「三階までは、さすがに上るの運動になるわよね」
「一階にエレベーターがあるが、足腰が弱らないためにも
 自力で上る方がいいだろうな。砌以外は中年だ」
 青の物言いはずけずけと清々しい。
 ぐるぐると二階を隅々まで回った後、ようやく目的の部屋の扉の前に戻ってきた。
 青はポケットから鍵を取り出すと、ノブの鍵穴に差し込んだ。
「なんで、部屋に鍵が付いているの? 」
「外側からの無用な侵入者を防ぐため。
 どちらにしろ、普段は操子さんに預けているがな。
 定期的に掃除をしてくれているからほんとうに助かってる」
 観音開きの扉がついた部屋は、とんでもなく広かった。
 グランドピアノと、巨大なベッド、ソファにガラステーブルが置かれている。
 見上げれば、天井に空調がついているみたいだ。
 広々としたベッドは天蓋付きで、王子様の部屋そのものだ。
 白いグランドピアノ、開放的なバルコニー、
 奥には別の部屋につながる扉もある。
「王侯貴族ですか」
 腕を引かれて、ふかふかの黒い革張りのソファに導かれた。
「青、二人で十分暮らせそうなお部屋じゃない。
 二階はあなたがほとんど自由に使っていいんでしょ」
「まあな……」
「お父さまとたくさん、お話しできた? 」
 にこにこ微笑みかけると、青は真顔で頷いた。
「あの親父、未だに俺が研修先に藤城総合病院を
 選ばなかったことを根に持っていやがる」
「青、く、口が悪いわよ? 」
「取り繕う必要なんてないだろ。
 坊っちゃん育ちの割に擦れているのは自分でもわかってる」
 開き直っているらしい。
 何か、青の意外な一面を知った気分だ。
 坊っちゃん育ちとか、自分で言うなんて!
 青は、どっと、疲れた様子で息を吐きだした。
 肩に腕が回ってきたので、そっと押しのけようと抵抗する。
「どうした? つれないな」
 人を見透かすように笑いながら、逃げ場所を奪っていく。
 右手首を捕まれ、ぎゅっと指先を絡められる。
 熱が、一気に集まってくる。
 私の目に映る彼の目は、甘さをたたえていた。
 力強い腕が背中に回る。
 がばっ、と抱きしめられ息が詰まるかと思った。
 むしろ、抱きつかれているのかな。
 肩口に埋められた頭をそっと撫で、もう一方は腕に回す。
 よしよし、と撫でてあげたら、頬をすり寄せてきた。
 両腕で私の背中をしっかり固定し胸元に頭をうずめてくる。
 匂いを吸い込むみたいに吐息をつくから、動揺した。
(かわいすぎだわ)
 甘えられているみたいで嬉しくなる。
「お詫びするんじゃなかったのか」
「あのメールのこと? あれはスルーしたんじゃなかったの? 」
「そんなもったいないことできるわけないだろ」
 さも当然というように言い放たれた言葉は胸元に直接響いた。
 心臓に直接語りかけるみたいだった。
「じゃあ、これがお詫びということで、好きにして」
「なるほど。ではいただこうか」
 ほくそ笑んだ。
ふかふかの広いソファーの上、隙間なく密着してくる身体。
 首筋に柔らかな髪が触れて、焦り始める。
 突然ドアを開けられたらどうしよう。
 大丈夫だとは思うけど、ここは二人きりのお家ではない。
 この先、結婚してここに越して来たら、お父さまもいらっしゃるということだ。
「お前、何考えてる? 」
 くい、と顎に指がかかる。あの瞳がこちらを捉えていた。
 あの夜ひと目で私をとらえた彼は、今は柔らかな雰囲気を
 まとわせてこちらを更にがんじがらめにする。
