第17章


 自分がどうしてあんな軽挙なふるまいをしてしまったのか。
 ただ、あの警戒心が強いのにどこか無防備な姿にやられた。
 もっと年若かったなら更に酷い真似をしていたと確信する。
 あの瞳が忘れられない。
 憎しみに滾る眼差しで見つめてきたリシェラは、とても美しかった。
 成長しあの美貌の王妃にますます似てきた。
 髪をかき上げる。葉巻をくわえて窓を開けた。
 公爵家の別邸は最低限の人数の使用人しかいないから、くつろげた。
 未だ、何の咎めもないことを見れば、罪は明らかになっていないのか。
 リシェラは、事を大げさにしたくなかったのだ。
 く、くっとのど越しに笑いが漏れる。誇りが高い。
 まさに女王だ。最初から太刀打ちできるはずなかった。
 つきまとう悔い。
 あなたにどう懺悔すればいいのか。
 許してもらえずとも、想う気持ちは本物なのだとどう伝えれば分かってもらえる。
 自身へのいら立ちから、逃れようと遊館を訪れてみても、欲は満たせなかった。
 美しい容姿でも、男を惹きつける体をしていても関係ない。
 抱けないのだから。
 遊館でひと時の飢えを満たすのは、空しいと思えたから
 これまで足を向けたこともなかったのだけれど、  最近はどうもおかしい。
 父公爵にも真面目すぎる。
少しは遊べと言われていたほどなのにこの無様な変わりようは、なんだ。
(多分、あの従者兼騎士はそういうのとは縁がないのだろう。清廉潔白なのだろうな。
 あなたに憎まれているなら、本望だ。少しでも心に痕を残せたのならば。
怪我をさせてしまったことは、本当に謝っても謝り足りないけれど。
 会いたい……リシェラ)
 窓から、坂の向こうにそびえる王城を眺めながら、ザイスは溜息をついた。


「……何のご用ですか」
「用があるから来たんだよ」
 ディアンは、学園の門で声をかけてきたザイス・アルヴァンに訝しげな態度を隠せない。
 リシェラが、離れた隙を狙って声をかけてくるなんてずっと見ていたとしか思えない。
「あなたの顔なんて見たくないんですけど」
「少し話さないか。リシェラ様はお友達と話し込んでおられるようだ」
リシェラは学友と楽しそうに語らっていた。
忘れ物を取りに行った帰りに引き留められたのだ。
 話に夢中なのでこちらに気づく気配はない。今のところは。
「ああ……声をかけられて邪険にできる人じゃありませんからね」
「ちょっとゆっくり話そうか」
 腕を強引に引っ張られ、馬車に乗せられる。
 とりつくろう必要もないなと敵意をむき出しにしてザイスと向かい合う。
「怪我が治ったみたいでよかった」
 奇妙な早口はディアンが聞き取ることを望んでいない。
 罵りたい気持ちを抑えて、ディアンは口を開いた。
 さっさとこの男の用件とやらを片付けてリシェラのもとに戻らなければ。
「……ゆっくり話すこともありませんが。それとも何か弁解しようとでも言うんですかね」
「ああ、俺に全面的に非があるよ。彼女を傷つけて苦しめたことは取り返しがつかない」
 項垂れているザイスに、ディアンは唖然とする。どの面下げて言えるのだと。
 帯剣は大げさすぎると陛下に申し出てよかった。剣を持っていたら、
 切りかかっていたやも知れない。
 一度戦に出てから己の中の修羅を自覚しているのだ。
「……あんなことをしてしまった自分が恥ずかしい。リシェラ様を見て
 抑えが利かなくなった。情けないことに理性のタガが壊れたんだ」
「は……、あんた貴族以前に人としてどうなんだよ」
ディアンは呆れた。
 一応、後悔はしているらしいが、開き直っているようにも見えて腹が立つ。
 どうして、わざわざ自分にこんな話をするんだ。
「リシェラ様には会えるはずもない。許しを乞うなんてみじめになるだけだろ。
 だけど、この胸の内を誰かに聞いてもらいたくて……」
「勝手だ。リシェラ様の顔を罪悪感で見られないからって、
なんで俺が聞かなきゃならない」
「俺を憎んでいるだろう君に聞いてほしかった」
「そうやって、悪ぶっていればいい。
 本当のあんたを知らないままリシェラ様は、あっさり忘れるよ。
 きっとね」
 ディアンが突き放すと、ザイスは苦笑した。
「欲しいだろ、彼女が」
「リシェラ様は、物じゃない」
「君もいつかは、リシェラ様を抱きたいと思うようになる」
「……やめろ」
 聞きたくなかった。この淡い時間を大切にしていたかったから。
 ただでさえ不安定な関係だ。
「意外にも、意味はしっかり分かっているようだ……君も男ってことか」
 カッ、と頬が熱くなる。
 リシェラ様に恐怖を与えた最悪の男に同調するつもりなどない。
