1、Border



 涼と菫子は現在、友達以上恋人未満の微妙な関係だ。
 菫子が一向に付き合うことを認めない為に先へ進めずにいた。
 涼は前の恋が終わって、しばらくは、友達のつもりでいることに
 努めていたつもりだったが、とある日我慢できなくなり、キスをしてしまった。
 勿論、隙があったし、タイミングを見計らった上でだ。
 菫子は、甘く潤んだ瞳で涼を見上げ、彼は危うくなし崩し的に
 手を出してしまいそうになったのだが、そのことを菫子は知らない。
 以来、関係が変化したと涼は確信した。自信もあった。
 実際、折れないのは菫子だけで、
 涼と以前交際していた薫にも、菫子の友達である伊織にも
 二人はとっくにできあがっているくせに今更過ぎだと、
 呆れたように笑われているのだが、何か、まだ心にわだかまっているらしい
 菫子は、ただの友達だと言い張っている。
 既に、キスを交わした仲なのに、その矛盾は置き去りにしたまま。
 頑なに、拒んでいる。まるで何かを恐れているかのように。
 涼は、ここで決めなければもう先へ進めそうにない気がしていた。
「なあ、菫子」
 横に座る相手から呼びかけられ、まばたきする。
 カフェで、二人は、正面ではなく隣同士に座りゆっくりとティータイムを楽しんでいた。
「なあに、涼ちゃん」
 しっかり見据えて口を開けば相手ー涼ーがニヤりと口端を持ち上げた。
「俺のこと、一目惚れだったんやろ? 」
 菫子は、飲んでいた紅茶を勢いよく吹き出した。
 あまりの過剰な反応に涼も吹き出しつつ、ナプキンを数枚差し出す。
 それを菫子が睨みつつ受け取ると、涼は慌てて表情を取り繕った。
 もうっと頬を膨らませながら、口元やテーブルを拭いている。
「……違うわ」
 完全否定だが、胡散臭さは否めない。
「ほんまに? 薫もあの日の菫子は間違いなく、俺に落ちとったって」
 あくまでも疑う涼に菫子はため息をついた。
「確かに真っ赤な顔で意識しまくりだったな」
 菫子は、ぷるぷる拳を震わせた。
「自意識過剰ね! なんでそんなに一目惚れにこだわるのよ」
「いや、いつ好きになったとかはっきり聞いてなかった気がして」
 一目ぼれ以外ないかなあと。
 続いた語尾に菫子は、震える唇を開いた。
「最初見た時……かっこいいって思って……
まさか話しかけれると思わなかったから、ドキドキしただけ」
「ふうん? 」
 にやにや意地悪な笑みを浮かべる涼に、神経を逆なでられながらも
 嘘がつけない自分の損な性格が悲しいと思う菫子だった。
「……何度か顔合わせてる内にだんだんと惹かれて……ってな、何言わせるのよ」
 菫子は涼を鋭く睨みつけた後顔を真っ赤にしてうつむいた。
 手のひらを膝でこすり合わせている。
「ふうん、じゃあ七夕の前は? 笹の木がマンションにあるって自慢してたあの日はもう好きになってた? 」
「……悲しいことに、もう大好きになってた! 」
 やけっぱちのように言ってから、菫子は顔をそらした。
 涼は、そんな彼女をじっと見つめている。
「……な、なに? 」
「うん、やっぱりかわいい。誰にも渡したくないくらい好きやわ」
 さらっと言われた一言に菫子は、落ちつかない気分になった。
 手をあてると頬が熱を増していた。
「友達にはキスせえへん」
「それを言えば私だって……」
 菫子は、もごもごと口を動かした。
「ぶっ。おでこにちゅうと唇にキスは全然ちゃうで」
 鼻で笑われて、かあっとなる。
「それともキスしたの嫌やった? 菫子だってその気だったはずや。
 雰囲気に呑まれたのは確かやけど、そういうもんやろ。
 強引にしたつもりはないし、後悔は一つもしてない」
 一気にまくし立てられて、頭がパニックを起こす。
 何が駄目なんだろう。
 キスだって、すごくさりげなかった。
 折角両想いになれたというのに、ためらいを捨てられずにいる自分は何を望んでいるのだろう。
 決して困らせたいわけではないのだ。
「……嫌なはずがない。だから嫌なのよ」
「菫子、場所変えようか」
「え? 」
 きょとんと眼を瞠った隙にそっと腕を取られ、引きずられるように進む。
 レジで代金を支払う涼を見上げて、あっという間にカフェの外に出ていた。
 すたすた歩いていく涼に、菫子は三か月前と同じだと思った。
 あの時もこうやって、外に連れ出してバイクに乗せた。
 ただし、今回は事情が違うようだ。
 抵抗ばかりして、素直になれない自分は、時折こうやって強引な涼に助けられる。
 好きになった弱みだ。嫌いになったことは一度もないのだ。
 先に惹かれた自分が今では、甘えきっていることを自覚しながら、従う。
 最後は、彼の思い通りに事が進む。
(薫さんは、こんなに手がかからなかったんだろうな。
 彼はそれでも、私を選んでくれたのに、何でこんなに可愛くないんだろう)
 ぎゅっと握られた手の強さと熱さに、自分の気持ちが冷静になり
 周りが見えてきた菫子は、バイクの背にしがみついて
 流れる景色の中、涙を隠した。


