番外編「傷の舐め合い」
ふいに携帯電話が着信を知らせ画面に表示された名前を見る。
喜びと切なさで胸が苦しくなる。
「青……?」
「沙矢、俺の部屋に来いよ」
苦し紛れの声で誘う彼を愛しいと感じた。
会いたい気持ちを堪え過ごしていた沙矢は彼もまた同じだったのだと知った。
むしろ、沙矢よりも会う事を求めている。
「行きたい」
「外に出ていてくれ。迎えに行く」
不器用な声音に笑みが浮かぶ。
彼に気に入ってほしくて洋服を選び始める。
子供過ぎず大人すぎず女性らしさを感じさせるワンピース。
姿見の前で確認して頷く。
青はスーツ姿で現れるだろう。
彼が語らずともスーツの上に白いものを纏っているのを知っていた。
隠しても感じ取れるものがあったからだ。
(先生だっていつ話してくれるかな。
でも、知らないままでいよう。彼と気持ちが通じ合う時が
来ても知っていたことは伝えない)
アパートの外に出て暫くすると左ハンドルの車が迎えに来た。
ゆっくり歩いて行くと彼が降りてきて助手席のドアを開けてくれる。
(勘違いさせいでほしい。
いつもいつもエスコートする彼の完璧さに歯がみしたくなる)
紳士的なふるまいには育ちの良さが現れていた。
清廉潔白ではなく常識から外れているが、
どうしても悪に染まりきれない人なのだ。
「……ありがとう」
「いいから、乗れよ」
言葉の割に口調は酷く優しかった。
助手席に乗ると運転席に彼が座る。
沙矢は以前と違い、窓ではなく青に視線を向けた。
ぞっとするほど美しい彼はすべてを見せないまま沙矢を求める。
「……そんなに純粋な瞳で見ないでくれるか」
「えっ」
舌打ちはしない。
苦虫をかみつぶした顔で言って車を発進させた。
彼の部屋に辿り着いてしまうのが、怖い。
別れの瞬間が来るのが嫌なら会わない方がいい。
沙矢は分かっていながら、断る強さを持たなかった。
青から逃げるほど弱くもなかった。
都心の一等地に建つマンションに着くと車を降りる。
青の住んでいる場所は沙矢の小さな部屋よりずっと広い。
差し出された手を掴み、エレベーターに乗る。
眠気を感じて大きく瞳を見ひらく。
彼と過ごせるのに眠るわけにはいかない。
部屋の扉が開くとふたりでソファに座った。
静寂の中、見つめ合う。
いきなり抱きしめられて心臓が跳ねた。
腕の中は思いの外、あたたかく襲ってくる眠気に勝てなかった。
「沙矢?」
どこか遠くで青の声を聞きながら沙矢は眠りに落ちた。
さらり、長い黒髪を撫でながら息をつく彼は、眉をしかめた。
気まぐれで誘った部屋の中、青の腕の中で眠りに落ちた沙矢の身体は柔らかい。
羽のように軽いのに女性らしい身体をしているのが恐ろしい。
広いソファの上で、すっぽりと腕の中に収まっている。
彼女は、細いのに、女らしさを纏っている。
肌を通して、彼女の感情が伝わってくるようで、少し怯える。
臆病風に拭かれて素直になれない己のせいだ。
傷を抉り、更に自分が傷つく。
何度、欲情をぶつけても、変わらない純で無垢な乙女が、小憎(こにく)らしく壊してしまいたくなる。
同時に守りたいとも思うけれど、苛みたい気持ちの方が強かった。
青とは違い、薄汚れず常に自分を保っている沙矢。
もしかしたら、青が初めての相手だったからこそ、
忘れられずに、何度も受け入れてくれているのではないか。
愛というよりも依存なのではと、疑ってしまう己のずるさを恥じた。
薄く笑うと、髪を撫でる。
沙矢を女という生き物に変えた。
異性を求め溺れるとは思わなかった。
長い髪をシーツの上に散らす度に、
自分だけの物にしたい。
