透明な雫



 夢を見ていた。
 心の奥底で願っていた。
 平凡で飽いてしまいそうな日常から、
 連れ出してくれる誰かに出会うこと。
 その人にズタズタに引き裂き、ボロボロになるまで
 何もかも壊されること。
 退屈していたの。
 痺れるくらいの刺激を欲するほどに。
 愚かしい夢なんだと自分でも気づいてた。
 それでも私はあの日常から脱出したかったんだ。
 戻れない場所で、変わりたかった。
 地味で目立たない自分から。
 今までの自分とは別の自分になりたかったの。
 自分ひとりで動き出せば、誰も傷つけやしなかったのかもしれない。
それでも……。
 本当に偶然の出会いだったのかな?
 都合の良い思い込みかもしれないけれど、
 私は用意された出会いだったように感じている。
 はっと目が合った瞬間、足を滑らせて、
 気付いた時には彼の腕の中で。
 あの夜、抱かれて何かを失くし、新しい物を手に入れた。
 永遠にも似た長い時間に思えたあの夜に……。
「……青」
 せいは別の読み方をすると「あお」。
 その名の通り水のように青くて深くて、掴めない。
 貴方の海を私は泳ぎきることができない。
 何度飛沫をあげて溺れても、尚、彷徨い続けている。
 好きになるのに理由はいらなくて、
 嫌いになる理由も浮かばなかった。
 欲しい物をくれないかわりに、あなたはどこまでも優しい。
 ねえ会いたい。
 声を聞きたい。
 またひとつに溶けあいたい。一瞬の交わりだとしても。
 待つことだけが私の意思表示。  今日もあなたを想って自分を飾る。
 薄い赤のマニキュアと、
 爪先にぺティギュアを塗り、彼に愛される女になる。
 少しでも彼に近づきたいからもっと大人の女になりたい。
 昔から「かわいい」なんて言われるより、
爪の形を「綺麗」と言われた方が嬉しかった。
だから自分でも自慢できるくらい
 綺麗な爪を持ちたくて、磨いた。
 かわいいも嬉しいけれど、素直に喜べなかったわ。
 こんな私のどこが? といつも思ってたから。
ずっと長い間、暗くて内向的で、自信なかった
本当はただ自分を全て出してなくて抑えていただけだったのだけど……。
まだあなたに見せていない私がいるのよ青。
 明るい笑顔と声で話すことだってできるんだから。  指で唇を彩る。
 首に体に香水をまとう。
暴れ出す心臓をなだめて、アドレス帳から彼の番号を呼び出す。
『セイ』
 ボタン一つ、数秒に過ぎない。
 冷たくなってしまった手のひらにはじわり、汗が滲んでいる。
 コール音数回の後、待ちわびていた相手に繋がった。
「もしもし……ああ」
 5回目のコールで、彼が出た。
「……今週の土曜日会える? 」
 声が震えた。
「……ああ行くよ」
 大体私の部屋かホテルを使うのが常だ。
「きっとよ」
   念じるように呟いて、通話を切った。
 彼は電話があまり好きではない。
 虚しい電子音が耳につく。
 人の声がない電話の音はとても寂しいと思った。
 二週間会ってないことが不満だなんて信じられない。贅沢になったものだ。
 毎週のように会って肌を重ねていたから、孤独を感じているのと、
 あの夜が心と体に焼きついているから、より恋しいのだろう
 一泊二日を海の側にあるホテルで過ごしたあの日。
 あれほど激しかったのは、あの時が初めてで、暫く泣いてしまって眠れなかった。
 寂しさをかわし合ったあの夜と朝が胸の奥で疼いている。
 甘い痛みが駆け抜けている。
 またあんな風に愛されたい。
 言葉で伝えられない物を感じさせてほしい。
 飽いてしまうまで側にいさせて。
 不毛で矛盾している関係は行き先が見えない。
 彼はただ耐え難い孤独を埋めたくて、私と過ごし、
 私は愛しさゆえに離れられず。
 それともこれは、思いこみなのだろうか。
 嘘をついているのは私か彼か。
(これからもずっと一緒にいたい。
 早く別れの言葉を聞かせて)
 どっちが本心か自分でも掴めなかった。
 体を辿る細長い指先、口づけをする唇。
