SHINE



当初年末年始は、ゆっくり過ごすつもりだったが、
 すぐに運んでもいい荷物だけは運んでしまおうと
 提案し、二人が暮らす部屋に運ぶことにした。
 正式な引越し日は一月の最初の土曜日。連休最後の日だ。
 その日、業者に手配をし、私と青は車でマンションに向かうことにした。
 忙しない時は余計にお互いを求め合ってしまう。
 クリスマスイヴの夜以降肌がどんどん馴染んでいくのを感じていた。
 あれから濃密な夜を過ごしたのは二度だけ。
 結びついた魂を二つに引き離さなければいけないのが辛くて、切なくて。
 絆が確かになれば、相手を失う恐怖におびえる。
 強くなったと同時に弱くもなってしまった。
 これが、恋愛。
 隣にいる彼の前髪を掻き分けて口づける。
 眠りの中にいる彼は穏やかな寝顔だった。
 カーテンを開けると眩しい朝日が差し込んできて二人を照らした。
 伸びをして、深呼吸する。
「おはよう、青」
 後ろを振り向くと、彼が身を起こしていた。こちらを目を眇め見つめている。
「温もりは残ってるのにお前が側にいないのは寂しいな」
 クス、と笑う。その顔に見惚れてしまう。
 独特の甘い声は朝から心臓に悪い。
「こ、ここにいるじゃない」
「朝が来なければ、ずっとお前を胸に抱いていられるのにな」
 冗談か本気かわからない一言を吐き、パジャマのボタンをはずし始める彼に、
 慌てて、顔を背けベッドの側を通り過ぎようとするが、
「待てよ。まだだろ」
「ふえ……? 」
 腕をつかまれ、あっという間に彼の懐に抱え込まれていた。
 じたばたもがいていると、長い腕で腰を捕まれ逃げられなくなる。
 のけぞらされた頤、顎をつかむ指にとくん、と心臓が鳴った。
「っ……ん」
 覆い被さった唇は、柔らかなキスを落とし、
 角度を変えてはキスを繰り返す。
 差し込まれた舌が、私の舌を絡め取り、交差させる。
 ぷつん、と甘い吐息が二人の間で、弾けて宙で消えた。
 激しいキスの余韻で肩を上下させていると、  彼が悪戯に微笑んだ。
「おはよう」
「……おはよ」
 顔を赤らめ頷く。中途半端に肌蹴られたパジャマの下から素肌が覗いている。
 きら、と朝日を受けて輝いた。前髪をかき上げる仕草も艶めいて、私を困惑させた。
「何でそんなに恥ずかしがる。俺のすべてを知り尽くしているくせに」
 真顔で言うから恐ろしい。
「あなたを見てドキドキしない時はないのよ」
「へえ、それは光栄だ」
 また不埒な唇が近づいてくるのに気づき、そっと腕から抜け出した。
 不満そうな彼だったが解放してくれた。甘い牢獄から。
「ご飯作るわね」
「待ちきれないな」
 青は笑い、頬に口づけてきた。啄ばむようなキス。
「……う、行くわね」
 火照る頬を押さえ、広い部屋を出て行く。
 引越しはおとつい。あの夜は淫らに奔放に抱かれたのを思い出す。
青は一足先に仕事が始まり、土曜日に引越しで疲れも溜まっていたはずなのに、
 不埒な台詞で私を攻め落とした。
妙に説得力がある気がして、頷いたのが間違いだった。
 大きな窓に体を押しつけられ、後ろから貫かれた。吐息がガラスを曇らせていた。
 記念の夜にしたいだなんて、誘われてそれで……。
(や、やだ。何てこと思い出してるの!? )
 いつしか、彼の色に染められてしまっていた。
 それを、受け入れていることを心地よく思う。
「今日は仕事始めよ。邪念を振り払わなきゃ」
 ぱん、と頬を両手で叩いて、洗面所に向かう。
 何度も泊まった高級ホテルと変わらない。いや、寧ろもっと広いかもしれない。
 初めて訪れたクリスマスは、あまり見渡す余裕がなかったけれど。
 アンティーク感溢れる蛇口の左右を交互に捻りお湯と水を出す。
 適温を調節し、水をためると、ばしゃばしゃと顔を洗う。
 コットンのタオルで、拭うと化粧水をコットンに湿らせて肌を叩いた。
 小気味よい音をさせた後乳液を塗る。
 下地とファンデーションを塗ったら一旦メイクは終了。
 廊下を渡り、ダイニングキッチンへ。
 サイフォンから、コーヒーの沸き立つ音がしている。
 テーブルにカップを置く青と目が合った。トースターではパンが焼けるチン、という音。
「ありがとう」
「俺の入れたコーヒーが美味しいって言ってくれたから」
 サイフォンから、カップにコーヒーを注ぎテーブルに置いてくれる。
「柔らかくて飲みやすいの」
 ゆるく笑って、皿を渡す。
 彼は手際よく、朝の用意をする。
 一人暮らしが長く自炊もしていた彼は、  私一人に任せたりはしない。
 食卓の用意以外にも細かいところにも気がついて、自分の至らなさにへこむ時もある。
 彼は、何事に置いてもさりげなかった。
 冷蔵庫から、昨夜の内に取り出しておいた卵を割ってボウルの中でかき混ぜる。
 パワーをつけたくて、2個ずつ使いオムレツを作った。