 ぶるぶると頭(かぶり)を振る。
「な、何でもないの」
「キスしたら分かるかな」
 上唇を舌がなぞる。
 ぱくっと食むように挟まれて、どくどくと心臓が高鳴り始めた。
 開いた唇の隙間にねじ込まれた舌が、こちらの温度を
 確かめるみたいに、ゆっくりと絡ませてくる。
「んん……っ」
 次第に動きが荒々しくなり、お互いの間を白い橋がかかる。
 キスに夢中になっていると、ドアの向こうで、微かに足音が聞こえた。
 びくっと体が震え、思わず彼の肩を腕で押していた。
「今、廊下を誰か通らなかった? 」
「顔も声も感じてるのに、そんなことで抗ってるのか」
「だ、だって……」
 瞳を伏せる私の耳元で彼はささやく。
「この部屋は防音完備だ。こちらの声も音も聞こえないよ。
 お前が思いっきり啼こうが、俺達がまぐわって淫らな音を響かせようがな」
 見えない彼の表情は、邪(よこしま)に微笑んでいる。
 証拠に、囁いたあと耳たぶをぺろりと舌でくすぐられた。
「青はいつからそんなにエッチなの? 」
 疑問に思ったことを口にする。
「俺がこうなるのはさーやの側だけだよ」
誤魔化されてないのかな。
 久々にあの愛称で、私を呼んだ。
 宥めるみたいに髪を撫で背中をぽんぽん、と叩きながら。
「じゃ、じゃあ、あの夜に呟いた……りって誰? 女性よね」
 唾を飲み込む。
 名前の語尾しか聞こえなかったけれど、あの時の
彼のうわ言は私の心に、さざなみを立てた。
 もしかすると、無意識で覚えてないかもしれない。
 そうだとしたら、詮索する必要はない。
 すっと忘れてしまえるだろう。
「俺もあの時自分が口走った言葉に、後で唖然とした。
 まだ気持ちを伝えられなかった二度目の夜で、
 傷つけたことすら気づかないふりをしてしまったが」
 ぎゅっ、と背中に腕を回す。
 私も抱かれたいって気持ちだけで、夜を共にしたのだから彼のことを言えない。
 休日の彼が纏うラフなシャツは、青をより若々しく見せていた。
 皺になるくらい強く掴んで、肩に頬を寄せる。
「従姉妹の名前だ。正確には愛莉(あいり)。
 何故、お前と過ごしている夜に、恋愛関係でもなかった
 人間の名が出てしまったのか自分でもわからない。
 もう何年も会ってなんていないのにな」
「私と似ているとか……? や、多分違うわよね!
青の従姉妹の女性だったら、すごい美人なんだろうし」
 自分の発言に慌てる私の手首を彼が、険しい形相で掴んだ。
 ひいっ。綺麗な人って怒ると怖いのよ!
「いい加減、もう少し自覚を持ってほしいものだな。
 外見も中身も美しいお前に誰が敵うってんだよ」
「そ、そんなこと言ったって駄目なんだから」
 ぼっ、と頬に熱が灯る。鏡を見たら真っ赤だろう。
 ぐいぐい迫ってくる青は、唇に吐息を吹きかけた。
「もしかしたら、無防備な透明感を放つお前が
 少女の頃のあいつと重なったのかもな。
 ちっとも似てないんだが。
 あの時の俺のことが不可解でたまらない」
「……そ、そこまで言わなくても」
 ぶるぶるとお腹の辺りが震えてくるのは何故だろう。
「藤城家の血筋の女は、お前のような清らかさを持ち合わせていないからな。
 翠を見てれば分かるはずだ。あの二人は本当に厄介で……」
「お姉さまは純粋でデリケートな人だと思うわ」
「沙矢と一緒にいると安心する」
 しみじみ言われてしまう。
抱きしめる腕の力が強まったのは私の存在を実感するため?