 そして……私の中へと入ってくる彼自身。
 思い浮かべると体に火が灯る。
 沸騰する。
「青」
 私をどこまでも翻弄する彼は、今どこで何をしているのだろう。
 瞼が震えて、涙が溢れ出す。
 体が疲れて眠りを欲しても寂しくて眠れない。
 せい……。
 ぽろぽろと頬を伝い落ちては、シーツを濡らす涙。
 切なさも嫌いじゃないなんて、言えるのは、  甘い恋人同士に限るのだ。
 携帯に電話をかけて誘うまでどれだけ逡巡したか知れない。
 簡単なことが、中々行動に移せない自分は
 よく彼との関係が途切れてないものだと不思議に思う。
 
 表示された名前に、嬉しさと戸惑いが同時に浮かび、電話に出るのを躊躇う。
 5回のコールが鳴り響いた後、ようやく通話を押した。
「もしもし……ああ」
「……今週の土曜日会える? 」
 震える声は、勇気を振り絞ったに違いない。
「……ああ行くよ」
 彼女ー沙矢ーの部屋で会うのだ。
 俺も休みなので、心ゆくまで共に過ごせる。
「きっとよ」
 明らかな喜びに満ちた声を聞き、内心溜息をついた。
 俺がついている嘘に、未だだまされたままの沙矢は、
 いつだって、切なく焦がれるようにこちらを見つめる。
 そんな彼女に、愛していないと嘘をつく。
 嘘にできず真実になってしまうから、愛しているは言えない。
 彼女のことを抱きたいだけだ。
 そう、愚かにも言い聞かせている。
 衣服を脱いで浴室に入る。
 髪を掻きあげながら、シャワーの熱い飛沫を浴びる。
「幻想に酔うように仕向けているのは俺だな」
 低い声で漏らした言葉は、シャワーの音がかき消していく。
 髪を拭き、バスローブを纏い寝室へと向かう。
 ガラステーブルに置いた白ワインのコックを開ける。
 戸棚から取り出したグラスに注いだ。
 グラスに映るのは、身勝手な孤独に苛まれる一人の男。
 グラスを転がして、匂いを味わうように口元に寄せる。
 口に運んで、一口飲む。
 何故だか、赤の方が好きだと感じた。  
 芳醇な味わいだからだろうか。
 それとも、色が、連想させるから?
 疑問は解けないまま暫く脳内をめぐっていた。


 忙しなく日々は過ぎていき土曜日がやってきた。
 リビングのソファに腰を下ろし、携帯を手に取った。
 短縮から、番号を呼び出し、かける。
『サヤ』と表示されているディスプレイ。
 何度となくかけてきた番号だ。
 片仮名で登録していることに意味はない。
彼女はどう登録しているのか少しだけ気になった。
 3コールの間を置いて相手が出た。
「……青」
「今日、本当に行っていいんだろう」
「え、いいわよ……どうして? 」
 問いに問いで返していた。
「……それとも俺の部屋に来るか? 」
 一瞬、自分が何を言ったのか分からなかった。
沙矢も声を失っているようだ。
 この部屋にも連れてきたことはあるが、会うのは大抵ホテルか沙矢の部屋と決まっていた。
 彼女の部屋だと二人きりを強く意識することができる。
 ホテルなら、周りを気にすることなく過ごせる。
 俺の部屋に呼ぶことが極めて稀なのは、帰したくなくなるからだ。
 いつまでも止めて、抱き殺してしまうことへの恐れ。
 送っていかなければならないのだ。
目を覚ますまでに帰ればいいというのとはわけが違う。
 現金を渡すのは、とんでもない侮辱だ。ホテルに行った時、
 先に帰ってしまった時は、交通費として渡したが、二度とするべきではない。
 そんなのわざわざ考えるまでもなく当然だ。
 肉体のみと、お互いに理解していても、金で繋がる関係ではないのだ。
「……行っていいなら」
 考えを巡らせていると、答えが返ってきた。
 ぽつり、雨のようだったが、はっきりと聞こえた。
「もちろん、構わない」
「……よかった」
「こっちは何時でもいいが、どうする? 」
「じゃあ一時間後に迎えに来てくれる? 表に出てるわ」
 どこか声が弾んでいる。浮足立っているのか。
 たかが俺の部屋に来るくらいで?
