出迎えてくれた翠お姉さまに、ひしっと抱きしめられた。
 長い腕が、首にしなやかに絡められ、いい匂いもしてドキドキする。
「この間も思ったけど、また綺麗になったわね、沙矢ちゃん」
「えっ……そんなことないですよ」
 腕の中でもじもじすると、背中に回された力が強くなる。
 色っぽい大人の女性にぎゅうっと抱擁されくらくらした。
「そこの青くん、実の姉に婚約者(フィアンセ)を奪われて焼きもち焼いてるんでしょ」
 お、お姉さま、何てこと言うんですか!
青は、女の人に嫉妬するような小さい器じゃないですよ。
「それは、ないと思います! 」
「沙矢ちゃん、あなたには今見えてないと思うけれど、
 背後から、凄まじい負のオーラが伝わってくるの。
 限界むかえるまでどれくらいかしら」
 翠お姉さまは、いたずらっぽく笑い、私に頬ずりした。
 お母さんより年下だし、年齢を感じさせない若々しさ。
 香水の匂いがほんのりと漂い、上品だ。
 高校生のお母さんだなんて、信じられない。
「あの……ドキドキします」
「まあ、可愛い」
 玄関で戯れること数瞬、後ろから、べりべりと引き剥がされた。
 気がついた時には、長身の男性の腕の中に囲われていて、呆然と彼を見上げた。
「……うっわ、わかりやすっ」
 翠お姉さまは鼻で笑ったようだ。
「純真な沙矢を弄(もてあそ)ぶな。魔女が」
「美魔女と言ってちょうだいな」
 青はさらっとスルーし、家人より先に廊下の奥へと歩いて行く。
 悠然と後ろから、ついてくる翠お姉さまこそ、青を弄(もてあそ)んでいるんじゃないかしら。
「いらっしゃいー、待ってたよ」
「お兄さま、お招きありがとうございます」
「いやいや、よく来てくれたね」
「そんなに長居はしませんのでご安心下さい」
 青は、あっさりと言い放ち私の手を強く握った。
「つれないねえ」
 眼鏡のブリッジをいじりながら、くすっとお兄さまは笑った。
「ちょっとからかったら機嫌損ねたみたい。この子、まだまだ子供ね」
 この子とか、言えちゃうのは姉だからだ。
 13歳離れていたら子供扱いされても仕方がないのね。
「ふたりとも、改めて婚約おめでとう。
 一段落ついたね」
「はい。ほっとしました」
 ぺこりと会釈する。
 青と共に対面のソファに腰を下ろして、向かい合う。
 しばらくすると翠お姉さまが、いちごのショートケーキと、紅茶を運んできた。
「どうぞ、召し上がれ。青も昔からよく食べてたお店のケーキよ」
「……この前親父に土産で渡されたばかりだな。芸がない」
「あら。食べなくてもいいのよ、別に」
 翠お姉さまは青の皿をさっと手元に引き寄せようとしたが、
 青は、見事にそれを阻止した。
 この姉弟、可愛い……。
 口走りかけたが流石に口には出さないでおく。
 翠お姉さまの青への態度は、砌くんに対する態度とさして変わらない。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 お兄さまが、勧めてくださったので、紅茶で唇を湿らせた後ケーキにフォークを刺した。
 フォークをあてるとすぐ崩れるので、すごく慎重になってしまう。
「いいんだよ、マナーとか気にしないで」
 優しく言ってくださるお兄さまに、頬を染め思い切りフォークを突き立てた。
 口に運ぶと、優しい甘みが口いっぱいに広がる。
 横目で見ると、青は上手にフォークで切り繊細な仕草で口に運んでいた。
「そういえば、沙矢ちゃん達は出逢ってどれくらいになるんだっけ? 」
 お兄さまに唐突に切りだされ、言いあぐねる。
「去年の4月に運命の出会いをしました」
「運命ねえ……」
「運命ですよ。出逢った瞬間にびびびっときたのは確かですから」
 言えるはずもないし、二人だけが知っていればいいことだ。
