一息つこうとコーヒーを飲んでいた時、背後に視線を感じた。
 振り返らずとも分かる。腐れ縁のあいつだ。
 もっとも、彼女以外の同期で俺の背後に立つ人間はいないが。
「藤城先生の澄ました顔とも、もうすぐお別れか」
「よかったじゃないか」
「正直、ここに残って欲しいけど。
 いつか、一緒に仕事したことが自慢話にできるのかしら」
 感慨深いつぶやきに、柄にもなく、感傷を覚えた。
「買いかぶらないでくれ」
「案外、向こうのほうが居心地いいかもね。
 藤城くんなら、プレッシャーに負けたりしないんだろうし」
 先生と呼ばれるより、よほどいい。
 医学部を卒業し、この病院に勤務し始めてから、
 色々なことを分かち合ってきた戦友のような存在だ。
 性別を超えた絆。
 決して恋愛感情は芽生えることはなかったが、
 仕事上では、よき仲間でありライバルでもあった。
 そういえば、宮本も沙矢の会社の健康診断を請け負っていた。
 俺は男性社員、宮本は女性社員。
 沙矢とも対面しているだろうが、特に言う必要はないと思ったのだ。
 結婚式に呼んだ時覚えていたら驚くだろう。
「……それはどうも」
 パソコンでデータの確認をし、立ち上がる。
 個人経営ではあるが、藤城総合病院はそこそこの規模だ。
 大学病院を離れることへの未練は、いつのまにやら消えていた。
 沙矢という存在がそばにいることで、考えも変わったらしい。
「宮本、そういえばこの間、真島さんに会った。
 スーパーで買物中だったんだが、すっかり大きくなってたな」
「ああ、藤城くんが、担当した妊婦さんか。
 あれから、半年よね」
「ああいうのを見ると俺は医者をやっててよかったと思う」
「クールそうに見えて意外に熱いからね」
 ちらり、見上げると同僚はふふんと笑い、詰所を後にした。
 俺は、医師として真面目に診察や治療をしているだけだ。
 藤城総合病院勤務になると、患者と向き合う毎日になる。
 環境の変化は俺に何をもたらすのだろう。
半年前、私生活(プライベート)では、沙矢との関係が煮詰まっていた。
 うまくいかないのは仕事が忙しいせいではなく、
 自分の不器用さ、至らなさのせいだった。
 気づいた時光が見えて、今は共に暮らし結婚までの道を着実に進んでいる。
 私生活でうまくいくと、より仕事にもやりがいを感じるようになった。
 医者だと気づかなかったのは、そこまで考える余裕がなかったからなのか。
 携帯を確認すると、沙矢からのメールが届いていて、素早く返信を打った。 
『帰ってお前に会えるまで、頑張るよ。
 疲れてるんだろうからお前も休憩していろ』
『ありがとう! ちょっと休んでご飯作るね。お風呂一緒に入ろう』
 ハートマークつきで返信され、動揺する。
 彼女と一緒に入れば、疲れも吹っ飛びそうだ。
 さすがに、邪(よこしま)なことは、考えていない。
 たまには、ドアホンを鳴らさずにドアを開けてみよう。
 ふと、そう思い持っていた鍵で玄関のドアを開けた。
 玄関のクロークに脱いだコートを入れる。
「ただいま」
「わっ……青、お帰りなさい」
 ダイニングへと向かうと、沙矢が慌ててこちらへ来ようとしていた。
 音で気づいたようだ。
「どうして今日は、ドアホン鳴らさなかったの。
 びっくりしちゃった」
「慌てて、こっちへ向かわせるの悪いと思って」
「……そんなことないわよ」
 ふるふると頭(かぶり)を振る。
 エプロンを外している様子から、入浴するつもりらしい。
 俺の手から鞄(かばん)を受け取り、満面の笑みを浮かべる。
 帰ったら、この顔が迎えてくれるのは本当にありがたい。
 共に暮らして二ヶ月余り。
 二人での毎日にはすっかり慣れ、孤独な日々をもはや忘れかけていた。
「沙矢、メールの言葉嬉しかった」
「お風呂のこと? 青と二人で入ると楽しいもの」
 俺の言わんとすることを察していた。
「いちゃいちゃ濃厚な時間を過ごせるからか」
「……う、うん」
 顔を赤らめる沙矢の頭をなでた。
「冗談だよ」
 彼女を残し、寝室に戻った。