「ああ、分かった」
 通話を切って、着替える為に寝室に戻った。クローゼットからシャツとスラックスを取り出す。
 砕けているといえば砕けているだろうか
 土曜日に仕事が入ることはたまにある。
 7月のあの時は、仕事帰りだった。
   仕事帰りでもないのに暑苦しく、スーツは着たくなかった。
 どうやら沙矢は、スーツ姿が好きらしいのだが諦めてもらおう。
 ジャケットもタイもないと物足りない感じもするが、これでいい。
 約束の時間まで一時間弱。
 寄り道する時間は十分ある。
 腕に時計を嵌めて、リビングに向かう。
 置きっぱなしだった財布をスラックスのポケットに突っ込んで、部屋を出た。
 地下駐車場に停めてある愛車に乗り込んで、シートベルトをする。
 車内のダッシュボードを開け、中を確認をして、
 運転に関する全ての準備を整えた後エンジンをかけた。
 街を駆け抜けて、一軒のブテイックに入る。
 上質の物しか置いていないここは、気に入っていてたまに来ていた。
 店員が無駄に話しかけてこないので、ゆっくりと商品を吟味することができる。
 いちいち聞かれずとも自分で決める。
 本来なら、二人で来た方がいいのかもしれない。そうすれば彼女の気に入った物を
 選んで買い求めることができるが、それはできない。
 似合うものを心得ていることが救いというべきか。
 きっと、満足してくれるだろうと信じて選ぶ。
 シフォン生地の白いワンピースは、清楚で可憐な雰囲気を引き立て、
 まさにぴったりだったが、冒険が足りなかった。
(……こんな格好したお前を見てみたいと思うのは身勝手か)
 裾と襟元に黒いレースがついたデザインのワンピースを見て、サイズを確認する。
 ウエストは問題ないが、沙矢が着るには胸元が窮屈だろう。
 店員を呼んで、他のサイズを確認する。
「……既製品ではぴったり合うサイズは難しいですね。
 藤城様はお得意さまですし、お直ししましょうか」
「今すぐ欲しいんですが、できますか? 無理なら、他の店を辺ります」
 笑顔で無理な要求を突きつけた。他の店に寄るつもりは毛頭ない。
 今日渡して、着せたいのだから。
「……一時間ほどお待ちいただけますか」
「分かりました」
 普通通らないはずの要求はあっさり受け入れられた。
 勝算がなければできない賭けではあった。
 馬鹿な事をしている。面倒なことしなくてもいいのに。
 まあ、いい。
 好きでやっていることだ。
 時間に遅れてしまうことになったので、店を出て携帯を手に取った。
 短縮を呼び出しかけると、すぐに出た。
「……どうしたの? 」
「悪い。少し遅れるが必ず行くから」
「あ、うん、待ってるね」
 不安そうだった声は、安堵に変わった。
 行けないと言う電話かと恐れたのだろう。
 車に乗って、時計を見た。
 どうしてか、運転席に座るとハンドルを握ってしまう。
 これから出るわけじゃなくても、惰性で身についている癖だ。
 ハンドルを握り頭を寄せる。
 気は短くないつもりだが、長くもない。
 表に出さないだけだ。
 その時、携帯が鳴り響いた。
 ディスプレイも見ずに慌てて通話を押す。
「……青」
「ああ」
「りんごのケーキって好き? 時間あるし焼こうと思って」
「嫌いじゃない」
「……分かった」
 ぷつり、と途切れた会話に、妙な気分になる。
 まるで本物の恋人同士じゃないか。
 たとえ、夢を見ることで、未来を悲観しないようにしているだけでも。
街の喧騒が聞こえてきて耳障りだった。涼やかに響く沙矢の声と大違いだ。
あの声は、不思議と心と身体を癒す。
 些細なことにも執着している自分に舌打ちした。
 暫く考え事に耽っていた。
 時計を見ればいつの間にやら、かなりの時間が過ぎていた。
 車を降りて、店に戻る。
 店内に入ると、先ほどの店員が、駆け寄ってきた。
「お待たせいたしました。レジへどうぞ」
「プレゼント用に包装してもらえますか? 」
 にこやかに応対され、手際よく包まれていく。
 リボンは、頼んでこちらで結ばせてもらった。
 代金を払うと、丁寧に頭を下げられる。
「ありがとうございました」
 その声を背に、颯爽と店を出た。
 車に乗り込む。
 バッグをする時、助手席に腕を置くと、なぜか寂しいと感じた。
 沙矢が、隣にいることに慣れてしまったのだ。
(だから、嫌だったんだ……)
 心中、苦味を覚えた。
 沙矢の待つアパートへと急ぐ。
 地下鉄の駅からは離れているが、バス停が側にある。
 ルームミラー越しに、ハンドバッグと紙袋を抱えた姿が見えた。
クラクションを鳴らすと、こちらに視線を向ける。
 ふわりと浮かべた微笑み。瞳の奥に陰を潜ませている。
 艶のある長い黒髪は背に流し、蝶のバレッタで留めているようだ。
 軽やかに、車を駐車させると、沙矢が車の側まで歩いてきた。
 小走りする姿もかわいらしい。 



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