「どうして、笑うの? 壊れちゃったのかな。
 これから起きることを考えればおかしくなってた方が楽かもね」
 余裕綽綽(よゆうしゃくしゃく)の相手に、決定的な事実を告げる。
「私は、あなたの物になんてならないわ。心も身体も彼に捧げてるんだもの!
 たとえ奪われても、大切な物は何一つ譲らない」
 強い口調で言い放つと、部長が豹変した。
 どうにか保っていた穏やかな態度がなくなり、ねめつける視線が降り注ぐ。
「そんなに気が強かったんだ。媚薬をかがされても虚勢を張れるだなんて」
「っ……いや……っ」
 部長が、覆い被さってくる。
 耳元に吹きかかる息に、ぞくっとした。
 不快感しかないはずなのに、身体は熱くなる一方で、けたたましい笑い声が響く。
「おや、すごい効果だ。よほど感度がいいと見える。
 ……彼のおかげだね」
 憎憎しげに呟くと襟元をくつろげられる。
 車で暴れた時みたいに手足は動かなくて、
 唇を噛んだら、拭うかのようにキスが降ってきた。
「傷つくだろう? 」
 青が、いつか言った言葉みたいに胸に染み込むことはない。
 身体ははけ口を求め、火傷しそうに熱い。
 乱暴に、ブラウスのボタンが外されて、手のひらが潜り込んでくる。
「んん……」
「ずいぶん着痩せするタイプみたいだ。
 柔らかくて気持ちいい。僕の手を押し返してくるよ」
 動かなかった身体が、ぴくりと反応した。
 知らず、腰が揺れているのを見た部長が、唾を飲み込んだ。
「駄目だよ。ゆっくり可愛がってあげるんだから。ね? 」
興奮を抑えきれない様子で、スーツのジャケットを脱ぎ放ち、
 もどかしげにワイシャツも脱いだ。
 見たくなくて、怖くなって必死で瞳をそらす。
「僕の物になる瞬間、君はどんな顔をするのかな」
 唇を奪われ、舌が入ってくる。
 からめ取られ、舌先を吸われて声がもれる。
 気持ちよくなんてない。何も感じない。
 暴力的な愛。
 果たしてこれを愛と呼ぶべきなのか、頤を振る。
 素肌が空気に触れてぶるりと、震えた頂を指先で弾かれた時、
 得体の知れない快感が走った。
 同時に自分の中で、何かが音を立てて壊れていく。
「っ……や、春日さん」
 思考が濁り、自分が何を言っているのか分からない。
 確かに自分から零れ出たのは部長の苗字で。
「学って呼んで……沙矢」
「まなぶ……っ」
 よくできましたと言わんばかりに頭を撫でられ髪を梳かれる。
 舌先が、頂をなぶるように舐めた。
「っああ」
 どくん。腰が揺れて、水音がたつ。
(いや……こんなの私じゃない)
 頬を染めて、吐息をこぼす。
 しつこく吸われ、揉みしだかれている。
 聞こえたいやらしい声は紛れもなく自分の物だった。 
 薄っすらと、浮かんだ赤い痕をかき消すかのごとく肌を吸われる。
 跳ねる身体は押さえられ、白い肌の上に舌先が這いまわる。
「全部消してやる」
 忌々しげな呟き。ついに指先が下腹に伸びた。
 ショーツの上から、なぞられて、びくんとした。
「感じすぎ。これじゃ我慢できないよ」
 声が、身体に直接響いた。
 ショーツが足首まで下げられ、秘部に指が入り込む。
「……こんなになっちゃって」
 指をつき立てられた瞬間、恐怖と共に我に返った。
「いや……やめて、やめて!! 」
 広げられた足。
 青しか許してはならない場所に、顔を埋める男。
 少しずつ戻ってきた感覚で、最悪の状況に陥っていることを知る。
 じたばたと暴れて、頭を蹴りつけた。許さない。
「せっかく、いい気持ちのまま済ませてやろうと思ったのに」
 また舌打ちだ。
 ベッドの下に落ちている下着を確認する。
「君の自我は強いね。とんだじゃじゃ馬だ……逃げられるはずないのに」
 怒りを宿した瞳が、見下ろしてくる。
 ベルトを外す音が聞こえた。
 片腕が容赦なくベッドに縫い付けられた。
「青……青っ!! 」
 声の限り、感情の限り叫ぶ。
覆い被さってくる男の荒い息が肌を掠めた。
 涙が瞳から零れ落ちた。
「なめた真似をしてくれたものだ」
 もう終わりだと思ったその時、大好きな人の声が聞こえた。
 幻聴……じゃない。
薄くまぶたを開いて、彼の腕の中から見下ろすと、
 ベッドから蹴り落とされた部長が床でうずくまっている。
 自分が先ほどまでつけていたネクタイで手首を縛られ、
 足もベルトを巻きつけられた格好だ。
 いつの間にそんなことになったのか分からなかった。
 一瞬の出来事で、状況がつかめない中、
ふわりとジャケットが素肌の上に被せられる。
「幼稚園で習わなかったのか。人の物は盗ってはいけませんってな」
 研ぎ澄まされた刃の声。
 聞いたことがない低さに、
彼を怒らせてしまったら  どうなるのか垣間見た。
 自分に向けられた怒りではないのに、怖い!
