金曜日になり、藤城総合病院を訪れた私は薬をやめることを伝えた。
 個人的に訪れていたから、藤城家に恋人がいることはもちろん告げていない。
 お父様とも、お兄様ともすれ違わず病院の外に出た。
 総合病院だから、ありとあらゆる病気や
 症状に対応しているし、病棟もあるのだ。
 大きな病院なのだから、会うことが奇跡と思われた。
   待ち合わせした最寄りの駅で、待っていると、青の車がロータリーに入ってきた。
 あっという間に駐車場に停車して目の前に停まった。
 鍵が開いた助手席の扉を開ける瞬間、
 ちら、と周囲を見渡したら、女性達が、ため息を漏らしていた。
 皆さん、目ざといですね。
(相当かっこいいけど、ドSですよ、この人! )
 目がハートになっている女性に告げ口してあげたい。
 青がモテモテなのは、とっくに知っている。
 女性たちに黄色い声を上げられても彼は至ってクールだ。
  「お前、にやけてるな」
  「第一声がそれなの。失礼しちゃうわ! 」
   助手席に座った途端、彼から放たれた言葉にむうっと頬をふくらませる。
  「よからぬことを考えていたのなら、相応のお返しをしてやるが」
  「……か、考えてないです」
   さりげなさを装ったが目が泳いでいたらしい。
    「百面相も絶好調だし、体調もいいみたいだな」
  「表情変わらないあなたが変なの」
   言い返して、我ながらナイスだったと拳を握る。
  「ふうん」
   顎に手を当て、こちらに顔を向けた彼は、彼特有の笑みを貼り付けていた。
   邪笑だ。
  「ひっ……」
   語尾がかすれた。微かに震えてしまう。
  「そんなに怯えなくてもいいじゃないか。これから楽しい食事の時間だろ」
  「青って使い分けてるんじゃない! やたら甘い時といじめっこの時があるもの」  
  「どっちが好きなんだ、さーや」
   体が、密着している。腰に回された腕から熱が伝わってきた。
   顔を真っ赤にしながら、掴まれた顎を意識する。 
  「甘すぎるより厳しくもされたいし、
  ドSな時でも、私に悪意があるわけじゃないから」
   言いよどむ。彼の方を見つめる。
  「どっちかなんて選べないの! 両方大好きに決まってるわ」
   きっぱりと口にしたら、背中を強く抱きしめられた。
  「っ……お前は手に負えない」
  「どういう……? 」
  「図に乗ってもいいと解釈するぞ」
  「うん」
  抱きしめ返して彼に応える。
   わざわざ車内を覗き込む人はいないと思いたいが、
   青は、まるで気にしていないようだ。
   今は夏じゃなくて春だから、遮光フィルムはない。
「出発したほうが」
   恐る恐る口にすると、舌打ちが聞こえた。
 こちらの準備を確認すると、エンジンをかける。
「今日はそうだな、前菜(オードブル)を軽くいただこう」
 全身が火照った。
 耳元に甘い低音を注ぎこむんだもの。
 何もされて無くても、腰が砕けそうになった。
 シートに体を沈めて顔を覆う。
「……青ったら」
 深くは触れては来ないはず。
   青が言う前菜って何かしら。
 まさか、言葉で責め苛まれる?
