第15章


 手紙は、城からディアン宛てに送った。
 一言のみで素っ気なかっただろうか。
突然、王女から手紙が届いて、トリコロール伯爵は驚いたかもしれない。
 心なしか赤く染まった頬は熱く、どきどきしているのは彼に恋してるから。
 気持ちが通じたことは単純に嬉しい。
 キスされたことを思いだすだけで胸が熱くなる。
 ディアンがくれた勇気で、口に出せた。
 部屋に戻り、ベッドに入った。
 窓を開けて息を吸い込む。
 約束の時間にはまだ余裕があるが、気がせいてしまう。
 朝の冷たい空気に身を震わせながら、薔薇園を目指した。
 リシェラは花の香りに迎えられた。
 甘く香る薔薇は、真紅、桃色、黄色、白と色とりどりに咲き誇っている。
 雨は憂鬱だけれど雨に濡れた薔薇も格別だ。
 セラという薄桃色の薔薇は、父王ゼウスが植えたものだ。
 母の名前に愛の強さを感じるが、この薔薇を見てどこか寂しそうにしていた母の姿ばかり思いだす。
 この薔薇だけは、咲かせないで。
 あの言葉の意味、いつか教えてくれるのだろうか。
 手袋を嵌めた手で、セラの花びらに触れる。
「お母さま」
 つぶやいた時、がさがさと音がした。
 早朝の薔薇園を訪れる者といえば……。
「ディアン!」
 後ろを振り返った時、
「申し訳ない、ディアンではなくて」
 笑う気配に背筋が震えた。
 ディアンよりも低音の艶めいた声。
 そして長身。
「ザイス……」
「こんな時間に、こんな場所で危ないですよ」
 少しずつ歩み寄ってくるザイスをリシェラは睨みつけた。
 体格差で上目遣いになる。
「あなたには関係ないわ」
ザイスは、大げさな身振りをしてその言をかわした。
「どうしてここへ」
「私もその台詞をそっくりお返ししますよ」
 今までのザイスに感じたことがない危機感。
 胸が鳴らす警告に従い、リシェラは後ずさり駆けだそうとしたが、
 薔薇の蔦に足を取られ、転んでしまった。
 悔しくて、情けなくて唇を噛む。
「馬鹿な方だ」
 ため息とともに吐かれ、羞恥と怒りがこみあげた。
 足首をひねったらしく、痛みで顔をしかめる。
 おまけに薔薇の棘で無残な傷が脛に走っている。
「大丈夫……じゃなさそうですね」
 差し伸べられた手を払いのけて、
「ほうっておいて! 用がないのなら、さっさと向こうへ行ってちょうだい」
 このまま見下ろされているのは我慢ならなかった。
「そうはいかない……せっかくのふたりきりなのに」
 後ろに下がろうとしたが、逆効果で、余計に体勢を崩す結果になった。
 尻餅をつき、地面に肘をつく。
 痛いほどきつく手のひらで地を掴む。震える拳を握り締める。
 腰をかがめたザイスが、地面に肘をつく。
 覆い被さるような体勢に上げた悲鳴は難なく封じ込められた。
 ふさがれた唇から忍び込んだ何かに悪寒が走る。
 熱くて、おぞましい。
 鼻持ちならない嫌なやつだと思っていたけど、まさかこんなことをされるなんて。
 油断してしまった。
 隙だらけの自分を悔いた。
 既に遅いけれど、このまま奪われたままで抵抗できずにいるなんて、
 自分に腹が立つではないか。
 渾身の力を込めて噛みついた。
 がりっ。嫌な音がする。
「……っ……」
 唇に浅い傷をつけられたザイスが自分の血を腕で乱暴に拭っている。
 次は腕を振り上げて、頬を打つ。小気味よい音が響いた。
 さすがに怯んだザイスがリシェラから離れた。
「烈火の気性をお持ちだな」
 口を歪めて愉快そうなザイスに、ただ腹が立つ。
「リシェラ王女、最初からあなたは冷たくそっけなかった。
 私は孤高の気高さに惹かれずにはいられないのです。
 ただ一人の騎士にはそんな姿見せないのでしょう。
 冷酷で高慢なプリンセスを知っているのは俺だけだ」
 くっくっく。
「あなたが、どんなにディアンを想っていても現実は甘くない。
 王族は、気軽な恋など許されないからだ。
 ひとときの戯れならばまだいいだろうが……」
「黙って……」
「私なら、あなたとずっと一緒にいることができます
 お互いを不幸にすることもなく」
 どことなく甘いささやき。虫唾が走るほど嫌いだ。
 今日初めて憎いと感じた。
 何か言い返したいのに言葉が浮かばない。
 初めての恋をあっさり否定されて現実を突きつけられて。
 王女という生にがんじがらめにされた気がした。
 涙を見せたくなくて歯を食いしばった。
「……夢見がちなあなたにはシビアすぎたかな?」
 耳にこびりつく声を残し、ザイスが去っていく。
 痛みで立ち上がれない。
 暫く蹲ったままでいると、革靴の音が響いた。