 ジャケットを脱ぎ、鞄を置いて洗面室へ向かう。
 どうやら、先に入っているらしい。
 湯の流れる音が聞こえてくる。
 女性の方が入浴に時間がかかるから、その方がいいと思ったが。
 衣服を脱ぎ、浴室の扉を開く。
 姿を探すとシャワーを浴びているのを見つけた。
「さーや」
「きゃああっ……」
「驚きすぎだろ」
「……驚かせるんだもの」
 シャワーの音にもかき消されないほど大きな声だった。
「その大げさな反応見ると悪戯(いたずら)したくてしょうがなくなる」
 ちら、と振り向いた沙矢の肌は湯で火照(ほて)っていた。
 顔が赤いのは意識したからだ。
 俺はバスタブから湯おけに湯を入れ、洗い始めた。 
 案の定、俺のほうが先に洗い終わったので先にバスタブに浸かった。
 あの綺麗な長い髪は、普段の手入れの賜物なのだろう。
 湯気があっても、完全に隠れきっていない肢体。
 初めて抱いた時より、女性らしく艶かしさを増した。
 彼女に目をつけるなど許されないことだが、逆に彼女に魅力を感じない男など信じられない。
 見せつけて歩きたいが、誰にも見せたくない。
 帰宅したら、仕事のことを頭から切り離すことが、
 できるようになったのは、やはり共に暮らし始めてからだ。
 湯船に背中を預け、壁を見つめる。
 あまり見つめ続けても、恥じらうし、落ち着かないだろう。
 見たくなったら、見るけれど。
 お湯の波打つ音がする。
「青、お湯加減はいい? 」
「適温だ」
「よかった」
 向い合って、湯の中に身を沈めようとした華奢な体を引き寄せる。
 腕を引いて、胸の中に閉じ込めると、小さな声でうめいた。
「……も、もう」
「つれない態度をとるなよ」
「そんなつもりはなかったんだけど」
「意識してたのか? 」
「え、何も」
「風呂で密着する度に意識してたら、身がもたないぞ」
 喉で笑ったら、こてんと肩に顎が乗った。
「だって、明るいと全部見えちゃうし」
「俺も見られてるだろ」
「……うう」
 肩にそっと腕を回した。
 滑(すべ)らかな肌は新陳代謝も活発で、湯も弾く。
「……意識するなって言ったのに何してるの」
「あまりに綺麗だったから」
「やっぱり変なこと考えてるじゃない」
「考えてはないが」
 肩につい唇を寄せたら抗議された。
 軽い愛撫くらい許してほしいものだ。
 性的衝動につながっているものではない。
 彼女が黙ったので、特に文句はないようだと自己完結した。
 肩に指を這わせ、何度も唇を落とす。
 決して、乳房に手で触れたり、乳首を甘噛(あまが)みしたりはしない。
 慈しみたいだけだ。
「のぼせるから、そろそろ上がろうか」
「うん」
 沙矢を抱きたいのは愛しいからだが、常に欲情する獣(けだもの)ではないつもりだ。
 呆気無く雰囲気に飲まれそうになっていた沙矢に、うっかり乗せられるところだった。
 寝室で、寝るまでの時間は他愛もなく語らうのが常だ。
 ぽんぽんとシーツを叩くと彼女が、もぞもぞと潜り込んでくる。
 まだ部屋の照明は落としていないので、彼女の存在がしっかりと確かめられた。
 今日は上下のパジャマだ。可愛らしい柄に目を細める。
 ぴったりと身を寄せてきた彼女からは、風呂あがりの香りがした。
 違うシャンプーの匂いを嗅いでみる。髪を撫でるとくすぐったそうに笑う。
「青はどんな時でもいっぱい触るんだもの。
 ドキドキが止まらないわ」
「俺もお前といるとドキドキするよ」
 彼女の手を取り、胸元まで持ってくる。
「本当だ」
 俺の心臓の音を確かめた彼女が、声をあげる。
「仕事で緊張するのとは違う胸の高鳴りだな」
「人の命と接する職業だものね」
「緊張感と落ち着きと冷静さが必要だが、常に寄り添える存在でありたいとも思う」
「私には絶対無理だわ」
 俺の肩口でほう、と息をついた。
「さーやは、俺の心に寄り添う存在だよ」
「ありがと、青」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
 俺が、沙矢コンプレックスであることは間違いない。
