Crimson moon


雲の隙間から月光が漏れている。
 私はその光景を窓から見上げていた。
 左手にはワイングラス。
 妖しく輝く真紅の月と同じ赤い液体。
 それをくいと一気に飲み干すと、体中が火照り始める。
 不思議な感覚が脳を巡り、私は違う自分になる。
   後ろには人を待ち侘びている真っ赤なベッド。
 赤は人を狂わせる。  血が滾るとか言うけれど。
 真っ白だった部屋を真っ赤に染めた理由は、
 愛し合える場所を情熱的に演出したかったし、
 私自身赤に惹かれていたからだ。
 彼と出会って今までの自分が全部消え失せて、生まれ変わったのだ。
 忌み嫌っていた赤を好むようになるなんて……。
 今、彼はシャワーを浴びている最中だ。
 私は、とっくにシャワーを終え、白のバスローブに
 ショールを纏って窓辺に佇んでいる。
 お酒を飲んで、醜いことを思い描く。
 たまには、彼を私が狂わせてみたいもの。
 お酒の力を借りるなんて大胆になったものだ。
 モラルを破り捨てることも怖くないのだから。
(これは最後の賭けよ。
 体だけの関係から抜け出して微笑み合う恋人同士になりたい)
 この辺で勝負に出てもいいだろう。
 もし嫌われて終わりを告げられてもいい。
 私から彼を求めたことが、心の記憶に残るならそれだけでいい。
 思いついたのはいいが、問題があった。
早生まれのため、まだ20歳の誕生日が来ていない私はアルコールを買うことが出来なかった。
 そこで友達の助けを借りる方法を選んだ。
 すなわち買ってきてもらうのだ。
 7月が誕生日の彼女は成人していてアルコールが買うことが出来る。
 切り出すのはかなり気がひけたのだけれど、
 どうしても、作戦を決行するしかなかった。
 こんな浅はかな方法しか思いつかないなんて子供だ。
 彼だってそう思うに違いない。
 二人で食事を終えた後、話を切り出した。
 息を飲み込んで、視線を合わせる。
  『お願いがあるの……』
『何よ、改まっちゃって』
『実は』
 陽香はこくりと頷いて了承を示してくれた。
 ありがとうと何度もお礼を言う。
 必要以上には聞かないことを知っていて頼むのだからずるいと思う。
 上手く話せないままでいるのに決して責める事はせず
 上手に聞き役に徹してくれていた。
 レシートと共に後日代金を支払うということで話はついた。
 どれだけ感謝しても足りないくらいだ。
 ごめんなさい。ありがとうと呟いたら別にいいわよと笑ってくれた
 優しい彼女には、どれだけ感謝してもし足りない。
 無事にワインを受け取った翌日の午後。
 会社から出て、人に隠れるように携帯電話を手にした。
 登録した番号を呼び出すと、すぐに相手が出てくれた。
「青……」
 ほっ、と息をついたら彼は、小さく笑ったみたいだった。
「あのね……、今夜、私の部屋に来て』
 途中で、言葉がつかえて言えなくなってしまったが、
 受話器の向こう側では辛抱強くこちらを待ってくれていた。
『車で一緒に帰るか』
『ううん、バスで帰るから迎えに来なくていい』
 冷静で、当たり前のように発せられた言葉に胸のどこかが痛んだ。
 優しくされて辛いだなんて。冷たくされたいわけじゃないのに。
 先の見えない関係で、彼の本当を知らないまま
 形だけのぬくもりを受け止めるのが、ほんの少しきついのだ。
 彼ともっと親密な関係を築けたならば素直に甘えられるかな。
『ありがとう』
 そう、一言添えるのが精一杯だった。
 気が急いてしまうのを堪えて一日を終える。
 早く会いたい。あの人の姿を瞳に映したい。
 アパートの部屋へ戻ると、お風呂に入った。
 一日分の汗を洗い流して、彼を迎えたい。
 一緒に入りたい……なんて言えないし。
 ユニットバスなので青のマンションのお風呂と違い二人で入ると狭いのだ。
 長身で体の大きな彼は一人で入るのも窮屈だろう。
 体を念入りに洗い、シャンプーをしてお風呂を出た。
 洗面所に出たところではた、と考える。
(どうしよう。服を着ようかしら。でも……)
 チェストから折り畳んだバスローブを取り出す。
 自然と顔が火照った。