「どうしても手に入らない宝物を得るためには相応の代価が必要なんだぜ」
抱きかかえられた腕の中、涙がぽろぽろとこぼれる。
 彼の顔を見て笑いたい。笑顔を見せたいのに、
 シャツに顔を埋めたまま上げることができない。
 後ろめたくて、彼を見つめられないのだ。
「意外に早く来たんだ……」
 部長の声が震えている。
 案外気が小さかったらしい。
「どれだけ罪を重ねれば気が済む。自分のやっていることの分別ついてないのか」
「くうっ……」
 苦悶に呻く様子から、部長が蹴り上げられたのが分かった。
「ぼ、僕に何かしたら彼女にいい事ないよ」
「どの口が言ってるんだよ。いい加減状況を理解しろ」
 突如、パトカーのサイレンが、聞こえてきた。
 逃げ出そうと慌てふためく部長の足を、青が踏みつけた。
 声にならない悲鳴が聞こえたから分かった。
「怪我はしてないだろ。大げさな」
「……何でもする。許してくれ」
「手遅れだ」
 最終通告を言い渡し、青が部屋を出ようとする。
 ぎゅっ、としがみつく。
 久々に煙草の匂いを感じて、彼がどれだけ苛立ち、
不安に駆られていたのかを知った。
 包まれた衣服は温かくてまた泣けてきた。
「っ……青ーっ」
 いきなり泣き出した私を彼は、大事に包み込んで部長の家を後にした。
 宝物みたいに守られてる。
 最悪の状況から救ってくれたのは、たった一人の王子様。
 藤城青だから、私はすべてを許し分かつことが出来るのよ。

 ドアホンを鳴らしても、沙矢は出てこなかった。
 訝しみ、鍵を開ける。部屋の明かりはついていない。
 どこもかしこも真っ暗で、少し冷静さを失う。
 沙矢はまだ帰って来ていない。
 携帯には連絡はなかった。
 奇妙な状況に、彼女が上司に言い寄られていることを思い出す。
 もう大丈夫だと言っていたが、怪しいものだと思っていた。
 信じていないわけじゃなくて、
彼女が強がる節があると知っていたからだ。
 己の所業の数々で、何倍もの速さで大人にさせた。
 携帯の短縮から番号を呼び出しかける。
「……もしもし」
「誰だ」
 一瞬で、沙矢ではないと気づく。
 見知らぬ女の声に頭の中で、知りうる限りの可能性を組み立てていく。
 部長の妹という存在だろうか。
「何故沙矢の電話に出てる。彼女はどこだ」
 怒りで脳内が沸騰する。いや血液が沸き立っている。
「そうね。今頃はきっと兄さんに抱かれているんじゃないかしら……」
 とんでもない台詞をさらっと口にした。
「彼女はどこにいると聞いている」
「ねえ、先輩……、私を抱いて」
 耳を疑う。今この女の口走った言葉を二度と聞きたくないと思った。
 話の通じない相手に、苛々は増し、気づけば煙草を手にしていた。
 火をつけながら、彼女を一人にした自分の馬鹿さ加減を呪う。
 紫煙を見て余計に気分が不快になり、吸い始めたばかりの煙草を灰皿に押し付けた。
 足早に部屋を出て鍵をかける。
 受話器に耳を傾けた。
 沙矢の持ち物を奪い、見下げ果てた駆け引きをしてくる嫌な女の声を聴くために。
「キスだけでもいいわ……してくれたら彼女の居場所を教えてあげるわよ」
「ああ……、分かった」
「嬉しい。じゃあ彼女と私の働く会社まで来て」
 嬉々とした様子に吐き気を覚えた。
 内心、ごめん、沙矢と呟く。
 お前を助けるためならどんなことだってできるんだ。
 車を走らせ、沙矢の働く会社についた。
 駐車場に車を停め、鍵をかけると駐車場の隅に一台の車を発見した。
 王冠を模したデザインの白い車。
 近づいていくと、一人の女が降りて近づいてくる。
 かつん、かつん、と響くヒールの音さえ耳障りでうっとおしい。
「先輩……やっと逢えた」