   勝手に想像していたら、頭まで沸騰した。
   加速し、車はレストランに向けて走りだした。
 食事中は、会話もスローテンポになる。
 お互い咀嚼(そしゃく)した後か、水を飲んだタイミングでしか会話はない。
 それでも、居心地が悪いなんてことはなく、とても良い雰囲気に感じた。
 ピアニストに聴きたい曲をリクエストすれば弾いてくれると聴いて、リクエストをした。
 店内は予約制となっていてお客さんも何組かしかいない。
 リクエストは私しか希望しておらず、すんなりと受けてもらうことができた。
 ショパンの別れの曲。
 青は、私が口にしたタイトルをいいんじゃないかと笑った。
 フッ、と口元に小さく刻まれた笑み。
「しっとりとした雰囲気なのに寂しくなくて、
 逆に勇気づけられるわ」
 ナイフとフォークを置いて、ピアノの音色に耳を傾けた。
 私も飲んでいないし、青も、ドライバーだから、お酒は飲んでいないが、 
 飲んでいる気分でグラスを合わせた。
 大きく鳴らしたりなどもちろんしない。微かに触れ合わせる程度だ。
「タイトルだけで倦厭(けんえん)してしまうのはもったいないな」 
「でも、今だから聴けるのよ」
 明日、結納でもお食事の席を設けていただくのに前夜に贅沢をしているような。
 青と一緒に暮らしていても自分の金銭感覚はあまり変わってないから、罪悪感を覚えるのだ。
「気にせず食事の時間を楽しめ。その方が美味しいだろう? 」
 顔に出ていたのだろうか。青の言葉にはっ、とし、頬を染めた。
 この間、三ヶ月ぶりに二人でランチを食べたっけ。
 以前のぎこちない雰囲気はなくて、とてもくつろいだ食事だった気がする。
 どんなものを食べるかじゃなくて、誰と過ごすかなんだわ。
 出てきた料理は、綺麗に平らげる。
 家で食べる時も、残したり決して食材を無駄にすることはない。
    自分で納得いかない出来でも、青は、文句を言わず食べてくれる。
 不安な顔をしているとさりげないアドバイスをくれたりする。
 ナイフとフォークを置いて青に微笑むと彼は目線で頷いた。
 支払いをすませる間、私は後ろで彼の背中を見つめていた。
 帰りの車の中明日のことを連絡しておこうと母に電話をかけた。
 間をおかず出てくれたけれど、念のため聞いておく。
「お母さん、今大丈夫? 」
「大丈夫よ。明日のことかしら? 」
「8時過ぎに、こっちを出て迎えに行くから」
「本当にいいの。何だか悪いわね。電車で行くこともできるのに」
「青も是非って行ってるから気にしないで!
 私と青のことで来てもらうのに電車で来てもらったりしたら、
 お父様に怒られちゃうわよ」
「藤城先生と随分親しくなったのね」
「馴れ馴れしいかな」
「それで、いいと思うわ……明日よろしくお願いします」
「はい」
「おやすみなさい」
「おやすみ、沙矢。青くんにもよろしくね」
 駄目だ。母に青くんって呼ばれるの聞くのおかしい。久々だから余計破壊力がある。
 口元を押さえて笑いをこらえるが、含み笑いをごまかすことは出来なかった。
 身をよじって体を震わせる私に、運転中の彼は気づいてないだろう。
 マンションに着くまで、そのことだけを祈っていた。
「ふう……」
 リビングのソファに沈み込んだ後そんな声が漏れた。
 パジャマは、洗面室の籠に置いてきている。
「姫はお疲れのようだな? 」
「……そうみたい」
 隣に座る彼が、ぴったりと膝を寄せてきて、どくんと心臓がはねた。
 腰に腕がまわり、拘束されてしまう。
 びしばし伝わってくる凄まじい威圧感。
 陽香、ドSは鳴りを潜めてなんかいないのよ。
 王子さまみたいな人に姫って言われると顔が真っ赤になるじゃない。
「あの……えっと? 」
「車内でお母さんと電話していた時何故あんなに笑ってたんだ。
 疲れがピークに達した時の壊れたテンションだけじゃ説明つかないよな? 」
(ぎゃあ。気づかれてたっ)
 気づけば腕の中で、甘い呪縛にとらわれていた。
 熱い体が、私を包み込む。
「……な、なんでもないわよ」
「正直に言わないと……」
 間を置かれ、恐ろしさを感じた。
 耳元に、吐息ごと言葉を吹きかけられる。
「日曜日の夜、声が出なくなるほどお前をよがらせてやるよ」
 この人、本気だ。直感した。
 舌がぺろりと耳朶をなぞり、びくんと背筋が震えた。
 これって前菜なのかな。
 どきどき鳴り響く心臓が警告を鳴らす。
 正直に話せば大丈夫だと。
「お母さんが青くんって呼ぶのがおかしかったんだもん」
 青が口を閉ざした。何だか恐ろしい。