いつも、このまま楔を打ち込んだままでいたいと願ってしまうのだ。
繋がったままで、時を止められたらさまざまな苦痛からも逃れられるのに。
眉をしかめたまままどろむ沙矢の睫(まつげ)は震えていた。
青のやましい心など知らず眠ったまま起きない。
傷つけずに抱くことができるようになった時は、
優しい眠りに身を任せることができるのだろう。
青は、衣服越しに伝わる柔らかさに苦悩した。
常に抱きたくても今宵は、抱けない。
腕の中に閉じ込めて眠る沙矢を見つめていたかった。
自分自身が良く分からなくて戸惑うばかりだ。
ふいに目を覚ました沙矢は、彼の腕の中で身じろぎした。
23p少し背が高く大きな身体を持つ青は、彼女をすっぽりと包みこんでくれる。
彼が僅かに震えているのは何故なのだろう。
きつく抱きしめられ、腕の中に囚われていても、何かが起きる気配はなかった。
息遣いと、乱れた鼓動から不安が伝わってくるようだ。
香水と、彼自身の匂いが混ざった香りにどきどきする。
起きたのに気づかれたくなくて、動けずにいた。
いつも激しく抱かれて、青のすべてを受け止める度に
においが移る気がして、それがどうしようもなく嬉しかった。
こうして、甘い抱擁に身を任せているだけでも
匂いは、伝わってきて、いちいち鼓動が早鳴る。
名前を呼び合うわけでもない。
彼の部屋の広いソファで、膝を彼に抱えられている。
背中に回された腕の熱さは、一瞬びくっとなったほど。
「青……」
「……起きたのか?」
答えを返すように力をこめて抱きしめたら、
青は呻いて、更に力を強くした。
骨が軋むみたいで、じんわりと熱を伝え合ってるみたいで、
体をつなげるよりもなぜか近くに感じてしまう。
傷を舐めあうみたいに抱き合うよりもずっと。
「……泣くな。俺にはどうすることもできない」
「泣いてないわ」
頬を寄せ、体を傾ける。
頬に触れる滴が嫌で、指先でそっと拭った。
(距離が縮まったら拭ってくれるのかしら)
体勢が変わって、青が沙矢をソファに横たわらせてくれた。
あの美しい深遠の瞳が見下ろしてくる。
沙矢が、瞳を閉じた時、深く唇が重なった。
切なくなって、胸がきゅんと鳴る。
四肢を絡ませて、口づけは暫く続きお互いの吐息を乱して、唐突に終わった。
空気の濃度が変わったように感じた。
途切れた糸が顎を伝い落ちる。
沙矢の意識は、霞かすみがかって彼のことしか分からなくなる。
自ら彼に抱きついたら
「お前は可愛いな……」
なんて、ひどく甘く囁かれてぼうっとなった。
涙が、頬を伝う。
拭ったのは、指先ではなく熱い唇。
睫まつげの滴しずくを舌先で掬われて、心臓が暴れた。
「青は優しいね」
「俺は優しいんじゃなくて……」
「自分勝手で卑怯なだけだ。逃げていることを正当化しているじゃないか」
耳に直接注がれた吐息交じりの言葉。
自嘲を浮かべた表情。
不器用な青に沙矢は、一段と惹かれる自分を感じた。
優しくない人が、傷を与えていると感じるわけがない。
器用で完璧のはずなのに自らの感情を相手に
伝えることに関しては、驚くほど不得手だった。
年上で大人でも、可愛くて、抱きしめて
包んでいたいと思うのは、彼がそんな人だからかもしれない。
もっと酷く傷つけられていたら、こんなに好きになることもなかった。
(……愛しすぎて泣けてくるわ)
熱は奪われることはない。
生まれ続けてしまうから。
傷を与え合っているだけの愛は、いつか本物になるだろう。
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