陽の当たる場所



 照りつける夏の太陽は容赦ないけれど、その部屋には
 温かで優しい光が降り注いでいた。
 愛しいわが子が生まれた。
 ベッドの中息子を抱く彼女に、なんて言葉をかけたらいいのだろう。
 満たされすぎて言葉が出てこない。
 言葉なんて必要ないのかもしれない。

 仕事の都合で出産には立ち会うことができなかった俺は、
義父から生まれた  知らせを受けてから駆けつけた。
 夫は立ち会えなかったのだが父親の経営する病院で産婦人科医の父親が
 ついていたことで翠も落ち着いて出産できたのではないかと思う。
 恥じらいもあったかもしれないが他人に任せるよりは気安いはず。
 暫く言葉もなく翠と生まれたばかりの子供を見ていると、くすっと翠が笑った。
「何呆けてるの、抱いてあげて」
 翠が赤ん坊を渡すのを俺は慣れない手つきで受け止める。
 子供を産んだ彼女の表情は何かをやり遂げた後の満ち足りた顔をしていた。
 強さが加わって柔らかな美しさを覗かせている。
「目元が陽そっくりよね」
「口元は翠だ」
 笑いながら言葉を交わす。
 暫くそうやって二人で赤ん坊を見ていたのだが、
 義父が顔を覗けた途端照れくさくなった。
「おめでとう、翠、陽くん」
「お父様、改まって言われると照れるわ……ねえ、陽」
「取り上げてくれたのお父様ですからね」
「二人には言ってなかったからね」
 父は抱えていた花束を看護婦に渡し活けてくれるよう頼んだようだ。
 相変わらず洒落ているというか、さすがだなと思う。
「お父様、名前なんだけど、まだつけるの早いかしら」
 翠をちらっと見ると口元を歪めた。何かを企んでいる時の顔だ。
 俺は退院前でいいんだと思って考えてもいなかったのに。
「もう考えたのか?」
 そっと赤ん坊を渡すと父は慣れた仕草で抱えた。
「ええ」
「砌。石みたいな硬さと鋭さを持って欲しいなって」
「石……ね」
 つい吹き出してしまった。
 硬いってアバウトな翠とは正反対じゃないか。
「陽は了解してくれたけどお父様はどう」
 気が付けば勝手に話が進んでいた。
 逆らうのは不味い。
「いいと思うよ。みぎりか」
「読めない人多そうね。わざと紙に書いて見せて読ませてみようかしら」
「翠」
 聞き咎めた父と俺に翠は悪戯っぽく笑った。
「いやあね、冗談よ」
「ちょっと呼びづらいな。君と一文字違いじゃないか」
「陽、呼び間違えたりしてね」
「いやそれはない」
 笑い合う後ろからこほんと咳払いがした。
「邪魔して悪かったね。後は家族水入らずでごゆっくり」
 父は砌と名づけられた赤ん坊を翠のベッドの隣りの赤ちゃん用の
 ベッドに寝かせると、苦笑いをして出て行った。
 翠と俺は顔を見合わせてまた笑う。
「これから頑張らなければって思った。医者としてはまだひよっ子だからな」
「頑張ってね、愛する私と砌のために」
「ああ」
「あの子、小4で叔父さんになっちゃったんだわ。
こればかりは私を  責めてもらっても困るけど」
「同い年の叔父と甥でない分、いいんじゃないか」
「あははは。陽、素敵。あなたも結構黒くなったわねえ」
「翠には勝てないよ」
 負けるけどって普通は言うのだろうか。
「退院まで後7日か」
「ええ」
「翠と砌を早く連れて帰りたいよ。7日は俺には途方もなく長い」
「もしかして独りが寂しいの?」
「寂しいね」
 つい、素直な反応を返していた。
 君がいないだけで家が広く感じてしまう。
 賑やかな声が、屈託のない笑顔がないと、あの家ではない。
「大きな子供のために早く帰らなきゃね」
 俺は返答に困り曖昧に笑う。
 女性は子供を産むと強くなるんだな。
 翠の場合したたかさを増したという方が正しいかもしれないが。
「じゃあ一週間後迎えに来るから」
「待ってるわ」
 と翠は小さく手を振りながら横たわった。
 隣りのベッドにいる砌を見ているのかもしれない。
 扉を開けて一度振り返って、名残惜しくも病室を後にした。
 本当はもう少し側にいたかったけれど子供を産んだばかりで相当の疲労
 を感じている翠に無理はさせられない。
 いや、既に長居しすぎたかもしれないなあ。
 義父さんに怒られるじゃないか……。
 苦笑が広がってゆく。
 翠はいつ名前を考えたのだろう。
 まさか分娩中に考えたのか。
 時間を有効利用……そんなまさか。
 悶々と思考しながらその日は帰宅した。
 翠ならありえなくないのが恐ろしい。
翠を迎えに行くのは一週間後だが、どちらにしろ同じ病院内で働いてるし
そういえば一度も会えないわけではないんだな。
一週間後にまた会おうって感じに言ってしまったから、からかわれるな翠やお父様に……。
「足取りがふらついてるよ、陽くん」
「え、ああ……お父様」
 病院の廊下を歩いていると後ろからポンと肩を叩かれた。
 心臓に悪い。
「今晩、久々に一緒に飲もうか」
「そ、うですね、是非」
 父に誘われてはっと思い出す。
 どちらにしろ一ヶ月程前から翠の実家である藤城の屋敷で暮らしてたんだった。
 さっき出たばかりなのに、忘れてたのか。
 浮かれすぎてるなこれは。
 らしくない。
 俺は、明るい笑顔で足早に通り過ぎた藤城 隆を見送ってから病院の外に出た。