「よっと」
 手首をとんとんと叩いてフライパンの端に寄せる。
 上手く皿の上に移せて思わずガッツポーズをした。
 その時拍手の音が響いた。
 途端に恥ずかしくなり、顔を赤らめた。
「見事だったよ。もっと誇らしげにしてもいいんだぞ? 」
「食べてみなければ美味しいかわからないわよ」
 からかってくる彼に、フォークを突きつけると彼は、小さく美味そうと呟いた。
 椅子に腰掛けてから彼はフォークでオムレツを切った。
真ん中で割ると半熟の中身がこぼれ出る。
 上品に口に運ぶ姿を目にし、改めて確信する。気づいていなかったのではなく
 目を逸らしていたのだ。彼が、いわゆる上流家庭の人間だと。
 前住んでいたところも十分豪華だったし、毎度のごとく高級ホテルを予約する。
 車のことは詳しくないが、高級なスポーツカーらしい。
 マンションに比べれば大して高くはないといっていた。もうすぐ乗り換える予定だとも。
 普段の立ち振る舞いも、とても洗練されている。
 今まで意識しなかったところに目を向ければ、
 とんでもなくすごい人と一緒にいるのだと思い知る。
「美味しいよ。お前のとろけてるほっぺみたいに甘くて柔らかいし」
「……よかった」
 甘すぎる台詞でよろめいたけれど、気を取り直し、皿にレタスを盛る。
 自分の皿も同じように盛りつけて席につく。
 正面に座って食べるというのは照れる。きっとずっと同じ感覚なのだろう。
 二人きりの空間だから余計かもしれない。
「いただきますも言ってなくて無作法だった」
「私が、お行儀悪いことしたのよ」
「可愛すぎる沙矢に逆らえない俺もな」
「い、いただきます」
「いただきます」
 彼は、日に何度私を動揺させて困らせるのかしら。
「今日のメイクは気合入ってるな」
「部長に、転居の書類を提出するから、緊張しないようにって。
 濃いかしら? 」
「大丈夫だよ。すごく綺麗だ」
 瞬きする。綺麗って言われる度にきっと魔法がかかってる。
 彼しか使えない魔法の効力は、私に勇気をくれる。自信なんてないけど。
「素顔のほうがもっと魅力的なのを知っているのは俺一人で十分だけど」
「ぶほっ」
 飲んでいたコーヒーを勢いよく噴き出す。
 すかさず、彼がテーブルを拭くのを止め自分で拭いた。
「反応がオーバーだな。本当のことを言ったのに」
「うう……」
 うろたえる私に対し彼は本当に楽しそうだった。
 部屋を出る時、行ってきますのキスをした。
 私は、彼に申し訳ないので、送ってもらうのを断り
 公共交通機関を利用することにしたが、未だ彼は納得していないようだ。
その内、彼の車で通うことになるかもしれない。
 昼休み、部長室の扉をノックした時、緊張で手が震えていた。
「水無月です」
「どうぞ」
 柔らかな声だと思った。幾らか、リラックスした気分で扉を開ける。
 オフィスの隅にあるガラス貼りのスペースには、滅多に出入りすることはない。
 お茶を持っていったり細々とした雑務をする社員は、いつも出入りするのを見かけるが。
 マホガニーの机は、社長室かと疑いたくなるほど立派だ。
 靴音を響かせないように気をつけて、少し離れた場所で立ち止まり頭を下げる。
 空気が動く気配。部長が、立ったのだ。
「課長あたりに出せば僕にも回ってくるのに。
わざわざここまで届けに来てくれたなんて、そんなに会いたかった? 」
 軽口にびくっと足がすくむ。
同じような台詞でも言う人物が変われば  違って聞こえるものなのだなと、心中考える。
 青の一挙手一投足には、ときめきばかり覚えるのに。
「転居届けを提出に来ました。お忙しい所申し訳ありません」
 目の前の部長から、コロンが漂っている。青とは違うタバコのにおい。
 私が渡した書類をしげしげと眺めて、顎をしゃくる。
「失礼します」
 用件は済んだので、また頭を下げて部屋から出ようとした。
 いつの間にやらブラインドで部屋が、クローズスペースになっている。
「水無月さん」
「はい? 」
 金縛りにあったように動けない。
「社員のプライベートに口出すつもりはないんだけど……」
 意味ありげに言葉を切った部長が、側に立つ。
腕を引かれて共に革張りのソファに座る。
 この暴挙は何だろう。上司が部下に対してこの行動は普通なのだろうか。
 ただ、引越ししましたと会社に知らせにきただけなのに。
「管理職にいる立場として、個人的に社員の動向も把握しておきたいんだよね。
 スキャンダルを起こされたら、たまったもんじゃないし」
「どういう意味でしょうか」
「資格を持っているものの、高卒で、入社二年目の
女子社員の給料で、こんな所に住めるのかな」
 部長は住所とマンションが記載された部分をとんとん、とペンで叩く。
「え……」
  「どっかのセレブの愛人にでもなったの?