「ありがとう。私も胸のつかえがとれてすっきりしたわ。
 今更なこと聞いて驚かせてごめんなさい」
「いや、俺こそ、もっと早く言っておけばよかったな」
 顔を上げて微笑んだら、彼の腕が膝裏に回り抱き上げられた。
「この家のバスルームはお前も気に入ってくれそうだ」
青の言葉に瞳が輝く。
 ぱああっ、とお花が咲いた気分だ。
「着替えを持って行かなきゃいけないから、
 自分で歩いて行くわ」
「ああ……」
 チッ、と舌打ちが聞こえたような気がした。
 すとん、と床に下ろされた私はバッグから下着と服を取り出す。
 それをバッグの中にしまっていたクリアバッグにしまい、彼を振り返る。
 彼も無造作に着替えを手に持っていた。
 何も言わず、私のクリアバッグを奪うと、空いている方の手を差し出す。
 ありがとうと伝えたくて、繋がれた手を握り返した。
「さっきのは、衝動だ。忘れてくれ」
 視線を下に向けた青は、若干恥ずかしそうだった。
 着替えを持っていないのにバスルームに
 向かおうとしたことくらい気にしなくていいのに。
 声が上ずらないように気をつけて唇を開ける。
「わ、分かった」
 廊下を歩き、先程一度案内された扉を開ける。
 扉の中を初めて開く興奮が胸を満たしていた。
 長い腕が壁際に伸び、照明がついた。
「ホテルみたい」
 着替えを置く籠のラック、洗面台が両側それぞれ向かい合わせに並んでいる。
 蛇腹状に開くタイプの扉の向こうに繋がる浴室が気になって仕方がない。
 洗面所とか、無粋な呼び方はしないんだろうな。
「じゃあ中で会おうな? 」
 軽やかな音がしてシャッターのようなものが降りてきた。
 彼が瞬時に移動したので、うっかり指先を伸ばしそうになるが、
 間仕切りが降りたあとでもはや届かなかった。
「脱がしっこしたかったなら言えよ」
「し、したくないわよ」
 慌てて両腕を振ったが、彼には見えてなくてよかった。
 リラックスし始めたのか、悪ノリしているようだ。
 ううん、これは本来の青だ。
 衣服を脱いで、タオルをきっちり体に巻きつけた所で彼に声をかけた。
「ねえ青……? 」
「独りぼっちで眠って寂しかった? 」
「寂しさで死ぬかと思ったよ」
 その途端に間仕切りが開いていき彼の姿が、露わになった。
 彫刻のごとく研ぎ澄まされた裸身。
 よかった。彼も腰元にタオルを巻いてくれている。
 ……いや、それでもまじまじ見るべきじゃない。
 吸い寄せられるように彼のそばに寄りそう。
 背中に腕を回すと、吐息が漏れた。
「大胆だな……まだ風呂も入ってないのに気が早いんじゃないか」
 ぶるぶると首を振る。
 大きな手が頭ごと抱いた。見上げると影が重なろうとしていた。
(キスだけなんだから)
 内心のつぶやきが届いたかどうか、ついばむようなキスのあと、
 すんなりと私は開放された。
 バスルームの扉が開かれると、その広さに圧倒された。 
 もはや声も出ずすたすたと中へ入っていく青の後を追うしかできない。
「私ここで洗うね」
 蛇口も何箇所かあるが、シャワーはマンションの部屋とは違い別室ではなかった。
 当たり前といえば当たり前だ。
 一人暮らししていたアパートなんて、ユニットバス だったことを思えば生活レベルが上がりすぎている。
「こわい……きっとどこかに落とし穴があるのよ」
 青と違い、一般的な普通の家に生まれた私は、まだ戸惑うことが多い。
 態度に出ないよう気をつけてはいるけど。
 彼に連れられ良質なホテルの部屋に泊まっていたあの頃も現実感がなかったのだ。
 文字通り彼以外見えなくて、他の何かを考える余裕はなかった。
 クリスマスに運命が変わった瞬間、世界に色がついたのだから。
 湯の流れる音にまぎれて、聞こえなかったのか、
 スルーしたのか、青の反応はなかった。
 体を洗い頭を洗い終えるまで一人の世界に浸っていた私は、
 反対側から湯の流れる音が聞こえてこないことに気づく。
(何しているのかしら)
 バスタブに浸かっているならば、微かでも音が聞こえてくるはずだ。
 微動だにしないはずがない。
 濡れない場所にかけていたタオルを体に巻いて
 移動する私は、後ろにふと人の気配を感じた。




next  back   sinful relations