 これを着てご飯作るのも変だけど、一度服を着るのもおかしい気がした。
 青から贈られたバスローブは、上質の生地でできていて
 肌触りも最高だった。
   青と過ごすために着るのだと、一人でいる時に着ることができなかった。
 実はこれを着るのは今日が初めてだった。
 髪をバレッタでまとめピンを刺す。
 青が、気に入ってくれている長い黒髪は、料理の時は邪魔だった。
 鏡に映った自分の姿は、メイクも落とした素顔。
 これも彼が自然のままがいいと言ってくれたから。
 元々昼間に会い、一日を過ごすことが珍しいので化粧をしていない姿で
 接することのほうが多いのだけれど。
夕食を作る。豪勢でもないけど精一杯心を込めて。
 喜んでもらえたら何より嬉しい。
 一人でする食事より彼が一緒の食事のほうがずっと美味しく感じられた。
 たとえ、ほのぼのとした時間を過ごせなくても。
 玄関で、チャイムの音が聞こえた。
 耳をすませながら向かうと、もう一度鳴った。ゆっくりと押す感じが好きだ。
 人によって早く鳴らしたり、テンポが違うが、彼は、割とゆっくりと押す。
 決してしつこく鳴らさないから焦燥感に駆られる。
 ドアを開けると、吐息がひとつ聞こえた。
 今日も完璧なたたずまい。仕事を終えた後だというのに
 疲れてくたびれた様子はなく、颯爽としていた。
「久しぶり……と言った方がいいのか」
 小さく笑って頭を振った。
「いらっしゃい、青」
 何だか、とてもホッとしている。
 自然と頬を緩めてしまう。
 そっと手を差し出したら、強く掴まれて彼の引力に引き寄せられる。
 頭に顔を埋めて匂いをかいでいるようだ。
「一緒に入りたくなかったのか? 」
「違うの……、お風呂狭いから」
 つかまれた顎。正面から鋭い視線で見つめられ、びくりとした。
 ふいに彼の手が髪に伸びたと思ったらヘアピンが抜かれ、バレッタも外されてしまった。
 解かれた髪が背を落ちる。
「青っ……」
 身じろぎすれば、さらにきつく抱きしめられる。
 口づけが、重なる。間を置かず繰り返されるキスに、息もつけない。
 体の力が入らなくなり、ぎゅ、と袖を掴む。
 玄関先で抱かれて、激しいキスをされるなんて、思わなかった。
 今まで理性で堪えていたの?
 欲情をあらわにしている様子に、たまらなくなった。
 私が欲しがっても許されるの。
 背中を指先が滑り、慌てて鷲づかんだ。
 弾む息は、お互いが同じ事を求めていると知らせるかのよう。
 糸が途切れるたびに新しく糸ができる。
 舌と唇を愛撫され、彼の唇にも舌を絡める。
 唇の中に直接注がれた言葉に、どくんと心臓が跳ね上がった。 
「今夜は、どんな風に楽しませてくれるんだ? 」
 体が打ち震えて、彼の袖を掴む。
「来て……」
 寝室へと導くために、手を引いた。
 従ってくれる姿に、心が舞い躍ってしまう。
 口の端が上がった気がして、感情のゆれを垣間見たのだ。
 部屋にたどり着いて足を止める。
 彼を振り返ったら謎めいた表情を浮かべていた。
 元々表情が大きく変化する人ではないから、何を考えているか察する事は難しい。
 ベッドも枕カバーも赤い色に変えたこの部屋をどう思ったの。
 女の子っぽいチェック柄なのでそう引かれる事はないはず。
 微笑んだら、彼が食い入るように見つめて、こちらを捉えた。
 欲情に滾る眼差しだと、分かった。
 ごくん、と唾を飲んで話しかける。 
「お風呂入ってくる? 」
 あからさまだろうか。ううんと自分で否定して口にした。
 彼はあっさりと切り返す。
「先に食事を始めないか」
 こくりと頷いて台所へ戻った。
 彼の座る椅子を引いて、隣の椅子に腰を下ろす。
 食事を盛り分けていると、彼がワインを見ているのに気づいた。
「……ワインはね、友達に買ってきてもらったの。
 その子の方が誕生日早いから。
 ごめん……少しだけ話してる」
 気まずくて、唇が空回るよう。
 大丈夫、そんなに詳しい事は言ったりしてないわ。
 二人だけの記憶は大切だもの。
「お前も、案外悪いな」
 咎められたのかと一瞬固まってしまう。
「自分も飲むつもりなんだろう?