最近とんでもなく綺麗になったよね」
「愛人になんてなっていません! 」
 とんだ侮辱だ。青が用意した場所だったからこそであって、
 私一人だったら、一生住めなさそうな場所であるのは確かだけれど。
 言わなくてもいいことまで話さなくてもいいと思った。
 もうすでにこの人は踏み込んではならない部分まで侵している。
 こぶしを震わせて、うつむく。
「ふうん。でも入籍したわけじゃないみたいだし。
 いいように遊ばれて捨てられるんじゃないの」
「し、失礼します! 」
 乱暴な仕草でソファを立ち、部屋を出た。
 春日学。この部長の名前をこの先忘れないだろう。
 屈辱と恥辱でゆがんだ顔を、洗いたくてトイレに向かった。
 昼休みが終わる前にランチを食べなければ。
(青……)
 メイクを直し、トイレの個室で携帯から彼の番号を呼び出す。
 すぐに彼につながり、ほうと息をつく。
「どうした? 」
「何でもないの。声が聞きたかっただけ」
 感情が乱れているのにどうか気づかれませんように。
「俺もお前の声が聞けてうれしい。今すぐ会いたくなったよ」
「ふふ」
 慰めてくれるような声に、瞳から涙がこぼれた。
「終わったら急いで帰るから。ご飯作って待ってるわ」
「時間が合えば迎えに行けるんだけど。大丈夫か? 」
 虚を突かれる。何でこんなに鋭いのだろう。
「大丈夫よ! ありがと」
 受話器越しに微笑んだのが伝わればいい。
「じゃあ夜に」
 彼は、私へと伝えるためにサインを送ってくれた。
 軽く響くリップノイズ。
 ふと、会社のどこで電話をしているのか気になった。


今日は、親友と食堂で食べる約束をしていた。
 注文した料理が載ったトレイを手に、窓際の席へ歩いていく。
 笑顔で手を振っている相手に、手を振り返す。
 同期入社の彼女は、いつの間にやら仲良くなっていた。
 安価で美味しいものが食べられるのでたまに利用する。
「遅かったわね」
「ちょっと部長に転居の届けを出しに行ってて」
 陽香は、飲んでいたお茶を勢いよく吹き出した。
「どうしたの!? 」
 今朝は青の前で同じような失敗をしたが、
まさかいつも落ち着いている  彼女がそんなことをするとは。
ナプキンを手渡すと陽香はさっとテーブルを拭いた。
「わざわざ自分から餌食になりにいくなんて」
「え、餌食って」
「部長は沙矢を狙ってるって専らのうわさよ。その様子じゃ気づいてないみたいね」
「だってあまり顔合わせることないもの」
 きょとんとしていると額を人差し指と親指で弾かれた。
「つっ……」
「ったく相変わらずね。もう少し気をつけたほうがいいわよ。
 彼と上手く行ったんでしょう」
 こくんと頷く。たまに彼女に話を聞いてもらっていた。
 青とのせつな過ぎる日々を、一人で乗り切るのは辛かったから。
「頬ピンクじゃない。もしかして一緒に住むことにでもなった? 」
「そうなの。それで、部長に突っ込まれたというか」
「プライバシーのへったくれもないわよね。そんなの個人の自由なのに。
 相当お気に入りなんだわ。本当に気をつけなきゃだめよ」
 何度も釘を刺され、こくこくと頷く。
 ずるずるとうどんをかきこむ側で彼女は、うっすら微笑んでいた。
 彼女のほうはとっくに食べ終えていた。
 ブラインドを下ろされ、外から見えない状態でソファへと導かれたことまでは
 とても口にできなかった。あんたが悪いと言われるのがオチだ。
「ちょっと言い過ぎたわ。ごめんね」
「ううん、ありがとう」
「彼の写真見せてよ」
 うきうきと言われて照れる。
 青は写真が、好きではないらしく、私の写真と交換でお互いに撮り合う
 ということで、何とか写真が取れた。
 私のは何枚もあるのに、青のは一枚だけだ。
 二人で写ったものはデジカメで撮っている。
 携帯の画像フォルダから、青の写真を見せると、彼女はうっと怯んだ。
 陽香は顔を真っ赤にし、胸元まで押さえている。
「私、撮るの下手なの。本当はもっとかっこいいのよ」
「邪気なく自慢したわね。ものすごくかっこいいのは、十分伝わってるわよ。
 でも、ちょっと影がある美形よね」
 何故か自分のほうが照れてしまう。
 ごく、とお茶を飲み干した。ティーサーバーのお茶だが、かなり美味しい。
「良かったわね、初めてがこの人で」
「何言って」
「違うの? 」
「そうじゃないけど」
人から言われると変な感じだ。
 顔が自然と火照ってしまう。カマトト振るつもりはないけど。
「未だにこんな初心で、きっと可愛くてたまんないわよね。
 私が嫁にしたいくらいよ。ごちそうさま」
「よ、嫁!? 」
 陽香が、席を立ったので慌てて、トレイを抱えて立ち上がる。
慌しく食事を終える人ばかりでこちらを気にする人がいないのが幸いだった。
 人気がないからできた話だった。
 痛い部分もあったけど、陽香のおかげで少し元気が出た。
 部長のことは、気にしすぎない方がいいだろう。
 私はこの時近い未来のことなんて考えが及ばなかった。


 扉を開けるとダークグレーのスーツを着た男性が、目を細めた。
「ただいま」
「お帰りなさい」
 手をこすり合わせて、見つめる。
 陽香に言われたことを意識すれば、気恥ずかしくなる。
 ふいと背をかがめて彼が、口づける。
 一瞬だけ舌を絡めて、淡く思考を乱す。
「ん……」
「ほら、次はお前の番。今のがただいまのキスだから」
 何堂々と言っているの!
頬を指差すから、私は自分の頬を近づけて寄せた。
 ちゅ、と軽い音を立てて唇を離した。
 ぐいと腕を引かれて抱き寄せられる。
「寂しかった」
「えっと……」
 今のは問いかけなのか、彼の気持ちなのか、考え込む。
「考えるな。感じたままでいいんだ。
 俺はお前に会いたくて、しょうがなかった。一日が長かったよ」
 腕の中で身をよじる私に、彼は耳元でいけない子だと囁いた。
「ちゃんと何があったか話せよ」
 骨ばった大きな手に頭をなでられ、うっとり瞳を閉じてしまう。
 繋がれた手に導かれてリビングまで歩いた。
 一緒にソファに座る。
話し出すのを待ってくれている彼に  恐る恐る顔を上向ける。
「会社で部長に転居の届けを出したの。
 でも本当は課長に出しておけばよかったみたい……」
 ぎゅ、と彼の手を握り締める。
 そうなのだ。春日部長も言っていたし、陽香も軽率な行動をたしなめてくれた。
 課長に出しておけばそれですんだ。
 山代課長の方が顔を合わせる機会が多く、仕事面でも、優しい性格も尊敬している。
 わざわざ部長の所まで出向く必要はなかった。
「やっぱりここって、私なんかが住めるところじゃないのよね」
「何言ってるんだ」
 青の声はあくまで穏やかだったけれど、聞き咎めているのが分かった。
「高卒で入社二年目の身分で住める場所じゃないもの。
 お金持ちの愛人にでもならなければ」
 ぶるぶる、と首を横に振る。捕まれた顎が痛い。
 真正面から瞳をとらわれて、体が震えた。
「いちいち言われたことを真に受けるな。
 俺の方を信じろよ」
「……真に受けてなんかいないわ!
