2、体温



「俺を先に好きになってくれたのは菫子や。
 薫と付き合っとったのに、いつの間にやら菫子が頭から離れんようなって
 結果的にあいつを傷つけた。けどな、もう同じ間違いはしたくない。
 弱いところも全部、含めて菫子なんやから、
 二度と、卑屈な自己完結は許さへんで。な」
「分かった……」
 菫子の手のひらにカップを握らせて、涼は離れた。
 菫子は、ごくんとカップの中身を飲み干す。
 ミルクも砂糖もないと思ったら先に全部混ぜて渡してくれたらしい。
 ほんのり甘いコーヒーに、気分が慰められる。
「菫子は俺のこと好き? 」
 カフェでのからかい口調とは違う真摯な口調と眼差しがそこにあった。
 菫子の心を覗こうとするような。
「好き」
「それは、友達として? 」
 菫子は、ゆっくりと深呼吸した。
 確かめなくても自分の心は、分かっている。
 散々焦らしていたから、一呼吸置かないと口には出せないのだ。
「男の人として好き。大好き」
 強い口調ではっきりと言った菫子は、澄んだ瞳をしていた。
 涼は、小さくうなづいた。
「……ありがとう。めっちゃ幸せ」
 心の底から嬉しそうに、照れくさそうに涼は笑った。
 それを見て菫子も頬をゆるめた。
「だったらな、俺らちゃんと恋人同士になろ」
 どきん、と菫子の胸が高鳴った。
 あの曲を聴いて、彼の想いがこもっていると思った。
 境界を越えてしまえばいいのだと。
「キスくらいじゃ、友達を抜け出せんかったみたいやし?
恋人同士が想いを伝い合うにはどうすればええか知っとる? 」
「知ってるけど、どうすればいいのかは分からないわ。
 涼ちゃんが、教えてくれる? 」
 菫子は、思ったままを口にしただけだが、
 その言葉は、吸引力抜群で、見事に涼の
 心を打ち抜いて、絡め取った。
「あ……涼ちゃ……」
 抱えられた体が宙に浮く。
 菫子の見上げる先には涼がいて、明かりも落とされた気配を感じた。
「菫子……好きや」
「ん……」
 熱っぽい台詞に、菫子は口づけを返すことで応えた。
 唇が触れ合う、微かな音、
 暗闇に閉ざされた小さな部屋で二人きり。
 聞こえるのはお互いの息づかいと、何かを急き立てる衣擦れの音だけ。
 壁掛け時計はないので秒針の音は聞こえない。
 静寂に自然とどきどきは高まる。
 キスの合間に、洩れる吐息が神経を高ぶらせていく。
 唇の隙間から侵入してきた涼の舌が、菫子の口内を探る。
 吐息が混ざって荒々しさを増していく。
 肌がじわりと熱くなって、暖房なんていらないのだと思い知った。
 唇で交わすキスがいつまでも続くかと思われたが唐突に終わり、
 菫子は、名残おしさで小さく唸った。
 涼が、雰囲気にそぐわぬ笑い方をした瞬間、
「や……くすぐったい」
 彼の唇は頬や額、耳の裏、首筋までをかすめるように啄んだ。
 笑みを零してしまうくらいに、甘い誘い。
 身をよじって、はしゃぐ。お互い笑い合う。 
 ここから、濃密な熱が生まれるのか、菫子は、想像できない。
 子供みたいに、無邪気に過ごす時間は心地よくて、結ばれなくてもいいなんて、
 一瞬思ったけれど、涼はそうではない。
 生身の菫子に触れて確かめたいのだ。
 菫子は、決意を固めるように、小さく頷いた。
 もはや、自分の心に嘘なんてつけない。同じ気持ちなのだ。
「菫子、めっちゃかわいい」
「……涼ちゃんもかっこいいわ」
 くす、笑って、自然と互いの衣服を脱がせ合った。
 いつもより、素直に言えるのは何故?  菫子はたまらなく恥ずかしかったが、
 愛情が伝わってくるので、ためらいはなかった。
 素肌が外気に晒されて、羞恥に頬を染めながらも涼から視線を離さなかった。
 首筋と鎖骨に、甘い痛みがひいては押し寄せる。
 菫子は無意識で、涼の方に手を伸ばした。
 強く掴まれて、しばらくした後離れた涼の指は炎と化していて、
 このままでは二人でやけどしちゃうわと真面目に思ったが、
 耳に感じた電流で、思考を切り離された。
 気を逸らすことなんて不可能だ。
 耐えず襲いかかる刺激で、冷静さなんて、保てない。
 男の人って、すごい。太刀打ちできない。菫子は感心した。
 自分から出る甘い声を抑えたくて口元を手で押さえるが無駄な抵抗だった。
 唇と指で最初は恐る恐る触れられていたが、次第に、本能のままにもてあそばれる。
 そこが敏感な部分だと、知った。
 菫子は、きゅ、とシーツをかいて掴んだ。
 辿る指先とキスが、奥深くを目指す。
「こんな所触らないで……汚いのに! 」
 強い抵抗を示し、枕に顔を押しつけた。
 自分は使い慣れていない涼が使っている枕に。
「汚くなんてない。菫子の匂いがする」
「……だって……」
「何言いたいか、わからへん」
 菫子はむっと唇を尖らせた。
 おちゃらけた物言いは、涼だ。
 だが不思議と軽いと思ったことはない。
 本来は生真面目なのだから……、傷つけるとわかっていて触れることを恐れる程に。
「悪いようにはせえへんから。緊張するならずっとしゃべっとこうか? 気も紛れるやろ」
 どこかあくどい顔で涼は、言い放つ。
「……っ……しゃべってもらっても聞こえないもの」
 まともに答えるのも難しい。
 与えられる快楽に集中している体と心。
「感じてるからやろ? 俺のせいやな」
 同時にいろんな箇所を攻められて、菫子は、小さな体をくねらせた。
 丸めた体に、覆い被さってくる涼の大きな体。
 ベッドが、ぎしりと音を立てた。
「菫子……俺がお前を抱きたいのは、愛してるからや。全部そっから来てる」
「わかってる……っ……こんな私でよかったら、あげるから涼ちゃんのこともくれる? 」
 潤んだ眼差しで涼を見上げて、彼の腕を指で掴んだ。
 震える声音で懸命に伝える。
 涼は、破顔したあと、軽くうなだれた。
「あかん……やっぱかなわんわ。惚れられた時点で勝敗は決まっとったってことか」
「……涼ちゃんを好きになった時点で負けているわよ」
「うわ、喜んでええかわからん」
「プラスに考えればいいのよ」
 菫子は、くすっと笑う。
「のせられるのも悪くないか」
 涼は苦笑いを浮かべた。
 葛藤しているのか、動きがぎこちなくなって、
 もどかしさに、じれったくなった菫子はうわ言でつぶやいた。
「ん……やめないで」
 涼の眼差しが、注がれている全身は桃色に色づいている。
 かさり、乾いた音に、どくんと心臓が暴れ始める。
避妊の準備をしたのだと分かった。
 予感……。不安より期待の方が遥かに大きい。
 これから起きることをしっかり見据えようと
 意識が遠ざかる寸前で何とかこらえている。
 シーツを掻き抱いて、細く開いた瞳で、更に近づく涼を捉える。
 息を飲んだ。
 菫子の世界を埋めつくすのは、ずっと好きだった、彼。
 破裂しそうな欲望をその瞳に湛えて、菫子への愛しさを隠すことなく滲ませて見つめている。
 菫子は、真上にある涼の顔に手を伸ばす。
 頬に触れて温かさを確かめて、微笑んだ。
「……愛してるわ」
「ああ……愛してる」
 涼は笑み返した。
 彼の背中に、腕を回してしがみつく。
 ベッドが一段と激しく悲鳴を上げた。
「っ……涼ちゃん……っ」
 奥で感じる繋がりに菫子は身を震わせた。揺れる。
 体がばらばらになってしまうのかと思うくらいに、ただ今しか感じることができない。
 永遠より、確かな刹那があった。
 結ばれていることを実感して、生理的な涙が、零れる。
 声が変化していく。
 涼の背中に指を立てて、両足が甘くしびれるから、足先を丸めて。ついていくのが精一杯だ。
 誠意に彩られた行為。
 菫子の様子を窺いながら、涼は慎重だが大胆に、次の段階へと導いた。
 猛スピードで、押し寄せる高波に、連れて行かれる。
 引かれた腕は強く、優しくて、一緒に揺られていることに悦びを覚える。
 爪を立てて、引っかいてしまう。その瞬間、顔をしかめた涼の
 勢いが増した。知らず菫子も彼を逃がさまいと束縛する。
 身を起こして、抱き締め合う。何度もお互いを呼び愛をささやいた。
「……っ……卑怯や……初めてのくせして」
「な……わかるの? 」
「……きつすぎやから」
「分かんない……っ……」
「いずれ、その内わかるようになるって」
目眩がした。脳内が白くかすむ。
 強く、揺さぶられる。互いの持つ感覚が、愛しい存在によって奪われてしまう。
 あげる声が、混ざった瞬間に、淡く鮮明に意識がとろけた。