 無邪気ささえ感じられる様子で、彼女は口にして俺の前で立ち止まった。
 見下ろし睥睨する。
「顔が整っているから、怒ったら、本当に怖いのね」
 怖がっている風でもなく言って、微笑んだ。
「先輩と呼んでくれるが、生憎ちっとも覚えていないんだ」
 吐き捨ててやれば、小さく笑う。
「はっきり言ってくれるわね……さすが藤城青」
 手をいきなり掴まれて、更に不快度が増した。
「教えてあげるから、約束」
 守ってと、薄い明かりの中距離を詰めてくる。
 きつい香水と化粧の匂い。
「そうだったな……」
 ぐい、と顎をつかむ。期待に潤んだ瞳がそこにはあった。
「ずっと好きだったの。忘れられなかったわ。
 まったく変ってないのね。本当に綺麗」
 うっとりと首に腕を絡めてくる。
 ひねり潰したいと、心の底から思った。
会社の明かりがまだ点いているので、お互いの顔を確認できている。
 俺としては見えずとも沙矢以外は皆同じだから関係ないが。
 吐息が絡むほど唇を近づけた時、間近で睨みつけた。
「さっさと言えよ。俺はそんなに安くないんだ。
 この唇もすべてが沙矢のものだからな」
あからさまな怒気をはらませて、囁く。
 急に身体の力が抜けたのか、その場に膝を折った女が、
「声まで怖いくらいに素敵……」
 ぶつぶつと漏らした。
 立ち上がれない様子の女の腕をひっ掴んで立たせてやった。
「水無月沙矢は、お兄様の家にいるわ。住所は……」
 聞き出すと、女が持ったままの沙矢の携帯をよこせと促す。
 大人しく渡した女の目は、正気とは程遠かった。
 念のために携帯で、警察に電話を掛けてから、車を動かした。



 青の手は大きいのに、怖くなくて背中を撫でてくれる心地よさだけしかない。
 どうしようもなく嬉しい。相反する悲しみで彼の顔を見られない。
 助けてくれたお礼を言わなければ。
 ちゃんと、彼は間に合った。
 私は過ちを犯したのかもしれないけれど、
 何も聞かずに宥めるように手のひらを動かしている。
 泣く権利はきっとない。私にも非は大いにある。
「大丈夫だ……もう大丈夫だからな」
 言い聞かせる声には先ほどの怒りはなく、陽だまりの優しさがあった。
「ごめんなさい……っ」
「お前が謝る事はないんだよ。気にするな」
 責めない彼に、罪悪感が募る。
 そして未だに冷めない身体の熱が、はけ口を求めている。
 こんな状態で、彼を求めるわけにはいかない。
 いつもの私じゃなければ、側にいられない。
 青が手伝ってくれて、パジャマを着て、ベッドに寝かせられている。
 ぽん、ぽん、と背中を規則的に撫でる動きに瞳を細める。
 ゆりかごの中で、守ってくれている。
 頬の滴を拭う指は滑らかで、思わず頬を摺り寄せた。
「沙矢は俺の宝物だ。誰にも奪わせないよ」
「……っく」
 切ない。
 こんな風に言ってくれる青に申し訳なくて仕方がなかった。
 頬を包む手を胸元まで誘導する。
 冷静でない胸がうるさく、鼓動を打っていた。
「沙矢? 」
「私、もうあなたに抱かれる資格がない」
「どうして? 」
「あなた以外に触られて、感じたわ」
「薬をかがされたんだろ。瓶が落ちてたよ」
「でも……っ」
 更に言い募ろうとする私の唇は、荒々しいキスで塞がれた。
 何度か、舌を絡め、口内で暴れた後キスが唐突に終わる。
「俺は今醜い嫉妬で焼き尽くされそうなんだ。
 お前に対して何をするか分からない。
 分かるか。俺はお前のことになると冷静さなんて簡単に失う」
 つ、頬を指が辿り首筋へ向かう。
   




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