 青しか信じていないもの。でも部長に言われたことが耳を離れないの」
 震える声。引き寄せられた体が強く抱きこまれる。
「上司だか知らないが、いちいち社員のプライベートに踏み込む権利はないだろう」
「……そう思う? 」
「当たり前だ。スキャンダル起こされたら困るとか言われたんじゃないか」
「何で分かるの」
「愛人やら言われてるんだからな」
 くす、彼は余裕のある笑みを浮かべた。
「もちろん、否定したよな」
 腕の中で、頷く。
「ちょっと失礼な位、声荒らげたわ。ものすごく腹が立ったんだもの! 」
「その場面見たかったな」
「意地悪。私、すごく嫌だったのよ。いくら個人的な話だからって
 ブラインド下げて外から見えない状態にすることないと思うわ。
 昼休みで皆くつろぎたいからこその配慮だったんだろうけど」
 ため息が聞こえて、びくりとした。え、失言だった?
 青が、体を離す。どこか目が据わっている。
「お前を止めてくれる人間はいなかったのか。
どう考えてもその上司の行動は常軌を逸しているぞ」
「えっと、仲いい子に事後報告したら、呆れられたの」
 餌食になりにいくはオーバーじゃないかとは思うけど。
「事前に相談しろ」
「は、はい」
「俺がお前と同じ会社じゃないのを今日ほど口惜しく思ったことはない」
 鋭い目が、きらっと光った。
「ご、ごめんなさい! 怒ってる? 」
「ああ、これ以上はないくらい怒ってるよ。
 無防備で考えなしの恋人ほど厄介なものはないな。
 さて、どうお仕置きしてやろうか」
 青は、酷くワルい顔をしていた。
独特の色香が漂う、彼らしい表情だ。
 危機感を感じ、ソファの上から逃れようとするも、がっしりと腕をつかまれる。
 ふわ、と宙に浮く感覚。軽々と抱き上げられた。
「ご飯食べなきゃ」
「何言ってる。これからお前を味わいつくすのに」
「私のこと嫌にならない? 」
「馬鹿だな。俺はそんな小さい男じゃないよ。
少なくとも今は、そう在れる自分に誇りを持ってる」
 何で、彼の言葉は私の心に、染み渡るのだろう。
 不器用で、冷たい時も一つ一つの言動が胸に響いていた。
「ほっとけないな。手に余るくらいだ。
 逆にそれが、嬉しいだなんて。そんな風に思ったのはお前だけだ」
 止めを刺された気がした。彼の胸に頬をうずめる。
「……明日が心配なんだけど」
抵抗しているわけではなく、甘えているだけ。
 笑う気配を感じたから気づかれているかな。
「俺が、起こしてやるよ」
 自信満々に言われ、はいと答えるしかなかった。
 だって、心を揺らす不安も全部彼がかき消してくれるから。
 あの波に翻弄されたい。
 気づけば、彼の背中に腕を回していた。
 リビングを抜けて、寝室を目指すのかと思ったけど違った。
 ベッドが置いてある部屋は、メインで使っている場所の他には私の部屋がある。
 彼に促され私の部屋の扉のノブを回した。
青が、無造作に部屋の照明のスイッチを入れた。
 横抱きにされた格好で、ふわとベッドの上に下ろされ、すぐに彼が覆い被さってくる。
 ベッドの脇に肘をついて、私を閉じ込めるみたいに。
 何度も彼に抱かれた思い出があるこのベッドだけれど、
 シングルベッドなので、二人で眠るのは窮屈だ。
「破裂しそうだな」
 胸元に手を当てて妖しく笑む。
その姿に釘付けになった。
 不埒な指先が、下着に隠れた頂を摘む。
息を漏らして、彼の腕にすがった。
「えっち」
「そんな軽口を言えるようになったんだよな」
 青は嬉々として、肌をまさぐり始める。
 服に大きな手のひらを忍ばせて腹部から上に辿っていく。
 きっと、ゆっくりと愛してくれる。
 彼は、慰めてくれようとしているのだ。
 触れられて、奥底まで感じあうことで私の憂いを拭い去れるのを知っているから。
「んん……ふう……っん」
 下着の上から噛まれた場所が熱い。もっととねだる様に硬くなる。
 彼は、優しくて大胆になり、そして前より意地悪になった気がする。
 本能に正直とでも言えばいいのだろうか。
「レースのエプロンって、新婚みたいだな」
「え……だって、パジャマに着替えるには早いし、
 お料理するから服に着替えてエプロンつけたのよ」
「そんなの分かるよ」
 人差し指で、唇を押さえられる。
「どれだけ、俺をそそれば気が済む。玄関で見た時から
 押し倒したくて仕方なかったんだからな」
「ん……っあ」
 指でこじ開けられた唇。
 絡みつく舌。二人の唇の間で糸を引く。
 零れる雫が首筋を流れ落ちる。
「俺だけを見ていろ。何も考えるな」
 執拗に繰り返されるディープキス。
 まばゆく点滅する光に、意識が焼きつくされる。
この部屋には、ベッドサイドのランプなんてない。
 豆電球があれば十分だと思い、用意しなかった。
「……照明落として」
 キスで掠れた声で、請う。
「明るいままでも構わないだろ。俺の醜い所も暴いてしまえばいいよ」
「あなたに醜い部分なんてないわ」
 全てにおいて、醜悪さなどないのだ。
 男性の怖い部分も彼だと魅力でしかない。
「可愛いお前を一日中ベッドに縛りつけていたい。
 醜い欲望が、渦巻いているのさ」
 どきん、彼の言葉に反応して神経が高ぶる。
 平静は口にできない言葉を、自然と唇がつむぐのだ。
「その欲望なら私にだってあるわ。おあいこなの。
 あなたの腕の中で目が覚めなければいいのにって」
