだし連絡つかないじゃん」
「特に理由は無い。まったく、母子そろって同じこと聞くんだな」
青は苦笑いした後、さっさとやれというふうに視線で教科書を開くように促す。
砌は、一瞬何か言いたげに一度後ろを振り返ったが、
無言の圧力に負けて大人しく机(デスク)に向き直った。
時計の針の音が、自棄に耳につく午後の静寂。
砌が苦手な英語を重点的にやっている。
青は他ができるのに何故英語だけ天才的に
駄目なんだと口から出そうになるのを何とか堪えた。
無遠慮な発言でやる気を失くされても困る。
真剣な表情で机に向かう砌は、腕を組んで見下ろしている
若い叔父の視線を気にしながらノートを綴る。
「ヒアリングが駄目なんだろうか。
流すだけで覚えられるというCDでも聞いてみろ」
「……う、うん、それもいいかな」
「てめえ、やる気あんのか」
青の怒気に、砌は震えた。
肩を波打たせ、俯いてしまう。
青は、砌から教科書を奪い取った。
「俺が、読んでやるから、それを聞き取ってノートに綴れ」
「えっ……あ、はい」
根が素直な砌は、青の言う通りシャープペンシルを握りしめノートに向かった。
砌は、青がそこらへんの教師より遥かに厳しく容赦がないのを分かっていなかった。
青と一対一で向かい合い教えを乞うのは、これが初めてだったのだ。
一応、どういう人物かは知っていたものの付き合いも多いわけではない。
「っ……もう一回言ってくれよ」
「何だ。聞き取れなかったのか? 」
青は、大人げないのを自覚していたが、楽しくて止められなかった。
顔に全部出す甥は、聞き取れない悔しさを顔ににじませていた。
「……せい兄じゃなくて、ちゃんとした家庭教師のほうが良かったかな」
愚かにも心の声を口に出してしまった砌に青は、舌打ちする。
「ああん? 俺じゃ不服か。いい度胸だ。人が、来てやってるのに」
「うわああ! ごめんなさい。嘘です。ちゃんとやります」
「よろしい。ではやり方を変えよう。
俺が読むから、その後続けて読むように」
「分かりました」
根を上げそうになる砌だったがここで逃げたら、母の翠を怒らせてしまうだけだ。
青には、甥の考えていることなど手に取るように分かっていたからこそ、
日頃のストレスをぶつけるように厳しくした。
大人げないと自覚していても愉快で仕方がなかった。
暇つぶしなどではない。
青も、甥への情があるからこそ一回限りの家庭教師を引き受けているのだ。
「頑張れよ。英語以外は問題ないんだから、
普通にやってれば赤点なんて取らないだろ」
「赤点なんて取ったことねえよ! 」
きつい励ましをもらって顔を真っ赤にして怒鳴る。
負けてたまるかという強い気持ちが強く芽生えたらしい。
青が英語の教科書を読み、砌が後に続く。
「発音がおかしい。お前の舌は回らないのか? 」
「……っ」
青の英語は流暢で完璧だった。
高校時代、英語の成績がよかったから、母校の姉妹校に交換留学までしたほどだ。
帰国して大学へ通いだしてからも、英語の勉強を怠ることはなかった。
青と青の父であり砌の祖父の隆、義兄の陽は、英語が堪能である。
翠も聞き取るくらいは可能ならしい。
家系から考えても、英語ができないのは恥ずかしい。
勉強中だが、青は、ふと抱いた疑問を口にしてみた。
「お前、好きな女はいるのか? 」
「い、いきなり何聞くんだよ! 」
しどろもどろの口調は肯定と同じに受け取られる。
忍び笑いをする青を砌は睨みつけた。
「素直なお前がある意味羨ましい」
「思いっきり馬鹿にしただろ」
砌が顔を真っ赤にしている様に初々しいと青は、心の中で思った。
彼の歳の頃には、既に一通りのことを知っていたので、
この初々しさが、羨ましくもある。
「で、いるのか? 」
「……いる」
砌は、首筋まで真っ赤にしていた。
答えは分かりきっていたが、試しにもう一度問いを投げたら、彼は素直に答えてきた。
せい兄には関係ないだろとか、言ってきても怒るつもりはなかったのだが、
嘘はつけない性格らしい。
