「君が院長夫人になってからの話だからね」
「い、院長夫人!? 」
 目が回りそうになった私は長い腕に支えられた。
「少し遠い未来の話だよ。私もまだまだ引退するつもりはさらさらないから」
 お父さまの言うことは間違ってない。
 青との結婚に浮かれて、それ以上のことを見ていなかっただけだ。
「きっと彼女なら大丈夫だと信じていますから」
 ぼっ、と顔が熱を持つ。
 彼の言葉には力が宿っていた。
 信じてくれている。  過ごした時間よりこれから先の未来を見てるんだ。
「……彼女さえ紹介してくれたことのない青が、結婚を望んだ相手を
 連れてきてくれて、嬉しいんだ。まさかこんな日が来るなんてね」
 思わず、青のほうを振り仰ぐと無表情だった。
「私、頑張りますから」
 ぺこりと頭を下げた。
「そんな風に健気な君だから、彼も惹かれたんだろうね」
 厳しい光が眼差しから消えて、優しさしか感じられない。
 広々としたソファなのに、青は隙間がないほど膝を寄せていた。
 繋がれた指から重なる温度は不安なんてかき消してくれる気がする。
 紅茶を運んできてくれた操子さんに、お父さまは柔らかく目元を和らげていた。
 傍から見ると、濃密な空気が流れているようにも感じられてドキドキする。
 目線の合わせ方に艶があった。
 操子さんも、正確な年齢は存じ上げないが、
 楚々とした雰囲気の女性で、お二人が並ぶ姿はとても美しい。
 変な風に邪推したら失礼なのだけれど。
 慌てて目をそらすも、お父さまにはばればれだったらしい。
 にこにこと笑い、こちらを見ている。
「あ、あの……す、すみません」
「操子さんは青の姉である翠が生まれる前からこの家で
 働いてくれている人で、この家には無くてはならない家族なんだ」
「沙矢がこの家で暮らすようになったら、最高の味方になってくれる」
 お父さまのあとに青が続いた。
 二人の笑顔があまりにも似ていて、驚いた。
「紫(ゆかり)さん……青と翠の母親が亡くなった後、
 私はどれだけ彼女がいてくれて救われたかわからない」
 ストレートで飲む紅茶は、苦さの中に甘味があって、
 出してくれた人の気持ちが滲んでいた。
「私、お夕食の準備を手伝わせてもらってもいいでしょうか? 」
「ああ、操子さんも喜ぶよ」
 ぺこりと頭を下げて立ち上がる。
 キッチンに移動すると、てきぱきと操子さんが動いていた。
 いくつかの料理は既に出来上がっておりおしゃれに盛り付けられていた。
「操子さん、何かお手伝いさせてください」
「沙矢さまはお客様なのですから、よろしいのですよ」
 やんわりと断られそうになったが、ぶんぶんと頭を振った。
「もし、お邪魔でなければ、何かさせてもらえませんか? 」
 迷惑なら、諦めるけれど、彼女はどこか嬉しそうに瞳を輝かせたのだ。
 遠慮をしないでこき使って欲しいと伝えたかった。
「それでは、こちらの鍋をかき混ぜてくださいますか? 」
「はい! 」
 色々な野菜が、切りそろえられた鍋の中身はポトフだ。
 薄めの味付けで野菜の甘味を感じられるお料理。
「こんなにたくさんのお料理をお一人で作られているんですね。
 以前伺った際も、すごい品数でどれもこれも美味しかったですし」
「さすがにこんなに作るのは毎日ではないですよ。
 普段は旦那様と二人だけですし、もっと簡単に済ませることが多いのです。
 お客様がいらした時ははりきっちゃいますけどね」
 以前もそう仰られていた気がする。
 忙しく立ち働き、決して抜かりがない。
 このお家を影で支えている方なのだ。
 彼女がいるから、青も家を出る選択ができたのかもしれない。
 料理を作っていたにもかかわらず、ドアを開けた瞬間には玄関で出迎えてくれていた。