「問答無用で抱きつくす。覚悟しとけ」
 言ったって駄目じゃない。
 月曜日の寝不足が危ぶまれるけど、言葉を額面通りに受け取る必要はないんだ。
 そこまで、節操無しでも考え無しでもない。
 日付が変わる頃には眠れるだろう。
   寝室に入るとキングサイズのベッドにもそもそと潜り込む。
 そういえばこの部屋には仕掛けがあったはずだ。
「どこだったかしら? 」
 疑問が口に出ていた。
 彼が浴室から戻ってきたら、スイッチを入れてもらうことにして、ごろごろとベッドを転がった。
 広くて大きいから、隅まで転がっても落ちることはない。
 ベッドの隅っこまで転がって横向きの格好で静止した。
 この奇妙な行動を見られなくてよかった。
 内心で思いながら彼がお風呂からあがってくるのを待っていた。
 仕事を早退して、藤城総合病院まで行った後彼と待ち合わせた。
 今日は移動も多かったからか疲れもひどいのか。
 重くなる瞼(まぶた)に抗えずに、目を閉じた私だったが、
 眠りかけた所で、魔の手によって覚醒させられた。
 骨ばった長い指が、私の上半身をさまよっている。
   うっかり声が漏れそうになる。
 身をよじって、横に顔を向けるとライトに照らされた妖艶な顔があった。
「どこ触ってるの、変態ね」
「ボディタッチじゃないか」
「っ……だ、だめよ」
 言いながらもパジャマの上から頂きを指でくねくねとこねくり回している。
 少し、息が乱れた。
「しないでしょ……」
「しないよ? 味わわせてはもらうけどな」
   いけしゃあしゃあと言い放つ。
 彼の方こそ疲れているから、触れたくなってしょうがないのよ。
 結論づけた。
 私も、触れられるのはとても嬉しいから、抵抗する理由もなかったが、
 彼はふいに、悪戯(いたずら)をやめて、背中から抱きしめてきた。
 お風呂あがりの香り。愛しい人の腕の中の心地よさ。
 またじわりと忍び寄ってきた眠気に抗うように口を開いた。
「明日お休みを取ってくれてありがとう」
「大事な日だろう。そんなこと礼を言わなくていいんだよ」
「それでも、感謝してるから」
 体を離してと小さくささやくと、彼はすんなりと腕をほどいた。
 正面から抱きつく。首に腕を絡めて背中にしがみついた。
「……青、嬉しい」
「俺もだよ。明日は緊張するかもしれないが、俺達らしくいればいい」
「うん」
 髪を撫でられ、こてんと肩に頬を預ける。
 お互い上向きの姿勢で、瞳を閉じる。
 甘いまどろみに包まれながら、この体格差も悪くないなと思った。
 彼の腕の中にすっぽりと収まることができるから。

 翌朝、朝食をとり、私の実家に向けて出発した。
 高速に乗った所で、はっ、と思い出した。
「ねえ、寝室に星空の投影装置あったわよね? 」
 スイッチを入れてもらうつもりだったが、すっかり忘れていた。
「……いきなり何を言い出すかと思えば」
「今日帰ったらスイッチ入れて……プラネタリウム」
「わかった。お望みのままにしよう」
「見たかったの」
「本当の星空のほうが格別だけどな」
「それはそうだけど……」
 余計なことを思い出してしまった。
 さっ、と顔を赤らめた私は気づかれぬように顔を背けた。
 ルームミラーに映っていませんように。
 実家につくと、母が出迎えてくれた。
 和服姿で髪留めをした姿はいつもの母とは別人だ。
 持ってきていた結納品を交換したり、
 水無月家側での儀式を終えると車に乗り込んだ。
   母を後部座席に案内し、彼は狭くてすみませんと申し訳無さそうにした。
 母は、いえいえと朗らかに笑う。
  「お母さん、今日は、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
「二人は着いてから着替えるの? 」
「そうですね」
 マンションからは、ワンピースとスーツで来た私と青だったが、藤城家についてから、和服に着替える。
 今日は仕事に行くときとは違う雰囲気のスーツで、見過ぎると
 どきどきが止まらなくなるので意識しないようにしていた。
「私、場違いじゃないかしら……藤城家のお屋敷でしょう」
「父もお母さんに会えるの楽しみにしてますよ」
 不安を滲ませる母に優しい言葉をかけてくれる。
 振り返ると、母は口元に笑みをたたえていた。
「ありがと」
 小声で言ったら、彼は目元を和らげた。
 長い一日の始まる予感に期待と不安で胸が震えていた。




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