「朝が来なければいいのにじゃなくて? 」
「朝が来ても、目が覚めなければ夢の中にいられるでしょ」
「俺は夢の中じゃなくて、現実でお前を抱きたいけど。
 目覚めないどころか寝かせてなんかやらないし」
 頬をなでる指先が、くすぐったい。首筋に触れられて肌があわ立つ。
 ボタンがはずされる音を聞いて、顔を覆った。
「恥ずかしがる余裕がまだあるのか」
 低音のささやきが耳に落ち、私は本格的に侵略され始めた。
 鎖骨の上をきつく吸われる。
 躊躇いなく、背中で外されたブラジャーは床に放られる。
 覆い隠したくて彷徨わせた腕は、ベッドに縫いとめられる。
 片腕なんて器用すぎる。何で同時に色々できるの。
「小さい手じゃ見え隠れして逆にヤらしいな。
この間一人でヤったから分かるだろうけど」
 ニヤり。笑う気配がした。
「っ!」
「その仕草止めろ。どうせ誘っているようにしか見えない」
 頂きが、歯に挟まれて、声にならない声を上げる。
 駆け抜けるのは痛みよりも強い感覚。
 舌は、膨らみの上を這う。彼の瞳は私を見ている
 潤んだ視界では、何もつかめない。肌で感じ取るのみ。
 ちゅ、と音を立てて、吸い上げられる。
 私は声に鳴らない声を上げた。
 腰が浮いていることに、長い腕に押さえつけられて気づいた。
 は、と吐息を漏らす。
「奔放だな。俺がそうさせたんだけど。
 夜だけ奔放で普段は清純ってのがいいな」
 胸元で話すから心の中まで撃ち抜かれるみたい。
 膨らみを包み込んだ手のひら。小刻みに動かされる五本の指。
 中指で弾かれて、背をのけぞらせた。
 ふくらみを強く揉まれる。指先で、両方の頂きを捏ねられる。
 気持ちよさに眩暈がする。
 薄っすらと開いた唇に、キスが落ちる。
 啄ばむキスの音とは別の音も、している。
 耳朶に這う舌先。歯を立てられると、ぱっと火花が散った。
「……っあ……あん」
 沈む体を投げ出した私の視界には、ゆらりベッドを降りる彼の姿がある。
 息を整えていると彼が戻ってきた。
 ほろ苦いタバコの香り。紫煙が、立ち上る。
 半端に吸った吸殻を、灰皿に押しつけて、再び口づけてくる。
 混じるタバコの味。苦手だけど大好きな彼の香り。
「もうすぐ止める。俺の唇はお前が塞いでてくれるから必要ないんだ」
「何でそんなにドキドキさせるの」
「俺もお前にドキドキしてるんだぜ」
 膝を割られ、隙間なく密着した体。早く来てほしいと彼を呼んでいる。
 いつの間にやら素肌が、ぶつかっていた。
 長い指が、秘所の真上で硬い蕾を押し潰す。
 溢れるしずくを塗りつけて、快感を導く。
 何度か擦られるのを感じた後、柔らかな髪が、触れた。
 足を開いて、恥ずかしい姿をさせられている。
 腿の内側から踵まで唇が、辿る。
 敏感な場所を突かれるまで、しばらく時間がかかった。
 吐息を弾ませて、彼を待ち受ける。
 やがて熱の塊が、私の入り口に、押し当てられた。
「これでもつけてるんだけど、分かる」
「聞かないで……よ」
誕生日が来て20歳になったら、ピルを飲み始める予定だ。
 その時は、直に抱かれることを望んでもいいだろうか。
 朝は来ようが、私たちの夜は中々終わらない。
 勢いよく奥を突かれて、甘い叫びを上げた。
 背中にしがみつく。短く切った爪でも、しっかりと跡が残っただろう。
 低い呻きが聞こえ、ゆるやかに抽挿が始まる。
「お前もう少し自分を意識しろ」
 いきなり、激しく貫かれた。
 耳を塞ぎたくなるような、二人の交歓を示す音。
 体勢が入れ替えられて、彼の足を跨ぐ格好になる。
「……ああっ」
 ず、と音がし、沈んでいく。彼を飲み込む。
 先ほどよりも深く当たるソレに、呻く。
 奥を突いた彼は、内部をかき混ぜた。
 腰を揺らして、彼を導く。包み込むように、きっと絡んでる。
 啼いて、泣き叫ぶ彼の名前。
「青……ああ……っ」
「恐ろしいほど綺麗だ。汗も、涙も、お前の奥から溢れる物も」
「何言ってるの……変態だわ」
 口元から笑みがこぼれる。抱き合いながら笑うなんて。
「雄の本能が言わせてるんだ。しょうがない」
 この人は、こういう時とてつもなく恥ずかしいことを言うのだ。
私も理性なんて邪魔なものを消し去っている。
「もしかして、体の具合が悪い時って」
「知ってるじゃないか。種の保存本能ってやつで性欲が増幅するのさ。
 死ぬ前に、お前と繋がれたら本望だな」
「っ……やだ……あ」
 擦れて刺激が走る。腰が、砕けるかと思った。
「それは、悲しいな」
「そのことが嫌なんじゃないわ……あなたのせいよ」
「やだは、イイってことだろ。止めないでと言え」
「っ……もう……無理」
 蕾に触れるように動かされ、腰から体全体に痺れが広がっていた。
「女の固くなるこの部分って、最高に感じやすいよな。
 そりゃ男のそれ……と」
「い、言わなくてもいいわ……いや……っん」
 擦りあげられて、体が傾ぐ。
 青の言おうとしたことを察し、余計に感じてしまった。
 何で分かってしまったの。すっかり彼に染められてる。
「ん……ぅ」
「イヤラシイ顔だな」
 もう何も聞こえない。体から起こる波が、激しく打ちつける。
 繋がったまま彼の体の上に倒れる。大きな手のひらが、ふくらみを押し包む。
 きゅ、と立ち上がった頂を潰され、荒々しく揉みしだかれた。
 じゅん、と潤った場所が、彼と共鳴する。
「あ……あっ」