 わざわざ俺に飲ませるためだけに用意したんじゃないよな? 」
 どきん。心臓がバクバクする。
 見抜かれてしまっているの?
鋭い言葉と視線にうろたえた。
「友達もお前が飲むと分かってて協力してくれたんだろうな」
「うう……ごめんなさい」
「図星を指されて謝ってるってことか」
 耳元に低く囁かれ顔が真っ赤になる。
 怖いけど、彼はどこか楽しんでいて決して咎めているわけではないような気がした。
 唾を飲み込む。
「私、少しでも大胆になってあなたを……」
 唾を飲み、唇を舐めて湿らせてもまだ乾いている。
 声が、擦れてしまった。
「あなたを? 」
「……惑わせたかった」
上目遣いで見つめる。
 彼が長身だから必然と見上げる体勢になってしまうけれど
 見下ろされるのも嫌じゃなかった。
「冷めちゃうから食べましょう」
 気恥ずかしくなって、慌てて口走る。
「そうだな」
 青が、微笑み、私の手を掴むから、思わず離そうとした。
 ぎゅっと目を瞑る。意識してなくても彼は、不快だったらしい。
 目を細め私の手を強く握り締めた。
 もう、どうしたらいいか分からない。
 こんなことで主導権を握れるのだろうか。
ワインを勧めようと、思ったらやんわりと断られる。
「今はワインはいい。まあ後でもらうかな」
「分かった」
「お前は勝手に飲んでもいいぜ」
 否と首を振りかけたけれど、頷く。
 どうせばれているのだから、今更取り繕っても無駄だ。 
「バスルーム使わせてもらうよ」
「どうぞ。タオルも籠の中にあるから」
 小さく笑う彼に、首を振る。
 彼の笑顔にこんなにときめくなんて。
 何気なくお礼をしてくれた彼に、胸がつまった。


 自ら彼を誘惑して堕とそうとしている。
 私にそれができるの?
何度となく問いかけたけれど、私たちにはこんな方法が相応しい。
 お風呂から出てきた彼を振り返る。
「青……」
 声が震えてしまう。彼を見上げて瞳を細める。
 微笑みかけた後、背伸びをして口づけた。
 彼の首に腕を巻きつけて、唇を重ねる。
 淡く、そして激しく口づける。
 彼は一瞬だけ驚いた顔で目を見開いていたけど
 やがて口づけを返してきた。
 こんな貴重な姿、二度と見られないわ。
 私から舌を差し入れ絡め合わせる。
「せい……好き」
 互いに舌を絡ませ口づけをしあっていると、
 体の力が少しずつ抜けていくみたい。
 私は何とか耐えて、彼のバスローブに手を伸ばす。
 あっけなく床に落ちた布の塊に息を飲む。
 恥ずかしさを誤魔化すように彼をベッドへと連れて行く。
 アルコールのせいで体が、かっ、かと火照っていた。
 気分が高揚しているおかげで、こんな大胆な振る舞いができる。
 ベッドに横たわった青の上に覆いかぶさる。
 ぎゅっ、と首筋に腕を絡めても、彼は何もしてこない。
 私の出方を窺っているのだろう。
 もう、理性なんてどこかに忘れてきたのよ。
 今日は、最初で最後の賭けなんだから。言い聞かせて、耳朶に舌を這わせる。
 愛撫を繰り返すうちに、青が切ない声を漏らし始めた。

 彼が好きにさせてくれていただけで、結局翻弄なんてできなかった。
 あっという間に形勢逆転されて彼の思うがままに、腕の中で乱れてしまったからだ。
 それでも貴重な夜を過ごせた事は間違いない。
 目線で問いかける青に、こくんと頷く。
 微かに申し訳なさそうに苦笑して彼は煙草をくわえた。
 立ち上がりながら火をつけて窓辺に向かう。
 窓を小さな隙間だけ開けて紫煙をくゆらせ始めた。
 前髪をかき上げる。夜明けの光の中彼の髪の色が、淡く輝いていた。
 見とれながら、立ち上がる。腰が疼いて足がもつれるけれど構わない。
 どうにか彼の側にたどり着いたとき長い腕が伸びてきて髪を梳いた。
「お前に会わなければ、こんな気持ちを知ることもなかったな」
 柔らかく髪を撫でられて、私は微笑んだ。瞳の奥に熱い滴が生まれていた。
 彼の言葉の意味は分からなかったけれど、決して悪い意味ではないと感じた。





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