会社の建物に入る前に、携帯を操作する。
 別れたばかりでメールが来たら彼も驚くだろうが、
 思いついた時に言っておかねば!
 返事とのタイムラグを考えれば、今送っておいたほうがいいだろう。
『急でごめんなさい。
 今日、陽香をマンションに誘ってるの……。
 事後承諾なんて、たちの悪いことをした罰は受けるので、
 今日一緒に帰るのを承諾してもらえると嬉しい』
 誘った当日に許可を得るべきだったが、つい言いそびれていた。
 なあなあになっては駄目なのに。
 私の方は青がお友達を連れてくるのは大歓迎だ。
 むしろ、会いたい!
 休憩時間に携帯を覗くと、青からの返信が届いていた。
『もちろんOKだ。陽香さんを丁重におもてなしするんだぞ?
これ以上ボケをかまして迷惑かけるなよ。
 今日は泊まっていってもらえばいい。
 俺も今日は早く帰れるから、それまで一人で大丈夫だな?
 まったく、もっと早く言えよ。クッ』
信用されてないのかしら!
私のボケっぷりを危惧しまくる青に、わなわなと拳が震えた。
 最後の一言は余計というか、容赦がなさすぎる。
 メールの文明に顔文字ではなく笑い声を伝える人がいたのか。
 携帯をぱたんと閉じてデスクに向き直る。
 罰のことは何も書かれてなかった。ラッキー!
 いそいそと、給湯室に向かいコーヒーを作ると部長室の扉を叩いた。
「どうぞ」
「失礼します」
 会釈し、櫻井部長のもとへ歩いて行く。
 驚くほど前と変わらない風景だ。
 マホガニーの机も調度品は全部会社の持ち物だから当然だが。
「水無月さんか。あれ、コーヒー持ってきてくれたの? 」
「はい。昨日のお返しです」
 口元をゆるめて笑う。
 私の言葉に、一瞬ぽかんとした櫻井部長は、含み笑いをし始めた。
 も、もう。青のメールじゃないんだから。
「ああ、ごめんね。皆が皆仕事の合間にお茶を持ってきてくれるものだから、
 お腹がぱんぱんなんだよ。
 お返しは日替わりの当番制って事前に伝えておけばよかったかな」 
 そういえば、うちの会社は社長以外は秘書がいないし、
 一般社員及び管理職の人間までセルフサービスで
 自由に給湯室でコーヒーやら紅茶を作ってデスクに持っていく。
 新入社員の時はお茶くみ要員になることもあったが、
 部長職の人間が、お茶を一般社員に運ぶなどありえないことだ。
 これは、どの会社でも同じだろう。
「そ、そうですね。櫻井部長は大人気だから、
 部の社員が全員日替わりで来てくれますよ」
「ははは。ありがとう。そうだと嬉しいな。
 私こそちゃんと皆に信頼されているかわからないからね。
 前の社会不適合者よりは、信頼に足るとは思うんだけど」
 ぎくりとした。
 春日元部長は、私に消えない傷を残した。
 あの時を思い出すと今でも震えが走るが、どうにか平静を保つ。
「当たり前じゃないですか」
「水無月さん……、君があってはならない出来事に遭遇したことは
 不幸の一言では片付けられないだろう。ああ、聞くつもりはないよ。
 本来は部下を守るのが、上の人間なのだから」
 泣きそうな気分になる。
 これが当たり前で、私も言い寄られる前までは、信じていた。