 自分の想いが穢される。
 ディアンから発する不穏な気配に気づいたのか、ザイスが慌てたように取り繕った。
「悪かったね。無理やり馬車に乗せて」
「……いいえ」
「リシェラ様……」
 ザイスの声には憂いさえ感じられ、ディアンはこの男が根っからの悪人ではないと  思わされてしまう。
本当に愛しているのだ。
 こんな男には、彼女の相手に相応しくない。
 かといって、 自分が相応しいとは決して言えないのが辛い。
 誰よりも愛する心以外は、何も持ってないのだから。
 カーテンの隙間から覗いた先には、リシェラがいた。
 夕日の中、赤い髪がなびいている。
「彼女は、真紅の薔薇の中で、咲き初める蕾だった。
 あまりにも美しくて、本能を掻き立てられてしまったのかな。
 これから、どんどん美しくなるんだろうね。王妃様と国王陛下の
 美を受け継いでいるんだから」
 優雅な仕草で馬車の扉を開けたザイスは、
「リシェラ様を大切にしてあげてくれ」
 そう告げてディアンを馬車から下ろした。
 振り返った時には馬車は走り去った後だった。
 リシェラに公爵家の紋章を見られなくてよかったと息をつく。
 「ディアン! 」
 駆け寄ると、リシェラもぱたぱたと走ってきた。
「もう。どこへ行ってたの」
「すみません」
 歩き出して、  手を差し出したらリシェラがその手を取る。
 振り払われたら、傷つくところだが、彼女はそのまま早足で歩き出す。
 ディアンとつないだ手をぶんぶん、と振り回している。
 前は、こんな過剰反応は見られなかった。
意識されていることにたまらなく喜びを覚える。
(王城に比べれば自由だ。従者として、王女を守っているとしか見られないのだ)
「何ニヤニヤしてるの」
「い、いえ別に」
「お友達と話し込んでしまったのは私の方なのに責めるべきじゃなかったわ。ごめんなさい」
 急に恥じ入るようにうつむいたリシェラに、ディアンの方こそ後ろめたくなる。
 ザイスと会ったことは話せない。
「ディアンって、モテモテなのね。驚いたわ」
「へ、何のことですか」
「さっきの子たちも全員あなたのファンなんだって。
 ちょっと妬けちゃうわね」
 無邪気なリシェラに、悪戯心が沸き起こる。
 学園の生徒たちは既に見えなくなっていた。
「あなた以外にときめくことなんてないから、ご安心ください」
「ふ……っ」
 顎を押さえて、唇を重ねる。
 一瞬で離れたけれど、確かに今までになく深く口づけていた。
 顔を真っ赤にして、胸を叩いてくるリシェラを抱きしめる。
 もう一度、口づけようとしたら、
「駄目よ……さっきのは二回分以上よ」
 上気した頬、潤んだ瞳が視界に飛び込んでくる。
 抱きしめて閉じ込めたいと、感じた。
「嫌でしたか……? 」
 ふるふると首を振って、リシェラは先を歩きだす。
 後を追いかけたら、強いまなざしでディアンを射抜いてきた。
「あの人にされた時みたいに不快じゃなかった……
 そんな自分が怖いのよ! 何だかふしだらみたいじゃないの」
「お互いに想っているから、ですよ」
 重ねあった手のひらを、胸の上に導く。
 リシェラは、戸惑うように手を引っ込めた。
「熱くて、すごく速い」
「ドキドキしているからです」
 リシェラは、うつむいて、こっくり頷く。
 小さな声をディアンはそれでも聞き逃さなかった。
「私も」
 先に歩くリシェラを追う形で、ディアンは後をついていく。
 時折、ちら、ちらと振り返る姿に、抱きしめたい衝動を必死でこらえた。
「今日は、トリコロール伯爵邸に寄るんですよね。
 ジャックさん帰っているかな。いないと困るけど」
「いきなりだったわね。ご不在だったら帰るわ」
「大丈夫だとは思うんですけどね」
 そう言いながら、トリコロール伯爵邸へ向かう。
 今はディアンが居候している貴族の家だ。
「お、王女様!? 」
 突然現れた王女の姿に、ジャック・トリコロール伯爵は動揺し慌てふためいた。
 伯爵としての仕事を終えて帰宅していたジャックと、ディアンの帰宅時間が折よく重なった。
 衣服の汚れを見れば、領地の民と畑仕事でもしていたのだろう。
 養父は気さくな人柄でみなから慕われていた。
「ごめんなさい。驚かせてしまって」
 リシェラは罪悪感いっぱいで謝罪した。
 突然王女がやってきたりしたら、誰だって彼のような反応をするはずだ。
「ジャックさん、リシェラ様が是非あなたとお会いしたいとのことで」
「こんな所ですがどうぞ、お上がり下さい」
 ディアンには小声でぼそっと
「事前に教えてくれなきゃ。心の準備ってものが、あるんだから」
 言った伯爵に、すみませんと小声で返した。