 視線を上向けると、ディアンがひどく動揺した様子で手を差し伸べていた。
 痛ましそうな顔を向けて、気遣うように表情を和らげる。
「リシェラさま」
 差し出された手を握ると強く握り返してくれた。
 優しい表情にほっとしたら涙がじわりとこみ上げてきた。
 ぽろぽろと落ちる涙をガーゼで拭い、ディアンはリシェラを抱きあげた。
 こんなに傷ついているのに、どきどき心臓が高鳴る音だけは止まらない。
「お部屋に戻りましょう」
 ぎゅっと首に腕を回してしがみつきながら、部屋へと戻る。
 リシェラは、すすり泣く声を押し殺していた。
 部屋に戻り、ディアンに傷の手当てをされながら、目をガーゼで押さえる。
 泣きすぎて目が真っ赤になっていた。
「ごめんなさい」
「何故謝るんですか」
 ふるふると首を振る。
「もっと早くあの場に駆けつけていれば、あなたを危険な目に合わせたりしなかったのに」
 拳を握るディアンに、リシェラは顔を覆った。
 一部始終を話すことはできない。
 ザイスに唇を奪われたことを知られたくなかった。
「ううん、私がドジなだけよ」
 茶化して場を乗り切ろうとしたが、
「無理をしないで下さい」
 そっと抱きすくめられる。
 包み込まれて心強く感じた。 
 転んだだけではあんなに泣かないだろうことを気取られているだろう。
 何も聞かず抱きしめてくれるから、リシェラは、脳内からザイスに
 言われたことを一瞬、頭の中から消すことができた。
「ありがとう……ディアン」
「今日は学園は休んでください。
 応急処置はしておきましたが、医師の診察も受けなければなりませんし」
「行くわよ、これくらい平気だもの」
 ディアンはどうぞと言う風に手のひらを横に倒した。
 少し意地悪な表情に見えたのは気のせいだろうか。
 リシェラは、頬を膨らませて、ベッドから足を床に下ろした。
 歩き出そうとした瞬間、痛みで顔をしかめた。
くねらせた膝が無様で滑稽だ。
 床を滑るつま先が、歯がゆい。
 倒れこむ前に、ディアンの腕が支えて、もう一度ベッドの上に下ろした。
「ろくに歩けないのに行けるはずないでしょう」
「う……とりあえず先生に診てもらうわ」
 ディアンは苦笑し部屋を出て行く。
 医師を伴い、戻ってきた彼が後ろに下がろうとしたが、
 リシェラは、ディアンの衣服の裾を掴んで離さなかった。
 ディアンはこくりと頷くとリシェラの手を握った。
 医師はその様子をほほえましそうに見つめていた。
 アルスティア・ウィン。女性医師である。
 眼鏡をかけて淡い栗色の髪と同色の瞳をしている。
 足に触れて、
「捻挫ですね。ちょっとひどいけど……」
 そう言ったアルスティア医師は、手際よく薬を塗って、足に包帯を巻いた。
 厚く巻かれた包帯は、かなりの大怪我をしているように見える。
「診察を続けたいので、君は出てくれないか」
 ディアンは滅多に会う機会のない王宮医師の口調に驚いていた。
 見た目は女性らしい女性である。
 リシェラは慣れたものだ。
「私は構わないわ」
 王女はしれっとしているが、アルスティア医師は、しかめっ面で目配せした。
 ようやく意味を悟ったディアンは赤面した。
「すぐ戻りますから」
 緩く笑んだディアンは、そう言い置いて部屋を出て行った。
 すべてを知られたくはないのに、心細いから側にいてほしいなんて
 身勝手にも程がある。自分を恥じながら、リシェラは、医師に向き直る。
 肌を晒さなければならないのだが、相手が女性なので気負うことなく衣服を脱いだ。
 背中を打っていて、痣があるらしい。
 塗り薬が沁みて顔をしかめる。
 この分だと、入浴の際、侍女に手伝ってもらわなければならないだろう。
 幸い、腕はかすり傷程度ですんだが、足を怪我し背中には痣までこさえた。
 状況も悪かったが、注意力が散漫だった自分も悪いと思う。
 あのときのザイスは、恐ろしくて、早く目の前から逃げたくて仕方がなかったのだ。
 衝動のままに行動した結果がこの様だけれど。
「学園はお休みされた方がいい。今日1日ゆっくりとお過ごし頂かねばね」
 リシェラはしょんぼりと肩を落とした。
「この通り元気ですよ、アルスティアせーんせ」
 無駄に明るい口調で言い、腕を動かしたり足をぷらぷら揺らしてみたのだが、
「今無茶したら余計悪化させるだけって分かりますね?」
 笑顔でちくり、と言われリシェラは、はーいと弱々しく答えた。
 医師が出ていくのと入れ違いにディアンが部屋に入ってくる。
「休まなきゃ駄目みたい」
 ぼそりと呟くとディアンは含み聞かせるように、