 青が表に出ないようにしてくれたのか、
 会社の上の人間には誘拐監禁のことまでしか、伝わっていない。
 それ以上の真実を知るものは私以外この会社には存在しないのだ。
 聞かれたことには答えたが、突っ込んだことを聞かれなかった。
 上の人間は傷つき疲弊した私をかばってくれたのだ。
 結婚してもできるだけ辞めたくないというのは、この会社が本当に好きだからだ。
「はい……」
「これからは普通に様子伺いに行くからね。
 決して信頼してないわけじゃないんだよ。  じゃあ、今日も頑張って」
 おどけた風に笑った部長に深く頭を下げて部長室をあとにした。
 わざわざ言わなくていいことを伝えてくれる姿には、
 一ミリの隙がないより、親近感がわく。
「今日、大丈夫なの? 」
「う、うん。青から丁重なおもてなしを仰せつかったわ」
 昼休み、食堂でお弁当を広げながら、陽香が、不安げに訪ねてきた。
 まさか、今日話したなんて言えない。
「期待してます」
「ふふふ。自分のうちだと思ってくつろいでね! 」
 青と一緒に暮らすマンションに友達を招くなんて、
 初めてのことで、緊張するが、陽香なら平気だ。
 彼からの信頼もばっちりだし。 
「そういえば沙矢が暮らす所に行くのって久々だわ」
「あっ……えーと」
 去年の5月辺りまでは、会社帰りや週末に
 一緒に遊んだりしていたものだが、
 彼と会う日が増えるにつれ会社以外で陽香と過ごす時間が減っていた。
「深刻な顔しなくていいんだってば。
 今、楽しそうなんだもの。もしもの場合は
 私も何してたかわからないけどね」
 恐ろしい言葉は耳打ちで伝えてきた。
 びくびくっとしてしまったが、これは私ではなく青への言葉なのだろう。
「沙矢はみるみる痩せていったもの。
 いらない部分だけ痩せて、胸なんて更に大きくなったじゃない。
 これはただ事じゃないと思ったわね」
 陽香の視線が胸元を凝視していた。
「だから聞いたのよねえ。私を置いて誰と会ってるのって。
 親友を放置して会っている割に、寂しそうだったし、
 なんて悪い男なのよと、ハンカチを歯噛みしていたわよ」
「いっぱい心配かけたものね」
「あなたと青さまが不器用すぎたからよ」
 ぐさっ。いや、私も同罪だと陽香が言ってくれたから安心だけども。
「そう言われると否定出来ない」
 喉に詰まりそうになった卵焼きをお茶で流し込んだ。
 マグボトルは保冷と保温両方が聞く優れもので重宝する。
 スローテンポな食事を終え、給湯室に向かう道すがら親友は微笑む。
「青さまと沙矢の住むデザイナーズマンションかあ」
 何だかとても楽しみにしてくれているようだ。
「泊まっていく? 」
「そ、それは悪いわよ」
「別にいいのよ。私も広い部屋を使わせてもらってるし。
 服なら貸すから」
「終電で帰るから、二人で駅に送ってほしいわ」
 頑なに断る陽香に、距離を感じた。
 青も大事だが、陽香も大事な人だ。
「私が沙矢を独り占めしたら、青さまが孤立してかわいそうだもの」
 あまりにもかわいい主張に、思わず抱きついたら
「胸のせいで圧迫感が」
 と言われた。
その割にぎゅうぎゅう抱きしめてくるんだけど!