 感嘆の吐息をつきながら見習わなければと思う。
 マンションの部屋で、青の帰りを待っている時も
 タイミングを見計らって出迎えるのだ。
(この前なんて、書斎でうたたねしてしまっていて、
 彼に触れられて彼の帰宅に気づく始末だった)
「私も操子さんみたいになれるよう頑張りますっ」
「青さまが連れていらしたお嬢さまは本当に可愛らしい方ですね」
「え、いや、そんな! 自分の気持ちを言っただけですから」
 くすくすと笑う操子さんに、照れが襲ってきてお玉を高速回転させた。
 ダイニングにお料理を並べ終えると、お二人をお呼びしましょうと操子さんが微笑んだ。
「あ、私行って来ます」
 リビングに戻るとお父さまは、立ち上がりこちらへと歩いて来られた。
「この家は、料理の匂いが届かないんだけど、大体できる時間は聞いてたからね」
「操子さんのお料理を楽しみにされているんですね」
「今日は沙矢ちゃんも一緒に作ってくれたしね」
「そ、そんなに手伝えることなかったんでお恥ずかしいんですが」
「まあ今日はいいじゃない」
 ぽんぽん、と肩を叩かれたので、労ってくれているのがわかった。
「青、お父さまとゆっくりお話できた? 」
「……ああ」
 どこか疲れた風情なのは気のせい?
反対にお父さまはどこか元気になられたようだから、
 久々に大好きな我が子と過ごせて嬉しいのね。
 短時間ではあったものの、それぞれ素晴らしい時間を持てた。
「お前、何が今日は駄目だ。明日からだろ」
 耳元に注ぎ込まれた声は、甘さを含んでいた。
 彼は意地悪に笑っている。
 23センチの身長差を利用した荒業だ。
 どきんと、心臓が跳ね、脈も早くなった。
 正確に覚えている彼が小憎らしい。
「だ、駄目なものは駄目。私の実家みたいには行かないんですからね」
 ついでに、メッ、と言おうと思ったがやめておく。
 声を荒らげないように背伸びをしていると、
「青さま、お電話を頂いた後すぐに、お部屋を整えました。
 ベッドメイキングもばっちりです」
 操子さんが後ろから登場した。
 にこにこと清々しい笑顔なので、こっちが面食らう。
 あからさまだったお母さんと違い、まるきり裏が見えない!
「ありがとうございます」
 やましいのは、私なのかしら。
 青は、完璧な態度でお礼を言っていた。
 動揺を悟られぬよう顔を背ける私は、呼びに来たはずが
 半ば引きずられながら、ダイニングに向かうこととなった。
 当然ながら、飲み干した紅茶は綺麗に片付けられていた。
(お酒飲ませてはくれなかったくせに、ずるいわよ。
 あなたばかり好きにしようとするんだから)
 広い背中を凝視している内にダイニングへ
 たどり着いていて、平静を保つのに必死になった。
 多分、いや、絶対に漏れていないはず。
「操子さんも座りなさい」
「はい」
 操子さんは、長いテーブルでお父さまの対面の席に着席した。
 私は、青と対面した席だ。
「いただきます」
 お父さまの合図で手を合わせ食べ始める。
 ある程度食事が進んだ頃、グラスの水で唇を湿らせたお父さまが口を開いた。
 上品にナプキンで口元を拭っている。
「今日は、結納のことについてだろう。
 来週の土曜日の午後からでいいかな? 」
 唐突に切りだされ、あやうく本来の目的を忘れそうだったことに気づく。
 目配せに頷く。青も水を飲んだ後口元を拭った。
 皿からは、あらかたの料理がすでに消えている。
 大皿の料理を取り分けるのは、お父さまが運んでくださって、
 思った以上に和やかな時間となった。
 一瞬、考えた後口を開いた青は、決然とした表情を浮かべていた。
「先ほど、彼女のお母さんにも電話でOKしていただきました。
 来週の土曜日、よろしくお願いします」
「もちろん、送迎はするんだろう?