「沙矢……くっ」
 体同士で会話しているみたいに、溶けて混ざり合った。
 収縮するのは、彼自身と、私が彼を受け入れている場所。
 たくましい胸元に引き寄せられる格好で、崩れ落ちた。
 私は彼を感じて昇りつめ、彼も私の中で果てた。
「ん……」
 伸びをしようとしてもできない。
 ふと確認すれば未だ抱き込まれたままだ。
彼は下着を履いているようだ。
 事後処理まで、きっちりしてくれている辺り恥ずかしい。
 それでもシーツには、昨夜の激しさを物語る証が残されているけれど。
 目も当てられず、そっと横に転がる。
 巻きついた腕の持ち主も同じく横向きになった。
「なんか当たってる」
「口に出すんだ。へえ」
 喉で笑われて、急いで布団を引き被った。
 腰の辺りに触れてくる物は、大きく硬い。
「お前から若さのエキスをもらって  俺はどんどん若返ってるな。
お前の側で寝てたら、してなくても状態は変わらないだなんて」
 満更でもない風に言われ赤面した。
「元々若いじゃない! 」
 綺麗に年齢を重ねているというのだろうか。
 褒めたのに、何故わざと腰をくっつけてくるの。
 彼は上半身裸で、私は何も身に着けていない。
下着越しに押しつけられて、声が漏れる。
 膨らみは背中から回された手に、やわやわと揉まれていた。
「っあ……やめて」
「まだ4時だよ。
寝ようと思えばまだ時間はある」
「ね、眠らせてください」
「どうしようかなあ」
「うう……」
 このまま触っていてほしい気持ちもあって葛藤する。
 流されてはいけない。そう自分に言い聞かせる。
「うそ、冗談だよ。俺はもっとお前と戯れたら
 もっといい仕事ができそうだけど、沙矢は逆に何かやらかしそうだ」
 巻きついていた腕が離れ、彼の方に体を向ける。
「あなたの責任よ」
 自分から抱きついて、ことん、と頬を預けた。
 柔らかく包み込むように抱きしめられて、瞳を閉じる。
「さすがに平日に三度は危険だな」
 眠りに落ちる間際不埒なつぶやきが聞こえたが、
彼の甘い声は眠りへ誘導してくれるようだった。
 ごろりと身じろぎすると、おおよそ朝にはふさわしくない  甘い声が耳に落ちてきた。
「おはよう、沙矢」
 頬には唇が押し当てられている。
 確認すれば自分は、素肌にパジャマを着ていた。
「……おはよ」
「コーヒー作ったよ。朝食は昨日の夕食が残ってたな」
 くすっと笑っている。大好きな顔だ。
 目を擦りながらこくんと頷く。ぽんぽんと肩を叩かれた。
 青は私を起こすと扉を開けて手招きした。欠伸が出る。
 シャワーの後着替えるため、ブラウスとスカートを持ち後に続く。
 青からは、シャンプーとボディーソープの匂いがする。
 カフェの店員みたいなエプロンをワイシャツの上から身に着けていた。
(色はこげ茶か。コーヒーみたいな色もいいなあ。
 こんな色っぽい店員さんがいたら、裸足で逃げるわっ)
 ダイニングキッチンへ行くと、コーヒーの香りがした。
「どうした。貧血か? 」
「……だるいのよ」
 頭がぼんやりする。未だ快楽の海に沈みこんでいるのだろうか。
 ぶるぶると頭を振る私に、笑う気配が伝わる。
「マジで飽きないな」
「お風呂に入ってくる」
 ふらふらと廊下を抜ける。
 洗面所(と呼ぶにはおしゃれで広い空間だ)で、鏡に映る自分の顔を見た。
「……お肌がつやつやだわ」
 ぺたぺたと頬に触れてみたり額から首筋までを辿ってみた。
 どうやら、抱かれた後はぴかぴかに磨かれているらしい。
 細胞が活性化しているのだ。
 ぱしゃぱしゃと顔を洗う。お化粧のノリはよさそうだ。
 軽くシャワーを浴びなければ。
 パジャマを脱いで、ラックから、タオルと下着類を出す。
 バスルームの扉を開ければ、青の使った後の熱気がこもっている。
 ボディーソープを泡立てて、体を洗う。
 頂や、秘められた部分に触れた時少ししびれた感覚がした。
(や……やだ。朝から! )
 まだ、感覚が残っていて敏感になっているらしい。
 そっと肌に触れて、何とか体を洗い終えた。少し時間をかけてしまったかも。
 頭を洗って、タオルを巻く。バスタブに浸かる。
 彼が、キッチンのスイッチで追い炊きしてくれたのだろう。
「ふう……」
 今日はあの部長の顔を見てしまうのか。
 少し憂鬱だが、青の笑顔を思い出せばがんばる。
 恋がパワーをくれるのであり、公私混同ではない。
ブラウスを着て、スカートを履く。
   いつもの手順で、お化粧をした。
「今日もがんばるわよ! 」
 拳を握り締めて気合を入れたのは、こっぱずかしさをごまかす為だった。
 人は単純な生き物という事実を思い知ったから。

 ダイニングキッチンに戻ると、青が、テーブルの椅子に座って新聞を読んでいた。
「今何時? 」
「7時15分」
 ほう、と息をつく。
「急いでご飯とお弁当の用意するね。昨日の夕飯の煮物だけど」
「お前に作ってもらえるだけで、幸せだよ」
 さわやかに、微笑まれて、笑い返す。
 何もかも彼任せではよくないと思う。
どちらか一方に負担がかかるのもいけないけれど。
 時と場合による。平日に、求めるのは禁止しなければと誓う。
 お言葉に甘えて、ご飯を炊いといてもらったけれど。
 何で朝からあんなにすがすがしいのだろう。
 抱き合った翌朝のほうが元気なのは何故なのよ。
 冷蔵庫から、取り出した筑前煮を二つのお弁当箱につめる。