「大丈夫。青は独りで寝室で寝るから、私の部屋で一緒に寝よ」
「たまにはってことで? 」
「うん。じゃあ午後も頑張ろうっ」
「おお頑張ろうぞ、我が友よ」
陽香の笑みは凄まじく輝いていた。
 注いだ紅茶に、ステイックシュガーを一本、
 ポーションミルクを投下してデスクに戻る。
 明日は課長にお茶を持って行こうと密かに誓った。
 仕事が終わり、陽香とバスに乗ってマンションに戻った。
 アパートに向かう時は、別ルートのバスだったので、新鮮らしい。
 マンションからもさほど遠くない停留所があるが、最近は、
 仕事に向かう際に乗ることがほぼなくなった。
 青が送ってくれるからだ。
 ゆったりとバスに揺られるのも、青の車で二人の時間を
 過ごすのもどちらもそれぞれの良さがある。
「何なの、ここは。入る前から空気が違うんですけど」
 仰天している陽香の袖をむんずと掴んだ。
「さすが、青さまね」
「私もそう思う」
「鍵開けるから待っててね」
「うん」
 まず、第一のセキュリティを解除し、
 エレベーターを降りたあと、部屋の鍵を開けるのだ。
 指紋認証システムを通し、解除する。
後ろから、覗きこんでくる陽香を意識して
 緊張してしまい、少し手間取った。
 無言で見守ってくれる彼女が有難い。
「こういう所に住むのも大変ね」
「だいぶん慣れたつもり」
 ははは、と苦笑いする。
 目的の回数に辿り着き、陽香の手を引っ張った。
「ここなの」
 鍵をあけて、ドアを開くと、陽香を先に中へと促す。
「ワンフロア全部青さまと沙矢の部屋……じゃなくてお家(うち)なのね」
「……うん」
 玄関先で靴も脱がずに立ち尽くす陽香に、スリッパを揃えて差し出す。
 彼女は、固まっているようだった。
「どうぞ」
「お邪魔します」
 緊張しているのかぎこちない動作だ。
「取って食う人は誰も居ないから平気よ」
「そうね。いつも取って食われているのは沙矢だものね」
「……もう」
 むう、と頬を膨らませるも、調子が戻ってきた
 陽香に安堵としたのも事実だった。
 リビングに案内し、ソファに誘った。
 お客様が訪れるのは二度目だが、
 対面でソファを並べる意味はこういう時のためなのだ。
「ちょっと待っててね。コーヒーでいい? 」
「お構いなく。夕食の準備手伝うわ」
「いいのよ、お客様は座ってて」
「はーい」
 少し申し訳無さそうにしたものの、陽香はついてこようとせずソファに座った。
 お客様に手伝ってもらうなんてできない。
 冷蔵庫の食材を確認し取り出していく。
 お湯を沸かして、リビングに戻ったら、きちんと足を揃えて陽香は座っていた。
「リラックスしてね! 」
 テーブルの上に、コーヒーとミルクを置いてテレビをつける。
 彼女はミルクしか入れない。
「じゃあお言葉に甘えて」
「うん。もうすぐ青も帰ってくるから」
 掛け時計を確認すれば、もうすぐ7時。
 今日は早く帰るらしいと聞いたからあと30分くらいで彼も帰ってくるだろうか。
 定時より遅くなったが、食材も残っているのは確認していたし
 買い物に行かなくていいので作る時間を十分取れる。
 トマトソースのハンバーグにスパゲティを添え、
 コンソメスープとサラダ、ご飯も白い皿に持った。
 ハンバーグのたねを冷凍していたので、比較的楽に作れた。
 ダイニングのテーブルに三人分を並べて、陽香を呼びにリビングに戻った。
「ごはんできたので、どうぞこちらへ」
 おどけてみると、口元に手を当てられる。
「はあい」
「まだ笑ってない? 」
「だ、だって言葉の使い方がおかしいんだもの」
 まあ、いいか。
 陽香が笑ってくれるならと諦観の域に達していた。 
 彼女をダイニングまで案内し、彼が戻った気配がしたので玄関に駆けつける。
「おかえりなさーい」
 中からドアを開くと、スーツ姿の彼が、じいっとこちらを見ていた。
「ただいま」
 言いたげなのに何も言わずバッグを持ったまま中へ入っていく。
 いったん、手を洗いに行って戻ってきた彼は
 この場所に初めて迎えたお客様の姿に目を留めた。
「あ、青さま……お邪魔してます」
 椅子から立っていた陽香が、深々と頭を下げた。
「いらっしゃい、陽香さん。今日は来てくれてありがとうございます」
「あの、私、別に丁寧語じゃなくていいですよ。
 こう見えて沙矢と同い年ですし! 21歳目前ではありますけど! 」
「そう仰るなら崩していいかな? 」
「もちろんです」
 目元を和らげた姿に陽香が心臓を押さえている。
 この人こそ無駄に色気を振りまいているのではなかろうか。




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