 シスコンだの言われるより、自分でも認められる称号だ。
 可愛らしい寝顔を見てから、眠りについた。
 土曜日、午後まで仕事がある俺は沙矢と共に朝食をとった。
 わずかに後ろ髪をひかれる思いで、玄関の扉(ドア)に手をかけた時、
 振り向くと、エプロン姿の沙矢が微笑んでいた。
「行ってらっしゃい! 」
「ああ」
 くい、と指で手招きするとよろけつつこちらに体を寄せた。
「好きだよ」
 頬に口づけると、真っ赤になった彼女から、同じ言葉が返ってくる。
「今日、帰ったら出かけようか」
「うん」
 手を振る彼女に見送られ、扉を開けた。
 地下駐車場で、車に乗り込む。
 今の愛車とは今日でお別れだ。
 苦いことも、甘いことも含めて、彼女との記憶と思い出が、たくさん詰まっている。
 少し遠出になるが、海へ行こうか。
 あの日のように、貝殻を集めてみるのもいいかもしれない。
 寒くなったら、手を繋げばいい。
 帰ってからの予定を組み立て、ゆっくりと車を走らせ始めた。
 帰宅する頃、携帯電話に着信があるのに気づいた。
 面倒くさい人物の名前が表示されている。
 落ち着かないので、大学病院を出てコンビニまで来た所で車を止めた。
 タイミングよく、せっかちな人物はもう一度電話をかけてきた。
 面倒くさかったので、ホッとする。
「やあ、青、元気してる? 」
「元気ですよ。あなたも終わった頃ですよね」
「そうだよ。久々に沙矢ちゃんも誘って家(うち)においでよ」
「……どうしようか正直悩むところです」
 海に行く予定をぶち壊しにしてまで、会わなければいけない面々でもない。
「やっぱり君って大事なもの以外どうでも良いタイプなんだね」
「ええ。どうでもいいですね」
「結納も終わって晴れて許婚者同士になった
 君たちをお祝いしてあげようという優しさを無にする気かい? 」
 頼んでもないのに恩着せがましい。
 舌打ちしつつしれっと、言葉を返した。
「分かりました。一度家に帰って沙矢を連れて行きます」
「……待ってるよ」
 身勝手なと思ったが、乗るのも悪くはない。
 どうでもいいが、気になった。
 沙矢の携帯に電話をかけて、予定変更を伝えることにした。
「え……そうなんだ! 分かった。準備しておくわね」
「嫌なら断ってもいいんだぞ。
 向こうの勝手なんだし」
「せっかく、誘ってくださったんだもの。
 砌くんにもまた会いたいし」
 電話越し、うきうきしている様子が伝わってくる。
「……とりあえず、準備しておいてくれ」
「はーい」
 沙矢を迎えに戻り、着替えた後再び車を走らせた。
「お兄さま、青によく連絡くれるの? 仲良しね」
「いや、そんなに連絡取ってないよ。
 いきなり予期せぬ連絡してくるんだ。
 歳も離れてるから、未だに子供扱いしている節もあるし」
「離れているように見えないのが怖い気もするわ。
 青の年齢も見た目じゃわからないけど」
「……老けてるのか」
「逆よ」
 他愛もない話をしている間に見慣れた一軒家が見えてきた。
 二台停まった車に、自転車が一台見える。
 どうやら、砌もいるようだ。
 コンパクトカーに、セダン。
 どちらもよく手入れされていた。
 ガレージに車を止め、助手席の扉を開ける。
「最後にお邪魔してから三週間経ってないわね」
「そうだな……」
 手を繋いで階段を上がり、ドアホンを鳴らした。
『はーい』
「お招きに預かりまして」
『どうぞー今開けるわね』
 わずかの時間の後、翠が扉を開けた。
「こんにちはー」
「いらっしゃい、沙矢ちゃん、青」
「沙矢ねえ、いらっしゃい! あ、せい兄もいらっしゃい」
 瞳の端に検をにじませたのを砌は敏感に察知し、後ろにのけぞった。
「「お邪魔します」」
「それじゃ、ゆっくりしていってね、沙矢ねえ」
 入れ違いに玄関の扉に手をかけた砌は、気が急いているようだった。
「また、ゆっくり会いましょうね! 」
 砌は、沙矢の言葉に顔を赤くし、慌てて家を出て行った。
 



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