 昨日の夕食はお弁当分に残すのを考えて煮物にした。
 結局手つかずだったため、朝も食べなければいけないのだが。
(よく考えたら、彼のお弁当作るの初めてだわ)
 プチトマトとレタスを入れてお弁当箱の蓋をする。
 朝の分は、目玉焼きもプラスした。
 レタスとプチトマトもさらに盛りつけテーブルに置く。
 もう一度洗面所まで戻って手を洗ってくると、にこにこ笑顔の青が手招きしていた。
「おいで」
 とてとて、と歩いていくと腕を引かれる。
 彼の隣の椅子にすとんと腰を下ろした。
 いただきますと言って食べ始める。
 もくもくと食べ終わり、お弁当箱を渡す時抱き寄せられた。
「サンキュ」
 照れ隠しに笑って頭を彼の胸に寄せた。
「体、大丈夫か」
(何で今頃聞くのー! )
 こくん、と頷く。お風呂での出来事を思い出し、顔に血が上った。
「まだまだ高ぶってるらしいな」
「青って、意外によくしゃべるわよね」
「お前といる時だけだ」
 彼の言葉は真実を言っている。まじめな顔だった。
「うれしい」
「行こうか」
 私が先に玄関の扉を開けて、彼が扉を閉める。
 最新式のセキュリティは、中々慣れない。
 駐車場で車に乗り込む。
 助手席は私の指定席。
 青のたった一人の特別な存在だと、実感する瞬間、幸せをかみ締める。
 車が走り出すと、心地よい揺れに身を任せた。
 赤信号で止まった交差点で、ふいに口にする。
「車の操縦すごく上手いわね」
 彼はくっ、と喉で笑って続けた。
「お前の操縦をマスターできるのはいつかな」
「とっくにしてるんじゃないかしら」
 返答に、彼は珍しく肩を揺らして笑った。
「お前の方こそマスターしてるぞ。
俺を翻弄することにかけては右に出るものはいない」
「上手いのね」
 走り出した車には、明るい空気だけがある。
「感想聞かせてね」
「ああ。帰ってからな」
 あっという間に会社に着いてしまい、車から降りる。
 離れた所で止めるルールは、破ることはない。
「送ってくれてありがとうね」
「お礼より、愛してるの言葉がいいな」
「ん。愛してるわ」
「愛してるよ」
 耳元にささやかれ、窓から顔を覗かせた彼は、唇を奪った。
 温もりを交わすだけのやさしいキスは、次第に濃厚になっていく。
「だ、だめ」
「おはようのキスと行ってきますのキスを兼ねてるんだよ」
 悪びれない彼をじとっと見つめる。
「頑張れよ」
「青も」
 一時の別れを告げて、歩き出す。
 派手なエンジン音を立てて、青の車は遠ざかっていった。
 彼は自分が他人の目にどんな風に映っているか
 意識したことがあるのだろうか。
 携帯の写真を見ただけで、陽香は過剰反応した。
 もし実際に、青を見たら失神しそうだ。
 自分のデスクに座る。
向かい側に座っている陽香が、ウィンクしてきた。
「陽香、おはよう」
 ぱたぱたと手を振る。彼女は声を潜めた。
「おはよう。今日、いつにも増してつやつやじゃない」
 意味深な笑みを向けられ、目を逸らした。
「休憩時間に話を聞かせてね」
「分かった」
 有無を言わさない彼女に、逆らう術を持たない。
 電源を切る前に携帯を確認する。
 青からのメール着信だ。もう会社に着いたのだろうか。
『勇気がいるだろうが、馬鹿変態部長にはきっぱり言ってやれよ。
 結婚を前提にした同居だ。確かな絆で結ばれている。
 軽い気持ちで一緒に暮らしてるわけじゃないんだよ、分かったか』
 ぱたんと携帯を閉じる。
 結婚を前提になんて、初めて聞いた。
(部長に直接言っているみたい。こんな風に言えるはずないので、
 自分なりに伝えようと思った。気持ちは同じなのだから)
 デスクの横にバッグをかけると息をつく。
 目を擦ってPC画面に向かう。
 あともう少しで始業のベルが鳴る。
(実はベルの音は好きなのよね。古風で可愛い)
 仕事が始まる前に、社内メールで、部長宛に昼休みに食堂で待っていますと  伝えた。
時間に気を使ってくれたのか、すぐに返事が来る。
 了承の意を示したものに、少しの不安を抱く。
 上司と部下として付き合っていかなければいけない相手だ。
 覚悟を決めよう。
 表計算ソフトを起動させて、今日の業務開始だ。
 もくもくとキーボードを打っていると、時間の立つのも早い。
 昼休みになって、陽香と一緒に食堂へ行く。
 離れた席から見守ってくれると約束してくれた。
 お弁当は後で食べることにした。
「待たせてしまったかな」
 独特の抑揚が聞こえ、顔を向ける。
「いえ、今来たところです」
「そう。なら、よかった。一緒に食べる? 」
「後で、友人と食べますから」
「それは残念だ」
 部長は手にしていた重箱をテーブルの上に置いて広げ始めた。
 マイペースさに唖然とする。
「この間の話の続きをここでしてもいいのかな」
「すぐ終わりますから。誰に聞かれて困るものでもないですし」
 部長は目をすがめた。続きを要求するように頷く。
「私がどんな場所に住もうとも、会社にご迷惑になることはしていません。
 結婚を前提に一緒に暮らしているんです。
 彼を真剣に愛していますから」
 きっぱりと言うと、部長は気おされたようだった。
「僕の方も私的なことに踏み込みすぎたよ。
 許してくれるかな」
 目礼をされ、動揺する。
「いえ、もう気にしていませんから」
 手振りで示すと、相手は小さく笑った。