 地下駐車場にバイクを停めて、エレベーターで中に入るその間も
 手は固く握られたままで、嫌じゃないと示すように菫子は握り返した。
「今ならまだ引き返せるけどどうする? 」
 標準語っぽいしゃべり方は妙にどきっとすると菫子は思った。
 なぜ、急に切り替えることが可能なのか、不思議でならない。
 涼の部屋の前で、ドアを凝視した。
 ここまで連れてきておいて聞くなんて意地悪なのか優しいのか分からない。
「とりあえず寒いし入ろ。お茶でも入れるからじっくり本音を聞かせて」
 優しく、諭す声に頷くしかない菫子だ。
 鍵を差し込むとキィと扉が開く。
 胸は騒ぎたてることはない。
 変に意識することを懸念して抑えているからだ。
 握りしめられていた手が離され、涼の後ろから後ろからついていく。
 菫子が、中に入った瞬間、鍵が締まる音がした。
「どうぞ、お姫様、むさ苦しいところですがおくつろぎ下さい」
「むさ苦しくはないみたいだけど、殺風景ね。観葉植物くらい置いたら」
「うんうん、菫子はそれでなくちゃな」
 勝手に納得した涼は、部屋のソファに菫子を座らせると、
「コーヒーでいい? ってそれしかないんやけどな」
 と明るく笑った。
「砂糖とミルクがあればお願い」
「了解しました」
 涼が台所に消えると、菫子は、ソファの上で手持無沙汰になった。
 自分の部屋と同じ間取りの1DK。
 寝室も兼ねている部屋にはベッドも当然あって。
 意識せまいと頑張るのに、余計に意識してしまう。
 シングルじゃなくてダブルベッドなのは、
 涼の体格には狭いからだろう。
「……はあ」
 ため息をついた瞬間、タイミングよくテーブルにカップが置かれて
 菫子はびくっとしてしまった。
「お待ちどうさま」
 がしがしと髪をかき混ぜられ、なぜか安堵した。
 正面の座布団に座った涼が、ミニコンポを弄っている。
「俺のお勧めでええ」
「うん」
 何だろうと思えば、「THE BORDER」だ。
 菫子の頭の中に曲のタイトルが瞬時に浮かんだ。
 口ずさむ涼を見つめられず、目をそらした。
 何故この曲を選んだのか分かった気がした。
 思わず涼と見つめ合う。
「リクエストしていい? 」
「ええよ」
「YOU&I」
「おっけー! 」
 涼は嬉々として、次の曲をかけた。
 菫子は今度はBGMに合わせて全部を歌った。
 二人でいる時間は、何よりも楽しくて、愛しい。
 好きになるほどわがままになって、一緒にいたいのに、
 目の前から消えてしまいたいと、本心ではないのに願ってしまう。
 こんなにも、好きなのに。
「菫子……? 」
「……っ」
 頬に流れる滴がぽたりぽたりと膝へと落ちる。
 目じりを擦っても、あふれる涙は止められなかった。
 涙の熱さで頬まで火照ったみたいだ。
「ごめんね……涼ちゃん」
「ん? 」
「あなたの側にいたら、醜い所とか暴かれるのが怖かった。
 近づいていくほどに、可愛くないことも知られちゃうから、
 少し引いてしまってた。嫌われたくなかったの」
 嗚咽を漏らし、泣きじゃくりながら菫子は、必死で言葉を紡いだ。
 今、素直にならなければ、友達ですらいられなくなって、
 失ってしまう。それは、どうしても耐えられなかった。
もう涼のいない現実に帰ることなどできない。
「あほやな、俺が今更、菫子を嫌いになったりするわけないやん」
 決然とした口調に、菫子が顔をあげる。
 差し出されたハンカチを、掴んで、顔を拭った。
 少し、乱暴な仕草なのを見兼ねてか、涼が、頬の涙を拭ってくれた。
「菫子が、可愛くなかったことなんて一度もないで」
 涼は、眼差しを和らげて菫子を見つめていた。
 

blueglass第七話   2.体温
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