「上がったで」
「……うん」
 シャワーから戻ってきた涼に、さっと顔を赤らめる。
 菫子は涼に背を向けて、窓辺で風に当たっていた。
 数時間前までのことが脳裏に瞬時に甦って来て、気恥かしさでどうしようもない。
 真っ赤になった顔に手を当てながら、動揺を誤魔化すように、けぶる空を見ていた。
 白々と明けていく、夜の空は、とても綺麗で見とれてしまう。
 寒さなんて気にならなかった。
「すーみれ」
「は……い? 」
「漢字が菫やから、すみれ。折角やから愛称つけてみようかと」
「……そう」
 気だるくて、何だかどうでもいいと思ってしまう。
(好きに呼べばいいじゃない)
「熱いのもわかるけど、温度差で風邪ひくで」
 意味深に微笑み、涼は窓を閉めた。
 動こうとした菫子は、後ろから抱き締められた。
 束縛の檻に閉じ込められて、涼の体温を感じる。
 肩越しに回された腕の力は振りほどけないほどではないが、離したくない
 という意志を感じる。先ほどまでの激しさとは違う、静かな抱擁。
 それでも、胸は高鳴るのだ。
「愛ってええな」
 しみじみ呟かれて、反応に困る。
 涼は、満ち足りた様子だった。
「……そうね」
「気がない返事やな……苛めたくなるやんか」
 満更嘘でもなさそうで、菫子はびくっとした。
 体はすぐに火照ってしまう。熱が引いて間もない体には、毒だ。
 腕から、するりと抜け出して、浴室に向かう。
「パジャマ置いといたから」
「……用意周到よね」
 信じられない。ぼそっと吐いた菫子は、
 これからの日々を思いやって溜息をつく。
 幸せだ。こうなれてよかったと感じる。
 好きではなくて、愛している。
 恋の殻を破って生まれた愛。
 それは、臆病で、意地っ張りな菫子に涼が与えてくれたものだ。

 
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