「明日からまた一緒に行けるじゃないですか。
当然ながら無理は禁物ですけど」
「分かってるわ。ディアン、時間大丈夫?」
「そろそろですかね」
 ついていてほしいという気持ちはさらさらないがやっぱり寂しいリシェラである。
「屋敷に戻る前にお城に寄ります」
「うん……行ってらっしゃい」
「はい、行って参ります、ご主人さま」
 にっこり微笑んだディアンがおどけて会釈する。
 心が少し和んだ気がした。
「あ、やっと笑ってくれましたね」
 リシェラは今まで明るい表情をしていなかったことを知った。
 多分、医師には怪我を負って元気をなくしていると思われただろうが、
 ディアンは憔悴したリシェラを目の当たりにしていた。
 きびすを返して去ろうとするディアンが、
「いつか……話せるようなら聞かせてください」
 さりげない調子で言った。
 頷き、窓から手を振って彼を見送ると、身を横たえて布団をかぶった。
 顔の辺りまで引き上げて、
「……好きにならないなんて無理よ」
 一瞬、一瞬、前より気持ちが増していくのに。
 強がってはみたけれど、本当は心底疲れていた。
 体が眠りを必要としているのは明らかで。
 とにかく眠りたい。
 治ったら一緒に薔薇園にいこう。
 ひとしずくの涙を落としてリシェラは眠りについた。


約束通り、ディアンは、夕刻リシェラの部屋を訪れた。
ベッドではなく、テーブルの椅子に座っていたリシェラは
部屋に入ってきたディアンに満面の笑みを浮かべた。
「……待ちくたびれちゃった」
「実は一度屋敷に戻りまして、ジャックさんに伝えてきました。
リシェラ様が怪我をされたのでお見舞いにいくことを」
「……まあ」
うわー穴に埋まりたいとリシェラは思った。
「預かってきたお見舞いです」
小さな鉢植えの花は、メッセージカードが添えられている。
 目ざとく見つけたリシェラが、鉢に差し込まれたカードを手に取った。
 かわいいと小さな呟き。
「よくお礼言っておいてね」
リシェラは表情をほころばせた。
「今日、どうだった?」
「リシェラさまがいらっしゃらなくて寂しかったです」
「馬鹿……本気で言わないでよ」
リシェラは俯いて、ディアンの衣服に手を伸ばした。
ぺたぺたと触れて頬を擦り寄せた。
ディアンの腰に腕を回ししがみつく。
「好きでいてもいい……」
懇願に聞こえたディアンは泣きそうになった。
やるせない。
膝をついて正面から抱きしめる。
「俺こそ……」
従者ではなく、騎士でもなく、ディアンとして側にいていいですか?
強くなりたい。
ワンピースの裾から覗く足は白い包帯が巻かれている。
ディアンはその足をそっと擦った。
気安めでも早くよくなりますようにと願いをこめて。
しくしくと泣く声にいたたまれなさを感じる。
髪を撫で髪の一筋にキスをして、身体を離した。
「また明日の朝、来ます」
「馬車行きなさいって、お父様もお母様も仰って、アルスティア先生もその方がいいって」
「私もそうした方がいいと思います」
「時間がかかってもディアンと歩いて行きたかったんだけど……
しょうがないわね」
「治ったらまた歩いていけばいいじゃないですか」
「そうね……馬車でもディアンが一緒だものね」
ディアンはベッドに体を横たえるのを手伝った。
耳元で、
「おやすみなさい……」
と囁くとリシェラは頬に手のひらを当てながら、
「おやすみなさい」
と微笑んだ。
ディアンは目元が腫れ、赤いままのリシェラを見るのがつらかった。
どこか陰りを帯びた瞳に光を取り戻したい。


 あと一歩の所で至らない自分にほとほと嫌気がさす。
「くそ!」
 口汚く毒づく。
 ディアンは、行き場のない怒りでいっぱいだった。
 学園ではどうにか平静を保ったが、屋敷に戻った途端理性を放り投げた。
 さすが、貴族の屋敷というべきか壁が厚いので外には漏れないだろう。
 頭が冷えた時、惨状にうんざりしながら片付けるのは自分だ。
 時は戻らない。
 部屋の物に当たり散らして気を紛らわすしかできない。
 無力な己が情けなさ過ぎた。
 住まわせてくれているジャックには申し訳ないが、気にする余裕はない。
 あれほど傷ついた姿をみたのは初めてだ。
 転倒して怪我を負ったことではなく、もっと根深いもので苦しんでいる様子が見受けられた。
 精神的に。
 何があったのか。
 だが、わからない。
 自分にできるのは待つことだけだ。
 ディアンは、眠れぬ夜を過ごしていた。



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