「こちらでお待ちください」
 ダイニングルームにリシェラとディアンは案内された。
「ここはメイドも執事も従僕もいないの? 」
「以前は、メイドも執事も従僕もいたそうですが、
 先代の子爵ご夫妻が相次いで亡くなられて、
 ジャックさんが跡目を継がれた折に、暇を出したそうです。
 次の働き口を紹介した上で。
 皆代々仕えてきた者たちばかりで、家族に等しい存在だったので心苦しかったとも仰ってましたが」
 ディアンのよどみない返答にリシェラは一瞬きょとんとしてから答を紡いだ。
「そうなの。広いお屋敷を一人で切り盛りするのは大変でしょうね」
「誰にも気を遣わなくていいから楽なんですって」
 そうこう話しているうちにティーセットを抱えたジャックが、やってきた。
 高い位置からポットを掲げてカップに注ぐ姿は
 堂に入っていて、自分も身につけたいと思うディアンだ。
「ありがとう」
 リシェラは、紅茶のカップを受け取り、微笑んだ。
 ジャックは、自分の席にゆったりと腰を下ろした。
 テーブルの席順は、時計回りに、ジャック、ディアン、リシェラが座っている。
「あの……伯爵は、お母様の幼馴染って聞いたんです。それで」
 ジャックは、ああという風に頷いた。リシェラが訪れた理由に納得したのだろう。
「私や王妃様が在籍していたのは二十年も前のことです……」
 ふと懐かしむように目を細めた伯爵に、リシェラもディアンも目を奪われる。
 少年の瞳になり、語り始めた彼の話に聞き入る。
 まだその時間を生きているのではないかと思わされるのだ。
 置いてきた大切なものを探している。
 ここではない場所を見つめる姿を目の当たりにし、
 彼に酷な話をさせてしまったのではと思ってしまう。
「ジャックさん……」
「は……ごめん、話し過ぎだよね。
 申し訳ありません、王女様、一人でぺらぺらと」
「いいえ、貴重なお話を聞かせていただきありがとうございました」
 リシェラは、敬意をこめて目礼し、お茶を飲み干した。
 仄かな苦みが爽やかな風味を醸し出している。 
 ディアンは、カップを手に取り視線を俯けている。
 水面のようにゆらゆら揺れるお茶に自分の姿が滲んでいた。
「ディアン、お茶駄目だったかな。庭で育てている花から入れたんだけど」
「あ、いえ、美味しいです」
 ディアンが、笑むとジャックも安堵の笑みを浮かべた。
「その方はお元気ですよ。きっと」
「ええ、知っています」
 リシェラは、彼が過去の情景の恋人を未だ愛しているのだと
 過去と割り切れない悲しみに、つ、と胸が痛んでいた。
 す、と立ち上がり、椅子を引く。リシェラの肩は震えていた。
 ディアンが、
「お城にお送りしてきます」
 とジャックに軽く頭を下げて二人でダイニングルームを出た。
 屋敷の敷地内を駆け抜けるリシェラの腕をディアンは掴んだ。
「……どうして」
「だって……、あの人は」
 口をつぐんで、とぼとぼと歩きだすリシェラにディアンは、はっと気づいた。
 後ろから肩を抱いて、震えを止めようとする。
「……っく」
「あなたが泣く必要はどこにもない」
「うわああ……っ」
 振り向いて縋りついてくるリシェラの背中にディアンは腕を回した。
「お母様とトリコロール伯爵は……」
「王妃様は幼馴染のお話しかなさならかったんでしょう。名前も出していなかった」
「分かるのよ! ジャックさんが、あまりにも嬉しそうに語るから。
幼馴染と恋人を区別して話しててもちょっと考えれば気づくわ。
 お母様が幼馴染としか言わなかったのは過去と決別して、歩いているからよ。
 誰が悪いとは言えない」
 自らの存在を否定する言葉を決して口にしない。できない。
 リシェラは、父のことも大好きで、愛してくれるあの人を憎むことなどできない。
 自分の存在を形作ってきたのは紛れもなく王家で、
 過去と別れを告げたセラはそうしなければ生きられなかったのだと、理解できてしまう。
 顔を上げたリシェラは、感情の読めない顔で笑った。
「リシェラ様」
「お母様もジャックさんも、今はもう引き裂いた何もかもを恨んだりしていない。
 それが、救いだわ」
 ははは、と乾いた笑みを零すリシェラ。
「……私はずっと、あなたの側にいたい」
 みるみるうちに大粒の涙があふれ出す。頬を滑る滴を指で拭い去って、
 口づけで温もりを与えて、腹心の従者は大切な王女を胸にかき抱いた。
 壊れ物を扱うように、優しく、そっと。
 小柄な体はすっぽりと長身のディアンの胸に収まる。
 髪を梳いて頭をなでられ、リシェラは頬を摺り寄せる。
 ディアンは、何も言えない自分自身を呪った。




16 18 top