せっかく東京に出て来ていただくんだから
 こっちに泊まって頂いてもいいんじゃない。
 青と沙矢ちゃんのマンションか、ホテルでもお取りして」
「あ、あのマンションに泊まってもらいますから! 」
 ホテルだなんて、絶対断るに決まっているし、
 うちに呼ぶのが無難だろう。青も頷いてくれている。
「じゃあ、来週ということで決まりだね。
 今日は沙矢ちゃんが泊まってくれるし、賑やかなことが続くね」
 至極嬉しそうなお父さまにつられ私は、笑った。
 空になった料理の皿を片づけようと立ち上がる。
 自分の分を持ち、お父さまの分を持って行こうとしたら、大丈夫だよと手で制された。
 青も自分で片づけるようだ。
 先ほどまでお仕事をされていたお父さまはゆっくりされたいはず。
 忙しない思いをさせてしまい申し訳なくなった。
   「本当に、私のお仕事を奪うのがお上手でらっしゃるんですから」
 少し恨めしそうに、操子さんは言うが、困った風ではない。
 むしろ、尊大ではない、この家の人達に親しみを感じているのかもしれない。
「昔からなるべく自分のことは自分でするのが当たり前だった。
 操子さんに料理を教わったのが懐かしいよ。
 男が台所に入るなとか、おかしいと父もよく言っていた」
 不器用な口調が、可愛くて、胸がどきどきした。
 照れている風でもなく淡々としているんだもの。
 私も操子さんに座るよう薦められたけれど、断った。
 このお家で過ごす時間はたっぷりあるんだもの。
 食器を片付けた後、二人はリビングに向かっていた。
 お父さまと青は、仲良くお話するみたいだ。
 その微笑ましさに影から目を細めていた。

 青とお父さまの話は意外に早く終わったみたいで、
 彼を呼ぶ前に、ダイニングにお迎えがきた。
 どこか憮然としているようなのは久々に
 親子で語らいのひとときを過ごして、照れているのかしら。
「部屋へ行くぞ」
 リビングに置いていた荷物を二人とも持ち部屋へ向かう。
 操子さんが運んでくれるとの事だったが、丁重にお断りした。
 胸が、高鳴って仕方がない。青のお部屋はどんな風なのだろう。
 赤い絨毯の敷かれた螺旋階段を上る。
 お掃除大変そうなのに、塵落ちていないのがすごい。
 手すりにつかまるまでもなく、彼の腕に掴まってゆっくりと上っていく。
 王子様に手を引かれているお姫様みたいだなんて、
 沸いた事を考えてしまった。
 こんな御伽噺(おとぎばなし)に出てきそうな階段を
 王子様みたいな人に連れられて上っているんだもの。
 お姫様気分になってしまうのも無理は無いわ。
 ちらり、頭上から視線が注がれたのでぶんぶんと頭を振る。
 真顔なので、まったく感情はわからない。
 階段を上り終えた後、彼が部屋の説明をしてくれた。
 どうやら階段は二階より先に続いているようだ。
 二階は、青の部屋や、第二リビング、バスルーム、トイレ他、
 彼が自由に使えるスペースだと教えてもらい、息を呑んだ。
 いつでも帰れる場所が用意されているってことよね。
 あのマンションよりも広いスペースを彼が実家で所有しているだなんて知らなかった。
(さすが、おぼっちゃま! と口走りそうになったが、
 後が怖いので慌てて口元を押さえた)
 一階はお父様の自室の他、ゲストルームや多目的ホールがある。
 このお屋敷で働いている人達の部屋はない。操子さんは通いだそうだ。
 説明を聞くだけで、疲れたような。
 多分、一人だと確実に迷う。
 翠お姉さまのお部屋は、二階から三階に移動したってどう反応したらいいのだろう。
 



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