「陽さま、お帰りなさいませ」
 ドアホンを慣らすとこの家の家政婦の女性が顔を出す。
「ただいま帰りました、操子さん」
「お子さまにお会いになられたのでしょう?」
「ええ。やはり立ち会えればよかったなあと」
「お仕事ですもの、仕方ないですわ。翠お嬢様も分かって下さってるでしょう?」
「正直言って彼女の顔を見るまで安心できなかったんですけどね。
 仕事中もハラハラしっぱなしで、自分を落ち着かせるのに必死でした」
「そういうものですよ。陽さまもお仕事の後ですしお疲れでしょう。
 お食事を召し上がられたら少し休まれて下さいませ」
「そうさせてもらいます」
 この屋敷で暮らしているのは翠の出産の為である。
 実家の方が何かと安心だということで翠の要望と、彼女の父である隆の
 薦めもあり夏が終るまでは世話になることにしたのだ。
 夜勤の終った後、そのまま同じ医院に入院している翠を訪ねた。
 今日は夜勤の後なので休みである。
 一階の二部屋を翠と俺で使わせてもらっている。
 他にも部屋は余っていて父もどれだけ使ってもいいよと言ってくれたのだが、
 二人と赤ん坊だけなので二部屋で充分だと遠慮した。
 翠の実家ではあるが、普段はここで暮らしているわけではないので甘えすぎも
 よくない。けじめが必要だった。
 翠の弟である青はまだ小学生で多感な年頃だし、あまり長居もできないと
 判断して世話になるのは二ヶ月間と決めた。(翠自身は全く気にしていないが。)
 人目があると色んな意味で自由が効き辛いことだし、翠も二人きりになれないわねと
 不満を零していたので、二ヶ月でも長いくらいかもしれない。
 あと一ヶ月で藤城家での暮らしは終わりを告げる。
 頭の中で色々考えながら、部屋の扉を明け、ベッドに倒れこんだ。
 すぐに瞼が重くなってくる。
 寝てないからなあ……。
 そういえば食事を用意してくれてるんだっけ。
 ぼんやりと脳内に浮かべて、睡魔に身を任せた。

 次に目が覚めた時、ソファの前のテーブルにはラップをかけられているが、
 既に冷めた料理と、空になったワインのボトルがあった。
「……何時間寝てたんだ」
 自分に呆れながら、起き上がる。
 やけに暗いなと思い、ベッドサイドのランプをつけると壁の時計は深夜0時を示していた。
 ふと家政婦の女性が食事を用意してくれていたことを思い出し、
 ついで父と酒を飲む約束をしていたことを思い出した。
「申し訳ない」
 はっと気づいてテーブルを見れば書置きがあるではないか。しかも2枚。
『陽様、お呼びしたのですがお返事がありませんでしたので、
 お食事はこちらにお運びしました。起きられた時に召し上がって下さい。
 冷めていたら遠慮なくお申し付けを。すぐに温めなおしたのを持って来ますので』
「ありがとう、操子さん」
 こんな時間に呼びつけるつもりなど毛頭ない。この家でずっと暮らすのは無理だなと
 今更ながら思った。あわなすぎる……。
 もう一枚の書置きを手に取る。秀麗なボールペン字を見れば
 書いたのが誰かすぐに分かった。
『飲もうって約束してたんだけど寝てるようだし。
 一人でドンペリを飲むのは勿体無いかなと思ったんだけど
 折角のお祝いということで一人で楽しく飲ませてもらった。
 幸せそうな顔で寝てるところを起こすなんて無粋じゃないか』
「お気遣い頂きまして」
 嫌味を込めた独り言を呟く。どうせ聞こえはしないが。
 翠の父だということを忘れてはならなかった。
 明らかな失態。
 ラップを剥がし箸を手に取ると、食事を始める。
 冷めていても心が込められているからなのか、美味しくてどんどん箸が進む。
 ごちそうさま、操子さん。
 とまたベッドに横になると眠りの世界へと落ちていった。
 明日も頑張ろう。



 七日後、迎えに来てくれた陽と共に屋敷へと戻ると、玄関先に珍しい存在がいて驚かされた。
 出迎えてくれていたらしい。
「おめでとう、姉さん」
「あら、ありがとう」
あまりに嬉しかったので頭をぐりぐりしてやると手で払われた。
「青、あなたの甥っ子の砌よ」
「……」
 戸惑い気味だが彼なりに喜びを表現しているらしい。
 砌の手に触れたり、顔を覗き込んだりしている。
「後三週間、砌共々よろしくね、青」
「ああ」
 あまり口数が多くない青はそれだけ言うと階段を上ってゆく。
 自分の部屋に戻るのだろう。
「青も喜んでくれたしああなんてハッピーなのかしら」
「あれで喜んでるのか」
 隣りから聞こえた声に笑ってしまう。
「そうよ」
「そうか」
 些細な会話を交わして自分達の部屋に戻ると、陽が用意してくれていたのであろう
 ベビーベッドに砌を寝かせて、ほっと一息をつく。
 よく寝てるから暫くは起きないかな。そうだといいのだけれど。
「お茶でも飲みましょ」
 陽の腕を取りキッチンに向かう。
 人には私が彼の先を歩いて引っ張っているように見えると言われるが、
 私は隣を歩いていると思っている。
 前を歩かなければいけないほど頼りない人だったら結婚してないし、
 子供も欲しいとは思わなかっただろう。
 自然と零れる笑みに幸せボケの自覚をしていた。


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