 翠お姉さまが、青を睨んでいるのに気づいて、言い添えた。
 きっと、私を傷つけたことを言っている。
 言葉に出さずとも、自然と分かるものなのかしら。
 初対面の時も、結構攻撃されていたような。
「翠、青が、俺達に好きな人を紹介してくれたことって今まであったっけ? 」
「なかったわね。私達だけじゃなくお父様にだって紹介したことないでしょ。
 屋敷に帰るのなんて、お母様のお墓参りの時くらいだろうし、
 この子って、何でもぶっちゃけるタイプじゃないじゃない」
 青は、黙って紅茶のカップを傾けている。
「私も最近までお医者さんだって知らなかったですもの」
「えー、本当に? あ、なるほどねえ」
 翠お姉さまは納得した風にぽんと拳を叩いた。
「沙矢が、藤城家のことを何も知らなかったから選んだって言いたいんでしょう。
 俺と沙矢は魂で惹かれ合ったんだから関係ない。
 知っていようが沙矢は俺の中身を好きになってくれたんだから。
 俺も彼女が彼女であるから、惹かれましたし」
 胸が熱くて仕方がない。
 青の言葉は、心の奥底まで染み渡った。
 照れもせず臆面もなく、姉と義理の兄という身内の前で言ってのけた彼。
 照れよりも、じわり瞳に涙が伝う。
「はい。青の言うとおりです。私は藤城のお家のこととか
 何も知りませんでしたけど、彼が何者であろうとも
 関係なく好きになってたというのは断言できます」
「気持ちを疑っていたわけじゃないのよ! ごめんね、沙矢ちゃん」
 ぶるぶると頭(かぶり)を振るう。
 翠お姉さまは、ぽんと頭に手をおいてそっと撫でた。
「あのクールな青が、こんなにも熱くのろけるなんてね……
 いいもの見せてもらったよ」
 食わせものだ。
 眼鏡の奥の瞳を見ても何を考えているのか定かじゃない。
「クールぶってられないほど、沙矢ちゃんにやられちゃってるわけね」
「いけませんか」
「よかったわ、本当。6月だなんて言ってないで早く式挙げちゃえばいいのに」
「段取りきちんとしなきゃいけないんだろうが」
 気まぐれな物言いの翠お姉さまに青が、軽く切れたようだ。
「子供作っちゃえば! 今すぐ作れば式の時目立つこともないし」
「デリカシーのかけらもないな」
 翠お姉さまは悪びれない。青は、呆れたのかむっつりと口を閉ざした。
 激しく言い争うわけでもないが、何だかこの空気って。
 ひやひやし始めた所で、のんびりとしたお兄さまの仲裁が入った。
「まあまあ、二人もちゃんと時期を考えて計画してるんじゃない。
 沙矢ちゃんも仕事頑張ってるんだろうし。
 実家に戻った頃合いとか、ベストタイミングでご懐妊とかね」
「……そこまで推し量って頂き、返す言葉もないです」
 内科医だったかな。
 さすがとしか言いようが無い。
「青は、子供を取り上げたいみたいなんですけど、
 それはお父様がしてくださるそうです。
 私も、彼には付き添ってほしいなって思いました。
 今から早いんですけどね」
「それがいいかもね。
 私の場合陽は産婦人科医じゃなくて無理だったけど、
 ついていてもらえてどれだけ心強かったかわからないもの」
「自分の妻の出産に付き添わない夫がいるかい? 」
「まだ新米医師でも、夫としては満点だったわね」
 微笑み合う二人に、将来こんな風になれるだろうかと考えた。
「十八年前って、青が小学校4年生の頃ですよね! 」
「最高に可愛かったけど、最高にムカつくガキんちょだったわね」
「本人が目の前にいるんですからオブラートに包んだほうが」
「自分でもわかってるはずよ」
「……飄々としてる父と、歳の離れたおかしな姉、
 ついでに、義理の兄まで曲者だった。そりゃあ擦れるだろ」
 開き直った青に、ぷっ、と吹き出しかけた。
 環境が人を育てるというけどまさにそのとおりだったの?