「じゃあ、失礼します」
 会釈して、席を離れる。
 サーバーから水をグラスに注ぐ。
グラスを手に、  手を振っている陽香のいるテーブルの席に座った。
「お待たせ」
「意外な一面を見たわ。やるわね」
「えっ。聞いてたの。やだ……」
「はっきりとは聞こえてないけど、雰囲気で伝わってきたわ」
「彼のアドバイスがあったから言えたのよ」
「ああ、あの超絶イケメンね」
「ぶっ」
 超絶って略語なのかしら。分からないけど合う。
 お弁当をテーブルの上に広げると、横で見ていた陽香が、目を瞠った。
「あら、煮物なんだ。前までは遠足みたいなお弁当だったのに」
 厚焼き玉子にから揚げ、ブロッコリーが定番だった。そういえば。
「……昨日作ったの」
「残り物でもすごいわよ。そういう家庭的なところも彼は好きなんでしょうね 」
「大げさよ。陽香だって作ってるじゃない」
「冷凍食品ばかり詰めてるけどね。だから、遠足って褒め言葉よ」
 子供の喜びそうな内容のお弁当だけど。
 煮物を口に運ぶ。青にも気に入ってもらえているといい。
   考え事に耽っていたら時間はすぐに過ぎる。
 既に食べ終えている陽香を待たせてはいけない。
 夢中で頬張って、食事を終える。
 水を飲み干して、口を拭く。
 陽香の方に向き直ると、くすっと悪戯に笑った。
「たくさん可愛がられたのね」
 彼女は、心なしか低めのトーンだ。
「えっと……」
 顔が火照ってきたのでおしぼりを顔に当てた。
「動揺したら余計怪しまれるのよ」 「分かってるわ」
「それにしてもラブラブね。
 精力があるってことは、仕事もできるってことよ。いいじゃない」
「……うん」
 仕事できる男性=で考えたら青に当てはまってる。
 うわー、そういうことなんだと納得したが、
 他がおろそかではない分いいのかもしれない。
「最近のあなたの雰囲気、柔らかいし、幸せみたいでよかったわよ」
「陽香には、随分迷惑かけたわ」
「迷惑なんて思ったこともない。心配だっただけよ」
 拗ねたように口を尖らせる陽香は不謹慎だけど可愛かった。
「ありがとう、陽香」
「じゃあ、行こうか」
 席を立つ時、ふと気になって部長が
 座っていた席を振り返ったが、既に立ち去った後だった。
 その後偶然会った時仕事を頼まれた。
 普通に接してくれて安堵する。あくまで仕事とプライベートは別のものだ。
 マンションの部屋扉に向かい、二人で決めた暗号を打ち込む。
 滞りなく一日の仕事を終えて帰宅した。今日はバスだ。
 指紋も認証し、カードキーを通してやっと中に入れる。
 エレベーターに乗る前にも、一通りの手順がある。
 時々失敗して、部屋へ戻るまでに時間をかけて
しまうのだけれど  恥ずかしいので青には内緒にしていた。
「ふう。ただいまー」
 誰もいない部屋でも口にするだけで違うのだ。
 彼が戻る前に、気持ちを切り替えるためでもある。
 靴を脱いでシューズロッカーに入れる。
 手を洗って顔も洗い素顔に戻る。
 リビングで、少し休憩するとダイニングキッチンに向かった時、
 玄関でチャイムが鳴り響いた。自分で開けることもできるが、
 先に帰っているなら、出迎えてあげたくて。
 気が急いて足がもつれるけれど、彼の顔を見たい一心で玄関を目指す。
「おかえりなさい」
 勢いつきすぎて、彼の体にもたれてしまい、慌てて離れる。
 長い腕は、体を引き寄せなかったが、手は掴まれていた。
「ただいま。帰って早々胸に飛び込んでくるなんてそんなに会いたかった? 」
 くすっ。口元に浮かべた微笑に頬を染める。
「うん」
「さっき帰ったばかりでご飯、まだできてないの。待っててね」
「いや、俺も今日早かったからな。仕事がはかどりすぎて」
「青の体はどうなってるの? 」
「一週間くらいじゃ腰立たなくならない程タフだよ」
 心臓が、どくどくと激しい音を立てた。
「帰ったばかりで何言ってるのよ」
 ソファに座る彼に、唇を尖らせて睨む。
「手伝おうか」
「大丈夫」
 夕食を食べ終えて、リビングでまったりとくつろぐ。
 肩に回された腕。寄り添うと、腰に腕が移動した。
「美味しかったよ、煮物。材料も綺麗に切りそろえられてたな」
 本当に細かいところまで気がつくなあ。
「よかった。そう言ってもらえて」
 さらり、髪をなでられて、瞳を閉じる。
 ふわふわとした心地よさに酔う。
「ちゃんと言ったわ。部長はもう気にしてないみたい。
 普通に仕事頼まれたもの」
「何かあったら言えよ。ないに越したことはないが」
「ええ」
「心配だな。お前は自分をまるで理解していないから」
「友達なんて青の写真見ただけで、顔真っ赤にしてたわよ」
「今はお前の話だろうが」
 抱きこまれた腕の中で、唐突に口づけられる。
「この甘い唇も、白い柔肌も、自然とにじみ出ている輝きも
 すべて俺一人が独占する権利がある。そうだろう? 」
 耳元に、ささやきが落ちる。
 吐息が肌に触れて、昨夜の情熱を思い出してしまう。
「あなたの輝きも、私一人のものよ」
「可愛らしいことを言う」
 横抱きにされて、二人の寝室に運ばれる。
 ベッドの中で寄り添って眠る。
 穏やかな安らぎをこのままずっと分け合っていければいい。
 私は彼の側でだけ輝くことができるのだから。



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