純で素直で、彼の高校時代とはまるで違う。
お育ちがよろしいのだろう。
姉と義兄の教育の賜物かもしれない。
「そうか」
叔父が黙り込んだのが気になって砌は、首をのけぞらせ、青を見た。
「せい兄、いきなりそんなこと聞くなんてどうかしたの? 」
「いや、何でもない」
それきり、雑談は途切れた。
青は、砌の勉強を見てやりながら、心を何処かへと飛ばしていた。
誰も知らない彼の秘密の領域。
会わずにいるのが、不自然になってきた彼女のこと。
(沙矢……)
まだ少女と呼べる年齢だが、青にとって彼女は少女ではなく女だ。
傷つけて、傷つけて、年齢より早く彼女の時計の針を進ませている。
少し距離を置いて、再び会う度に美しくなる。
捕らえられてしまっている自分に気づかぬ振りをして、
次はいつ会えるかわからないなんて、言葉を投げてまた傷つけた。
本当に会いたいのは自分のくせして、愚かなことだ。
壁の時計を見れば午後3時。
「ちょっと休憩するか」
「うん」
こんこんとドアをノックする音。
「どうぞ」
翠が飲み物と洋菓子を載せたトレーを持って部屋に入ってきた。
もの凄いタイミングの良さだ。
「どう?」
「順調」
「英語は相当頑張らなければいけないがな。
とりあえず他は大丈夫そうだから、
こいつが手を抜かない限り、赤点ついて
補習なんて事態にはならないんじゃないか」
青は、いけしゃあしゃあと本音をぶちまけた。
翠は、苦笑をし、テーブルに三時のデザートを置いた。
「……せい兄って高校の先生より厳しいんだよな」
「砌、この人に勉強見てもらうことなんて貴重なんだから。
文句言わずに頑張りなさいよ」
含みがあるのに気づかない青ではない。
「……はい」
砌がほんの一時間の間に疲弊(ひへい)したのに
気づき翠は若干(じゃっかん)哀れになった。
「とっつき辛くても我慢なさい。
青に教えてもらえば苦手な英語の成績も上がるわよ」
ポンポンと砌の頭を叩いて、翠は微笑む。
「性格除けばこれほど良い先生もいないでしょ」
さらっ、と引っかかることを言われたがスルーする。
「姉貴、義兄(にい)さん今日は遅いのか? 」
「今日もいつも通りよ。何か用事があるの? 」
「ああ……ちょっと話したいことがあって」
「どうしても会いたかったら病院に行ったらいいじゃないの」
義兄の隆は、病院の内科医だった。
「……いや」
心なしか声が低くなった青に翠は、相変わらずねーと心中で呟いた。
「砌、ちょっと外すわね、お菓子でも食べて休憩してなさい」
翠は青を連れて部屋を後にした。
「煙草の量増えたんじゃない」
「この家には喫煙者いないのによく分かるな」
「主婦は服に染みついた匂いとか敏感なのよ」
翠はおどけて笑った。
彼女はいつもふざけているように見えるが、
茶化して場を明るくしているのだと青は知っている。
だから、悪ノリして憎まれ口を叩くし、互いに言い合う。
傍から見れば不思議な姉弟関係だ。
普段、青は姉を呼び捨てるのだから。
「青、ありがとう、砌の家庭教師引き受けてくれて」
「改まって言わなくてもいい」
「本当に嬉しかったのよ。どんな理由があるにしろね」
翠は青の肩に手を置いた。
砌の頭を叩いたのと同じように。
「あー、でもその身長、威圧感あるわね。
見上げるのなんて嫌だからあなたが屈みなさいよ」
悪戯っぽく笑う翠に、青は呆れた。
「誰が屈むか」
吐き捨てると青は翠に向き直る。
視線を少し上向ければいいだけだ。
「居場所でも逃げ場所でもいいから、いつでもいらっしゃいな」
翠は急に真顔になった。
視線を僅かにそらして、青は、
「……悪い、姉貴」
小さく呟いた。
翠は何も言わずただ背中を向けて階段の方へと歩く。
不器用な青の性格を全てとはいかずとも知っているから、余計な事は言わない。
普段はおちゃらけていようとも。
翠は黙ってドアノブに手をやる青に後ろから声をかけた。
「よろしく頼むわ」
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