「……私達のせいにしたわ、陽」
「7歳当時の青に初めて会った時、只者じゃないと思ったけどね。
 今の片鱗が垣間見れていたよ」
 陽お兄さまは、21年も前から青を知ってるんだ。
「翠が20歳の時に結婚したからね。
 まだ僕が医大の6回生だったころだ」
「7歳の青……」
 わくわくと言った表情をしていたのがバレたのだろう。
 翠お姉さまは、にんまり笑った。
「また教えてあげるわね」
 女の子のように可愛くて、とびきりの美少年が、変貌を遂げたのはいつなのだろう。
 私が生まれたのは、青が7つになった頃だ。
 藤城総合病院で生まれたがその頃は、お互い知ることもなかった。
 やはり縁なのだろう。
「砌くん、そういえば、急いで出て行きましたよね。
 デートですか!? 」
「勉強兼デートね。春休みだからって浮かれてちゃ困るわ」
「青春ですね」
「そうねえ。道を踏み外さないようしっかり教育してきたつもりだから
 大丈夫だとは思うけれど。叔父さんと違って純粋だから」
「え、青は今も純粋ですよ」
「沙矢ちゃんは、本当に穢れてないのね」
「当然だ」
 穢れてないわけじゃないんだけど。
 焦り始めた時、青が急に手を握ってきた。
「そろそろ失礼します。今日はありがとうございました」
 青が、慇懃に姉夫妻に会釈し、リビングを去ろうとするので慌てた。
「ありがとうございました」
 ぺこりと大きく頭を下げる。
「またいらっしゃい。今度はご飯でも食べていってね」
「わあ。ありがとうございます」
 翠お姉さまが、微笑んでくれて、じーんと胸があったかくなった。
 玄関先でお兄さまとお姉さまに見送られながら、葛井家を後にした。
「素敵なご夫妻……砌くんもかわいいし」
 帰りの車の中で、しみじみ呟いた私に、
「あの年頃に、かわいいはないと思うぞ」
 青が呆れた風に言った。
 運転中だから視線はこちらに向いてはいない。
「そうかしら? 」
「子供みたいに見えても4月から高3だ。
案外、邪(よこしま)な好奇心旺盛かもしれないぞ」
「それは、自分の高3の頃でしょ? 一緒にしちゃ駄目よ」
 きょとんと返したら、さらっと返ってきた言葉に唖然とした。
「とうの昔に一通りのことは知っていたかな」
「……ありそう。怖い」
「若気の至りだ。愚を犯す真似は一度もしていないがな」
 信号で停まった瞬間、視線で射抜かれた。
 顎を指が掴み、顔が眼前に迫る。
 綺麗な人の真顔に戦慄を覚えた。
 隙だらけになっちゃうのはこの人だから。
 彼は、その隙を決して逃さない。
 瞳にとらわれた瞬間に、甘い口づけをされていて、吐息を宙に逃がした。
 次第に濃厚になって、ぷつんと二人の間で白い糸が途切れる。
 頬を紅潮させ、恋の熱に酔う。
 私をこんなにも乱れさせておいて、彼はすぐ普段の調子に戻ってしまう。
 切り替えが早いのもお医者様だからなの?
「青の……ばか」
 濡れた唇で、精一杯の悪態をつく。
 その瞬間、彼が、フッと笑った気がした。
 車は海の方向へひた走った。
 あの日の情景が、頭をよぎりしあわせな今があることに涙する。
 二人で見た太夜の黒い海。
 今日は夕日に照らされて燃えるように輝いている。
 砂浜で、欲情した彼に求められ、急くようにホテルに向かったんだっけ。
 車を降りて砂の上を歩く。
 長い腕が腰を抱いて、引き寄せる。
 上目遣いに見上げると、小さく微笑んでくれた。
 あの時よりもずっと甘い時を過ごしている。
 ざくざく、と砂の上を歩く。
 帰ったらブーツの砂を払わなきゃ……なんて余裕なかったなあ。
「野外でしたいなんて思わなかったんだが、
 我を忘れるほどお前が欲しくなったんだ」
「……うん」
 心が追いついていかなかったけれど、あなたが、
 そんなふうに求めてくれてどれだけ嬉しくて心躍っただろうか。
 この波にさらわれて消えてしまえたら。
 埒もないことを今は考えたりしないわ。
 握りしめられた手で光る指輪(リング)が、私に勇気をくれた。
「大好きよ……青」
 踵を立てて背伸びをして、唇を重ねる。
 宙に浮いた足ごと体を抱えられ、抱擁を受けた。
 あまくて、溶けちゃいそうなキスが繰り返され、
「ああ、大好きだ、沙矢」
 ぐるぐると体が回転する。
 目が回りそうになった時、抱きとめられた。
「もう、バカップル決定ね」
「お前となら構わない」
 クールな表情で、つぶやかれた言葉はひどく熱がこもっていて、
 冷静と情熱の間で生きる彼にまた惹かれるのを感じた。




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